徳 川 道

幕末の混乱に際しても誠実に履行された請負契約

六甲山のハイキングコースになっている徳川道
 六甲山にのぼるハイカーに愛好されている「徳川道」は、そのいわくありげな名が幕府により開かれたことに由来するとは知られていたが、昭和50(1975)年、工事を請負った谷家から当時の文書が発見され、正確なルートはもとより、工事の受発注のしくみなども解明された。神戸市が設けた「徳川道調査委員会」の3年にわたる努力の結果である。

応4(1868)年 1月11日、三宮神社の前の西国街道で「神戸事件」が起こった。できて間もない明治政府の命で西宮に向かう途中の備前藩の武士が、隊列を横切ろうとしたフランス人水兵を負傷させた事件である。この騒ぎにかこつけて列強は陸戦隊を神戸に上陸させて
図1 三宮神社にある「神戸事件発生地」の碑、当時のものと同形の大砲もある
市街地を軍事統制下においたため、朝廷は急遽「開国和親」を宣言して交渉に当たるも、列強の強い要求を退けることはできず、外交官列席の元で武士を切腹させてようやく決着した。事件の行方しだいでは、神戸が香港のように占領下におかれる可能性もあったわけで、日本史における大きなできごとであった。
 幕府はこのような衝突を避ける必要をあらかじめ認識しており、前年に西国街道の付替えを行っていた。東から来る西国街道を石屋川の土手で分岐、川沿いにのぼって西に折れ八幡・篠原を通って杣谷を遡行、杣谷峠を越えて摩耶山の北の桜谷を西行し、森林植物園を通って北区の小部(おうぶ)に入り鈴蘭台駅北方から星和台の北、藍那・白川を通り、摂播国境を西に進んで高塚山から伊川谷の東の尾根を辿って、長坂を経て明石市大蔵谷で再び西国街道に合流するという長大な迂回路である。


