浜中津橋

わが国で最初の鉄道用錬鉄橋の生き残り

長柄運河跡地に架かる浜中津橋の側景
 明治時代、橋梁に用いる鉄材はきわめて貴重であり、当初の用途が不用になれば他に転用されることがしばしばあった。この転用を追っていくととんでもなく古い構造物に出会うことがある。国道176号の西にある浜中津橋の来歴の発見はその典型とも言うべきものであり、橋梁史での“高松塚古墳級”と評された。

本の鉄道は新橋〜横浜間のものが最初であるが、六郷川橋梁を初めとしてすべての橋梁は木製の仮橋でスタートした。だから、日本の鉄道用鉄橋は、明治7(1874)年に開通した大阪〜神戸間の下十三川橋、下神崎川橋、武庫川橋が最初である(この区間には芦屋川、住吉川、石屋川もあったが、これらは川底が地表より高い天井川であったので、下をトンネルで抜ける方法が採用された)。
 明治政府は、新橋〜横浜間と同時に大阪〜神戸間の鉄道建設も指令していた(明治3年7月)。直ちに英国人技師により測量が行われ、建設に着手した(3年閏10月)。5年9月にモレル(Edmund Morel)1)の後任として建築師長に着任したボイル(Richard Vicars Boyle)2)が事業を総括し、数人の英国人技術者が分担して彼を補佐する形で工事が進められた。最も早く進められたのは石屋川をくぐるトンネルだった。川をいったんつけ替えて地表にトンネルを構築し、その上に川を戻すという工法が採用された。工事に要する煉瓦は、大浜(堺市)に土地を求め、ここに工場を設けて外国人の指導を受けて生産した。石材は、打出(芦屋市)にあった石材産出所を工事期間中に限り工部省の管轄とすることで調達を図った。神戸から芦屋川隧道までは早期に完成したので、この区間に6年5月から工事用列車を走らせたとの記録がある。おそらく武庫川以東の3本の橋梁の部材を神戸港から運んだのであろう。
図1 単線で竣工した当時の武庫川橋、下十三川橋も同じ形状であったと考えられる(出典:参考文献2)
 これら3本の橋梁はいずれも橋長70ftのポニーワーレントラス3)で、武庫川橋の12連をはじめとして、合計39連が架設された。1873年にイギリスのダーリントンアイアン(Darlington Iron)社で製作され輸入されたと考えられている。材質は錬鉄4)である。最終的には複線用として使えるように設計されたが、当初は単線で開通させたので、側部用の一つと中央用と2列の主構で構成した。
 神戸〜大阪間の鉄道は7年5月に完成。途中の停車駅は三ノ宮(現在の元町駅に近いところにあった)と西ノ宮で5)、神戸〜三ノ宮間だけ複線だった。1日に上下8本ずつの列車が1時間半おきに走り、所要時間は1時間10分だった。
 鉄道輸送の増加に伴い、明治29(1896)年に三ノ宮以東の複線化が行われている。複線化に際して3列目の側部用トラスが追加された。
図2 新淀川が開削される前の淀川水系と下十三橋(明治18年測図)、新淀川の位置を補記した
この時点では鋼鉄橋の製作も可能であったにもかかわらず、最初の設計思想を生かすべく特に錬鉄が使われた。
ころがここで下十三川橋には思わぬ転機が訪れる。29年から淀川改修工事が始まったのだ。この改修によって下十三川橋が架かっていた中津川は廃川となり、新たに新淀川が開削された。 下十三川橋の9連(主構数27)は33年頃撤去されて大阪府に払い下げられ、道路用に改修の上、新淀川に架かる長柄橋へ11連(主構数22)6)、新淀川に並行する長柄運河に架かる十三小橋へ1連(主構数2)が転用された(42年)。
の後、大阪市は目覚ましい経済的発展を遂げ、それに対応する街路の整備が強く求められるようになった。この一環として、昭和5(1930)年に
図3 浜中津橋と周辺の現況
十三大橋が架け替えられることになり7)、これに伴って、十三小橋に転用されていた主構は、すぐ近くの道路橋に再転用された(10年)。これが浜中津橋である。架け替えられた十三大橋、十三小橋に続く国道176号や十三筋は、連続した高架橋になっているため、沿道からのアクセスができない。よって、周辺の市街地から淀川の対岸に向かうには、この浜中津橋を通って十三大橋にアプローチするのである。
 浜中津橋は、橋長22.4m、橋幅4.5m。再転用に際して、長さが不足したため継ぎ足し延長を行ったほか若干の補強を施しているようであるが、全体の形態は大きくは損なわれておらず、明治期の鉄道橋の雰囲気はよく伝えられている。例えば、浜中津橋では図5のように部材をピンで結合しているが、この方法は、設計の考え方に忠実ではあるものの、ピンが損傷したときの補修が困難であるため、大正期にはほとんど採用されなくなったものだ。

