|
|
|
|
|
|
|
|
図1 都と諸国の迅速な連絡のためには放射型の道路網が適している |
を超える広域的な地方自治制度である道州制の議論が盛んになっているが、この「道」という地域概念ができたのは、初めて中央集権国家が形成された飛鳥時代にさかのぼる。
中央政府が全国を支配する上で、その意志をいちはやく諸国に伝達する必要があった。ファックスもメールもない時代である。中央で重要事項が決定される都度、使者が各地に遣わされた。そのために道路の整備が必要であった。このような目的を有する道路はどのように計画されるであろうか。
図1に示す模式図において、都からA〜Eの国に連絡するのに(1)の幹線-支線型ネットワークと(2)の放射型ネットワークを比較すると、(2)の方が発出すべき使者の数が少なくて済み、かつ目的地への到達も早いことがわかる。よって、古代王朝は都を中心とする放射型の道路を整備する。
|
|
|
|
図2 8世紀後半の畿内と七道の区分、太宰府が統括する西海道は独立したブロックとして扱われている |
大化2(646)年に出された改新の詔に全国に駅伝制を布くことが定められたとあり、これを契機に諸国と都を結ぶ道路が整備されたと考えられる。大宝元(701)年に制定された大宝律令には、中央と地方を連絡する駅路として、山陽道・東海道・東山道・北陸道・山陰道・南海道・西海道が記されている。
同時に、律令は、諸国を五畿七道に区分するとも定めている。すなわち、都に近い大和、山城、摂津、河内、和泉の国を畿内、その他の諸国を駅路に対応して7つの「道」に属せしめた。東海道という道路で結ばれた伊賀から常陸までを東海道という地域とする類である。
古代の官道は、勅命の伝達や天皇への報告などの使者のほか、赴帰任する国司の一行や外国からの使節団などの公的な旅行者が通行するものとされ、30里(約16km)おきに「駅」を設けて所定の数の馬匹を常備し、使者らはそれを乗り継いで迅速に移動することができた。また、速達性を重視することから、その線形はできるだけ直線となるように設定された。これらの知見から、地名をもとに文書に記録された駅の位置を推定したり、地形図や空中写真で道路の痕跡を判読したりする方法で、古代の道路計画がかなり判明しているのだ。
はここで、山城盆地に注目して諸道の計画を見ていこう。大和盆地に都があったころには、山城盆地には図3(1)のように、東海道と南海道を除く4本の官道が通っていた。長岡京が開かれると、6本の官道が(2)のように再編成されたと思われる。そして、平安京が造営された時、改めて官道の設定が行われた。 |
|
(1)大和盆地に都があった頃は木津川左岸に山陰道と山陽道、右岸に東山道と北陸道が走っていた |
(2)長岡京の造営に伴い八丁畷が整備されて東山・東海・北陸道になるとともに、山陽道・南海道が京から発するように改変された |
(3)平安京から出る官道はすべて羅城門を起点としており、大縄手と鳥羽作道・久我畷により既存の官道に結ばれた |
|
図3 山城盆地における官道の計画 |
「大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐簣等を遣して、山背国葛野郡宇太村之地を相せしむ。都を遷さんが為なり」(「日本紀略」延暦12(793)年正月15日)。この派遣に従った東大寺沙門の賢憬(賢m)がおそらく地相の吉凶を調査したのであろう。その報告に基づき、この地は四神相応の地であり「山河襟帯、自然に城を作(な)す」(前掲書延暦13年11月8日、「遷都の詔」)とされ、桓武天皇の平安京遷都が実現したのであった。平安京が中国の都城に倣って造営されたことは周知のことだが、大きさは東西1,508丈(約4.5km)、南北1,753丈(約5.3km)と長安の1/3程度である。中央の北寄りに天皇が在所する大内裏を配置し、その正面の朱雀門から朱雀大路(幅員28丈(約84m))がまっすぐ羅城門に通じていた。北限の一条大路から南限の九条大路まで13本の東西の大路、東京極大路から西京極大路まで11本の南北の大路を計画し、