図2 付替えられた西国街道(徳川道)、参考文献掲載のルートを現在の地図におとしたもの


政5(1858)の日米修好通商条約で5年後に約束されていた開港は攘夷派の反対などでさらに5年後に延期され、それでも条約破棄を求める朝廷を、ようやく幕府が説得して慶応3年 6月 6日に至って同年の12月 7日(太陽暦で1月1日に相当する)の兵庫開港が決まった。幕府が大坂代官 斎藤 六蔵を任用して工事を命じたのが 7月23日、ルート確定が9月。11月 4日に工事の入札が実施され、八部郡石井村庄屋 谷 勘兵衛が19,200両(現在価値に換算すると約2億円)で落札して工事に着手した。工事の「仕様帳」によれば、道幅は平均2間(3.6m)、道路中央部をやや高くする蒲鉾形の断面である。橋は幅1間の土橋造りが14ヶ所、そのほか流れに配置した石を踏んで渡る飛び石渡りが21ヶ所、石置渡しが1ヶ所。完成時の全長は8里27丁9間。
 工期短縮のため、勘兵衛は工区ごとに下請けを募り、同時並行的に工事を進めた。東小部村東境から西小部村西境(東小部村、西小部村2ケ村)は東小部村の宇太夫、西小部村西境から藍那村を経て4ケ村入会地境までは藍那村の権太夫、という具合である。そして工事は予定どおり開港の当日に竣工した。幕府と谷家との間に交わされた工事請書、谷家と各村間の下請け契約書、工事完成報告書などは詳細で、この頃すでに現在と変わらぬ大規模工事の受発注システムができあがっており、それを支障なくこなせる社会体制があったことが分かる。
 開港までの突貫工事が完了した2日後、王政復古の号令が下り、世情は激変した。工事代金はともかくも12月29日に幕府から谷家に支払われた。ところが、神戸事件に伴う治安維持のため平野村に進駐した長州藩の一隊は、工事代金のことを知って1月12日に谷家に侵入し、幕府御用金差し押さえの名目で22,375両を持ち去った。もちろん御用金などというのは言いがかりで、新政府の財政基盤の一助にすべく請負金の奪取を狙ったものと考えられる。こうした災厄を受けた谷家であったが、この程度のことで逼塞するような財力ではなかったようで、谷家から下請けへの支払いは誠実に行われた。谷家は明治20年まで返還請求を続けたが、請求は認められず、請負金はついに戻らなかった。
れほどに谷家の心血が注がれた徳川道であったが、利用実態はどうだったのだろう。神戸事件を起こした備前藩の後続部隊は西国街道の通行を禁じられて徳川道に迂回した。このときの様子が「山田村郷土史」に次のように伝えられている。「慶応4年正月11日の事、小部村なる片山陰の田舎に時ならぬ鎧武者の同勢が、しかも600人といふ大勢が突如として現はれた。村のものどもの恐怖は一通りでなかった。(中略)其の口上によると、備前岡山藩の御納戸役の一行であるが、此度御用の次第で東上の途中、先發の一隊が神戸にて外國人と衝突の事件が生じた爲めに、止むなく神戸を通過することが出來ないため此の裏道を通るのである。日は暮れ行く手は摩耶の山奥と聞く、夜中の行軍も困難である。御迷惑ながら一宿の儀御村中に頼むとの事であった。(中略)庄屋年寄村役人は非常召集をやって、一行の宿舎割を定めて、成る丈の厚意を盡したのであった。」宿場もない30kmの山道を進む武士の一行はほとんど落ち武者のような状況であったことが伺われる記述である。徳川道を通行した記録はこの1件しか見あたらない。同年 3月、居留地を避ける経路として新たに現在の神戸駅付近から新神戸駅の南に迂回する道路が設けられるに及んで、徳川道は不要の道路となり8月に正式に廃絶した。わずか数ヶ月の公道であった。
 公道としての徳川道はなくなったが、このうち杣谷から桜谷を経て森林植物園に至る区間はハイキングコースとしてよく利用されている1)。また、白川から藍那に至る区間は両村を結ぶ道路としてその後も利用され、今は「太陽と緑の道」に指定されてハイカーやライダーに知られている。小部付近では、市街化は進む中でかつての徳川道がよく利用されている。また、伊川谷町長坂から終点の大蔵谷までは、路線バスが通るほどに地域交通に活用されている。今回は、神戸山手線(北伸部)や北神戸線に絡まるように伸びる白川から小部の区間を歩いてみた。
図3 白川地区の徳川道の遺構(赤点線)、AからGの記号は本文の記述と対応している
下鉄名谷駅からバスで白川台まで。バス停の先の小さな交差点(図3A)から左を見ると、山裾に住宅が並ぶ。徳川道はここを通って背後の山を越えていたのであるが、そこでは(ここからは見えないが)北落合、神の谷、弥栄台さらには学園都市と大規模な開発が行われ、徳川道はすでに消えている。横断歩道を渡った向かい(B)には幅2m余りの道路として徳川道が残されている。すぐに神戸三木線につきあたってとぎれるが、次の点滅信号(C)から左下におりると農家に通じているコンクリート舗装の道がその続きだ。清太橋(D)を過ぎると神戸山手線の高架橋が見える。建設時には地元説明に通ったなつかしい道だ.。宮前橋(E)を渡ってまもなく大歳神社の鳥居(F)がある。右の平らな道をとると、左手には大きな岩壁(G)が続く。出来高帳に「貳十四間 滑石切取」と書かれている難工事の跡である。これを限られた
図4 仕様に規定された幅員を確保するために岩を削った箇所、工事に従事した人々の苦労が偲ばれる
期間に人力で施工するのは並大抵ではなかったろうと推測される。この先、徳川道は宅地に入ってしまうのでFに戻って大歳神社に寄ってみよう。社殿の石柱に鷲尾家の名が刻まれている。義経が鵯越に向かう際に道案内を務めたと伝えられる鷲尾 三郎の後裔であろうか2)
 神社に隣接する公民館から出て、「太陽と緑の道」の道標を頼りに道をとる。どんどん山を登っていくと10分ほどで尾根に出て道はなだらかになる。よいハイキングコースだ。ところが、左からもうひとつの尾根をあわせ、道が右に曲がったとたん、
図5 集落を離れると徳川道は良いハイキングコースとなる 図6 コースの途中に現れる神戸山手線の巨大な法面
突然、法枠工で固められた巨大な法面が眼前に現れる。神戸山手線の切土だ。つづら折れになった付替え道路を下り、横断橋を渡って再びつづら折れをのぼる。
 まもなく三叉路に突き当たるので、道標に従って右に折れると「御大典記念造林」の碑がある。徳川道はこの碑のやや南を山を掘り割って通っていたことがわかっており、少し進んで祠のあるところで徳川道が左に分かれるあたりから後ろを振り返るとそれらしいくぼみが見える。
図7 石打橋を渡ったところから南にしあわせの村を望む
図8 白川から星和台までの徳川道(赤点線)とハイキングコース、義経道と熊谷道の名は相談が辻で兵を二手に分けたとの伝承に基づく
 ここから徳川道は再びハイキングコースの相貌を見せるが、10分ほど歩くと、下から高速道路を走る車の音が聞こえはじめ、しあわせの村に降りる道を過ぎると車の音はだんだん大きくなって、もういちど法枠工が施された法面が現れる。こんどは北神戸線である。石打橋と名付けられた架道橋で北神戸線を越えると、徳川道の右手はゴルフ場となる。しばらく北上すると横尾辻と呼ばれる三叉路に出る。道標に従って右にとる。
 まもなく道が下り始めるのに気がつく。このピークは横尾塚である。文献3)によると、ここから星和台までは比較検討の結果、徳川道は、南東の支尾根を下って白川の源流を渡りまた東に尾根を登るルートが選ばれたようだ。距離は短いが起伏の激しいルートである。そのためか、この区間はその後 利用されることなく地元の人にも忘れられている。よって、本日も本来の徳川道を探索するのはやめて、このままハイキングコースを進むことにしよう。
 このあたり、明石海峡公園事務所が整備を進めておりところどころ園路が設けられているが、迷い込まずに進もう。遠くから重機の音も聞こえる。この静かな里山がどうなっていくのかちょっと気にかかる。やがて三叉路に着くので、道標に従って「星和台・徳川道」とある方向に行く(本来の徳川道でないことは読者はすでにご存じであるが)。やがて、急に視界が開け田畑や人家が見えるところに降り立つ。相談が辻である。道標はないが右に行く。坂を上りきったところが星和台の住宅地だ。この下を北神戸線がトンネルで通っているはずである。徳川道は、右手から来て星和台の北縁を東に進み、「ゆうゆうの里」のあたりで南に方向を変え、次いで長田箕谷線に沿って鈴蘭公園の方に向かっていたはずであるが、それを思わせるものは何もない。
 鈴蘭公園の北から少し住宅街に入ると、再び徳川道が姿を現す。登り勾配の道を辿り、突き当たりで左に折れて鈴蘭台西口駅を左に見下ろし、次の道を右に折れる。ここからは北区役所の前を通って神戸電鉄三田線のガードまで急な下りが続く。疇(あぜ)の坂と呼ばれる。ガードをくぐって左にとり、蛇行する道路に従って進むと三叉路に出る。この先しばらくは徳川道は神戸電鉄などによって分からなくなってしまっているので、このまま道路を行くと、火の見櫓が見えてくる。かつてはここが小部村の中心であって、昭和の初めまでは高札場もあった。備前藩の武士が一夜の宿を求めたのはこのあたりであったのだろうか。徳川道はここから東に伸びている。途中、左手に自然石の道標が残っている。「右 二たび山 左 まや山」とあることから、この道標は西から来た旅行者に徳川道とこれから我々が進む道との分岐を示すものと思われるが、左に分かれるはずの徳川道は失われている。やむなくそのまま車道を進むと、まもなく有馬街道の二軒茶屋である。