図4 トラスの保護のためアルミ製の手すりが内側に取り付けられている
の橋が東海道本線開業時のものと発表したのは、鉄道研究家の亀井 一男氏と倉島 ^一氏(昭和53(1978)年)。また、西野 保行氏と小西 純一氏は詳細な採寸により、土木学会誌に載っている「本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ(久保田 敬一)」にある図面記載の寸法と一致することを確認した。2本の主構が元の鉄道橋の中央用、当初の側部用、追加の側部用のいずれかという点については、下流側のものは明らかに太く、イギリスで製造された中央用、また上流側のものは横桁を載せた跡などから複線化時に追加した側部用のものと、それぞれ判断されている。学会レベルでの歴史的鋼橋調査や近代土木遺産調査も行われ、
図5 ピンで結合されたトラスの部材
現在では、浜中津橋が日本最初の鉄道用鉄橋の唯一の生き残りであるという事実が一般にも浸透しつつある。
 浜中津橋の架かる長柄運河跡地では、まもなく大阪市により淀川左岸線(2期)の事業が開始される予定であり、本事業に伴って浜中津橋は現状のまま存続できないことは必定となっている。大阪には旧心斎橋が緑地西橋として保存されており、浜中津橋を保存することができれば、現存する最古の道路橋と鉄道橋がともに大阪に存することになる。

(参考文献)
1. http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000029236.html
2. 鉄道省「日本鉄道史 上篇」
                                                                  (2009.01.05) (2020.03.07)
  
1) モレル(1841〜明治4(1871)年)は、ロンドン郊外に生まれ、キングス・カレッジを卒業後、ドイツやフランスで学び、明治3年に来日した。日本の国情を考慮して、狭軌を採用することや鉄に替えて木の枕木を使用することなどを考案し、新橋〜横浜間の鉄道建設を指揮した。過労のため結核が悪化して死去した。

2) ボイル(1822〜1908年)は、ダブリン生まれの鉄道技師。イギリスを始めスペインやインドで鉄道建設を経験し、明治5年に来日。神戸〜京都間の建設を指導し、京都までの開業を見届けて離日した。政府への上告書で、京都〜東京間のルートとして中山道ルートを主張しており、島崎藤村の「夜明け前」にも彼の踏査が述べられている。

3)橋梁の構造はおおむね下図の6種に大別されるが、そのうち部材を三角形に組み合わせてせたものを主構造とするのをトラス

  桁 橋     トラス橋      アーチ橋      ラーメン橋     吊り橋        斜張橋

橋と呼ぶ。トラス橋は斜材と垂直材の配置によりさらに分類され、方向の違う斜材を交互に配置する形式をワーレントラスという。ポニーとは「小型」を意味する米国的表現。
 
4) イギリスで名匠(ironmaster)と称されたへンリー・コート(Henry Cort、1741〜1800年)が1783年に開発した、反射炉で銑鉄を溶解し鉄の棒でぐるぐるかき回して不純物を除く製法で精錬したものを錬鉄(Wrought iron)と言う。炭素量が0.02〜0.05%と少ないため粘り気があり、橋梁のほか大砲や錨鎖によく用いられた。
 
5) 6月になって住吉と神崎(現在の尼崎)が開業した。

6) 流水部のみ下十三川橋から転用したトラスの鉄橋とし、高水敷部は木橋であったと伝えられる。


7) 十三大橋については、当該稿を参照されたい。