|
|
|
図4 平安京は周辺の河川や道路も含めて計画的に配置されていた(出典:足利健亮「日本古代地理研究」(大明堂)) |
さらに小路を縦横に配した。
平安京の計画性は都城の内部だけでなく、周辺の地勢との関係にも及んでいたようだ。ここからは、優れた直感と入念な文献調査で平安京造営に秘められた驚くべき計画性を大胆に解き明かした足利
健亮博士の論考の紹介である。朱雀大路が船岡山を基準にしていることは以前から気づかれていたが、博士は、なぜ鴨川が東京極から約400m離れて流れているのかという素朴な疑問をきっかけに、船岡山と双ケ丘を東西の基準にして4本の河川を等距離に配置するという計画性を発見し、そこから、平安京の周辺に幅128丈のバッファゾーンともいうべき空間が確保されていたという発見に発展した。
平安京は周囲に城壁や濠を設けたわけではなかったから、人々はどこからでも京の内外を行き来することができたのだが、公式の通行に利用される官道はすべて羅城門が起点になっていた。官道はここから5町(約550m)南下したところで分岐して、山陽道と南海道はそのまま南進、山陰道は右折、東山道・東海道・北陸道は左折したという。よって、山陰道と東山・東海・北陸道が東西に走る道路が京域の南に整備されたことになるが、博士は、九条
尚経筆と伝えられる「九条御領辺図」の表示から、これを「大縄手」と呼んでいる。「畷」あるいは「縄手」とは、もともとは測量の基準点もしくは基準線を指すことばだったそうだが、転じて長いまっすぐな道をいう。これを西に行けば樫原(かたぎはら)に至り、そのまま山裾を回れば大枝付近で自然に既存の山陰道に到達できた。東に向かう場合も、おそらく大縄手から最短で従前の官道に繋がる図3(3)のa-bの経路を新設して最短距離で既存の東山・東海・北陸道
山科駅に結んだのではないか。山科のうちでも稲荷山の東麓は藤原氏にゆかりのある土地であり1)、平安京の位置選定の責任者であった藤原 小黒麿の頭にかねてなじみのあるこのルートが思い浮かんだとしても不思議はない。しかし、このルートはあまりに厳しすぎたようだ。時を移さず粟田山路と呼ばれるf-c-eのルートの整備が進められ、それが完成したのちは粟田山路が官道として使われた(「日本後記」の延暦23(804)年6月26日の条に「山城国山科駅を停(と)め、近江国勢多駅に馬数を加う」との記事が見えるそうだが、これは粟田山路の完成により山科駅が不要になったことを示すもので、それまでは官道の駅として機能していたと考える)。
一方、当時、国の唯一の出先機関であり、外交防衛上の拠点であった太宰府に通ずる山陽道は、最も重要な道路であり、羅城門から離宮のあった鳥羽まで直線の「鳥羽作道」を設け、そこから地理上の要衝である山崎までやはり直線の「久我畷(こがなわて)」として測設された。古代の直線状の官道は一般の人々が利用することを想定していなかったから、律令制度が衰微するに伴い廃絶していくものが多かったが2)、久我畷は巨椋池周辺の低湿地を通過するので起伏の少ない平坦な道路であったことが幸いして、その後も利用された3)。現在は国道171号と名神高速道路やいくつかの工場のために部分的につけ替えられているが、図5でAとBを結ぶ直線上にある道路がそれである。
図5 東西南北方向の地割りを斜めに切り裂くように通じる久我畷(大正11年測図)
る初冬の一日、久我畷を歩いてみた。地下鉄竹田駅とJR長岡京駅を結ぶバスはほぼ1時間に1便。久我で降りて、道元の生家である誕生寺を起点に、しばらくバスと同じルートをたどる。この道路(府道
水垂上桂線)は地区の唯一の幹線道路であって、区役所出張所、農協、小学校などが並んでいるのに、歩道がなくバスの離合が困難な幅員。はじめはややカーブしているが、小学校を過ぎたあたりからまっすぐに伸びた道路になる(図6)。