図9 鈴蘭台から小部までの徳川道(赤点線)、市街化している中でよく残されているのは、利用頻度の高かったことを示しているのか
図10 勾配の厳しい「疇の坂」、区役所に通ずる重要な道路だ 図11 徳川道に残されている自然石の道標
(2009.02.16)   

(参考文献) 徳川道調査委員会「徳川道−西国往還付替道」(神戸市市民局)

1) 例えば、六甲砂防事務所のHP(http://www.rokko.kkr.mlit.go.jp/pr_media/hiking/tokugawa.php)。


2) 平氏討伐を命じられた義経は、寿永3(1184)年2月6日に藍那から相談が辻に到達したことはほぼ史実のようであるが、その前後の行路は諸説入り乱れている。そのため義経を導いたとされる鷲尾三郎の出自も東下、白川、多井畑とする説がそれぞれある。この混乱ぶりは筒井康隆の「こちら一の谷」に滑稽に紹介されているのでご一読願いたい。三郎がどの鷲尾家であるにせよ、摂津から播磨にかけて要所に拠点を構えて流通などに従事していた一族の存在が想像される。

3) 参考文献に記された、藍那村の川辺家に保管されていた「新道丁間覚書(慶応3年11月)」と谷家から発見された「西国往還道筋付替御普請仕様帳」との比較による。後者は山の中を通るので、起伏は激しいが前者に比べて田畑の取りつぶしが少なく距離も400間ほど短い。短期間での施工を考え、幕府は後者のルートを裁定したものと考えられている。