|
|
|
|
図6 神川小学校より南には直線の道路が残されている |
図7 久我畷の行く手に建つ長岡京市スポーツセンター |
外環状線の塚本橋で西羽束師川を渡ると、道は細くはなるがやはり直線で続いている。このあたりはちょっとした工業団地になっていて、工場がいくつか並んでいるが、その塀に沿って久我畷は進んでいる。新幹線を横断する箇所で、東西に走る道路に優先権をゆずるものの、反対側の工場の間から再び畦道のようなのが続く。しかし、ついに長岡京市スポーツセンターにつきあたって久我畷は潰えた(図7)。
これから先は、国道171号と名神高速が久我畷と浅い角度で交差するので、久我畷はしばらくとぎれている。やむなく国道を歩く。再び久我畷とまみえるのは勝竜寺交差点から西に300mほど入ったところである。しかし、すぐに小畑川でルートは消える。
次に久我畷がはっきりと姿を見せるのは府道下植野大山崎線だ。鉄塔を避けている以外は完全な直線である。が、まもなく名神の盛土が前方を遮る。側道にまわりさらに大山崎JCT内の付替え道路に進むと、やがて小泉川にかかる山崎橋のあたりから道はまたもや直線になる。早くも冬の陽は行く手に沈もうとしている。古代の旅人も同じ景色を見て駅路を急いだのであろうか。この道路は最近になって大山崎ICへのアクセスとして脚光を浴びているようで、歩道付きの2車線道路に拡幅されていた。進むうちにやがて、旧西国街道(府道西京高槻線)に至り、本日の行程は終わる。
て、注意深い読者は、図5の中にある「八丁畷」の文字に気づかれたであろうか。これは、長岡京から東国に向かう官道の名残りである。図3(2)のように、現在の六地蔵付近から山科を経て近江に入り、東山・東海・北陸道に連なっていたと考えられている。なお、八丁畷の近くに見える「横大路」は、東西方向の幹線道路を意味する地名であり、この古道に由来する。 |
|
(2008.12.24)(2012.10.15) |
1) 新十条通山科出入口の東に西野山中臣町の地名が残るが、ここが大化の改新を成功させた中臣
鎌足に連なる藤原氏の出身地であると伝えられる。周辺には6世紀末から7世紀前半にかけて作られた「中臣十三塚」という円墳群があった。町内にある折上(おりがみ)神社は和銅4(712)年に社殿を建立し延喜8(908)年に左大臣
藤原 時平が修造したと伝えられるが、境内の「稲荷塚」は古墳と見られ、祭神である倉稲魂神(うかのみたまのかみ)や保食神(うけもちのかみ)は1500年前にさかのぼる極めて古い農耕信仰の姿をとどめると言われる。また、同社のやや北にある花山稲荷も、社伝では延喜3(903)年の創立とするが、境内には弥生時代後期の古墳と見られる「稲荷塚」があり、摂社の達光宮(たつこうのみや)は採鉱・鍛冶精錬の守護神である金山比古大神(かなやまひこのおおかみ)・金山比売大神(かなやまひめのおおかみ)を祀るなど、さらに古い起源を持つのは確実と考えられる。
2) 「更級日記」は寛仁4(1020)年に作者の父 菅原 孝標(たかすえ)が上総介(かずさのすけ)の任を終えて帰京するところから始まるが、この旅には駅伝制のことは一切触れられておらず、仮屋を作ったり私人の家に泊めてもらったりしている。また、東海道のルートも延喜式にあるルートと異なっている。
3) 久我畷の存在が文献に現れる例として「太平記」を挙げることができる。たとえば、巻八の「禁裡仙洞御修法の事
付山崎合戦の事」の段には、六波羅勢が山崎に向かう時のこととして「比勢、始めは二手に分けたるを、久我縄手は路細く深田なれば馬の懸引きも自在なるまじとて、八条より一手に成り、桂河を渡り河嶋の南を経て物集女(もずめ)大原野の前よりぞ寄りたる」とあり、巻九「山崎攻の事
付久我畷合戦の事」の段では、赤松勢が「さしも深き久我畷の馬の足もたたぬ泥土の中へ馬を打入れ」て戦う様子が描かれる。
|