小水力発電の先駆けを京都に訪ねる

嵯峨一の井堰に併設された小水力発電装置
 景勝嵐山と嵯峨を結ぶ渡月橋のやや上流にある「一の井堰」の左岸寄りに、発電設備が取り付けられているのにお気づきだろうか。これが、新エネルギーのひとつと認められた小水力発電の先駆けとなった事案だ。本稿では、本件を始めとして、京都市周辺の小規模な水力発電の歴史と現状を概観しよう。


規模な水力発電といえば、京都ではその歴史は古い。「京都電燈」(明治21(1888)年設立)は、わが国で4番目の電燈会社として、京都府から払下げを受けた高瀬川西岸の土地に本社と石炭火力発電所を置き、22年から配電事業を開始した。24年に琵琶湖疏水の水を使って京都市営の「蹴上発電所」が創業したが、ここで生産された電気は、一部をインクライン昇降用など1)の動力に使っただけだったので、京都電燈は残りを無駄にするわけにはいかないと電燈事業2)に受け入れることとした。動力用の水力電気を電燈用に供する最初の試みである。25年2月に許可を受けた会社は、変圧器などを「大阪電燈」から購入し、蹴上から会社までの送電線を完成させ、12月より受電を開始した。水力発電で供給される豊富な電気を得た同社は、市内の配線を交流式に変更して配電区域を拡大し、点燈料を2度に渡って値下げした。同社の電燈料金は全国無比の廉価であって、これが京都の電灯の普及に貢献した。27年には自社の火力発電所を廃止してすべてを蹴上発電所に依存することになった。 
 一旦は水力に依存することを決めた京都電燈だったが、まもなくそれでは立ちいかないことになる。28年に第4回内国勧業博覧会が京都で開かれ、次いで平安遷都1200年祭の祝典が執行された。市内はぐっと景気付き、電燈の申込みが急増し、蹴上発電所の能力を強化してもそれだけでは電力の不足を生じるに至った。そこで京都電燈は、やむなく高騰する石炭を使って休止中の火力発電を再び運転し、さらに150kWの火力発電機を購入して電力の補給に務めた。
れでも電燈需要の増加はやまず、会社が設備を増強してもすぐに需要が追いつく状態であった。このような中で、「高野水力発電所」の急設が決定された。水車工場を計画していた5名が所有する高野川の水利権を譲り受け、33年5月に出力180kWの水力発電所を完成させた。水車はアメリカンタービン、速度調整器はスプレーグ式、発電機は誘導型交流発電機を使用した。当時、
この方式は最新式として関係者に喧伝されたという。取水口は1.9km上流の旧来の井堰に求め、ここから緩勾配の水路を穿って現地では約27mの落差が得られた。
ちなみに、当時は送電は3相式、配電は2相式とされ、高野水力発電所から3相式3,500Vで堀川中立売に新設した「堀川変電所」まで送り、ここで2相式2,200Vに変換して一般家庭に配電していた。
 高野水力発電所は、関西電力により昭和41(1966)年まで発電に供せられていた。「叡山ケーブル」の山麓側に位置するケーブル八瀬駅から右手に続く「八瀬もみじの小径」という遊歩道が、ケーブルを経営する京福電鉄により平成26
(2014)年に整備された。それを辿ったところに「高野水力発電所跡」という説明板が設置されている。設置者が京都電燈の後裔であるためか京都電燈の業績が異様に誇張されているのは残念だが、高野水力発電所の導水路や制水弁の遺構はよく残されている。料理茶屋「あざみ」の主人によると、同店は先代が発電所の招聘に応じて昭和初年にその前庭に開業したもので、当主も同店の裏の空き地となっている所に発電所があったことは明確に記憶しており懐かしんでおられた。なお、同店の座敷は発電所の放流渠だった上に張り出して建築されており、発電所とある種の連携のもとに開設されたことが伺われる。
図1 京福電鉄により保存されている高野水力発電所の遺構

の後も京都における電灯の需要は留まるところを知らないかのように伸び続けた。新規の電力会社の動きも盛んだった。京都電燈は、固定的施設に多額の資本を要する電気事業は地域独占でなければ多重の投資を必要とすることになって不効率だと主張していたが、政府は自由競争に任ずべしとの見解であって複数の事業者を許可する方針であった。
 地元資本の小規模な電燈会社がまず名乗りを上げた。1つは明治41年から運用を開始した「洛北水力電気」の「柚ノ木発電所」。賀茂川に鞍馬川が合流する左京区静市市原町にあり、出力450kW。次いで42年から運用を開始した「清滝水力電気」の「清滝発電所」。桂川支流の清滝川の右京区嵯峨清滝田鶴原町にあり、出力250kW。しかし、両社とも供給区域を適切に確保することができず京都電燈に合併された3)
 京都市も電燈事業に参入してきた。もともと市の電気事業の目的は動力の供給によって産業の振興を図ることにあり、おのずと電力事業は京都市、電燈事業は京都電燈という棲み分けができていた。ところが、「京都市三大事業」の一環として建設された第二琵琶湖疏水(明治45年)に付帯して、蹴上発電所が4,800kWまで増強され夷川と墨染に2,600kWの発電所が建設され、生じた余剰電力を電燈供給に差し向けた京都市と京都電燈との間に競争が発生することになったのである4)。大正3年に至って京都市は市域の北部を、京都電燈はその他のエリアを担当することとする契約が交わされ、
両者は和解した。
 こうして競争に生き残った京都電燈は、京都府北部から滋賀県や福井県に版図を広げ、配電統制令に基づき昭和17年に発送電部門を「日本発送電」に、配電部門を「関西配電」(戦後の昭和26(1951)年に
発送電部門を統合して「関西電力」になる)と「北陸配電」に、電鉄部門を「京福電鉄」にそれぞれ譲渡することになるまで存続した。
後の発電設備は、上述の諸発電所とは全く規模が違う。関西電力管内でも、火力発電所としては「姫路第二発電所」(昭和48年、平成25〜27年)が408.6万kw、水力発電所としては揚水式の「奥多々良木発電所」(昭和49年)が193.2万kw、原子力発電所としては「大飯発電所」(昭和54年、平成3・5年)の471.0万kwといった具合だ。
 歴史の過程で、高野発電所などの小規模な水力発電は効率の悪さから発電事業の主力からはずれた感があったが、最近、新エネルギーの観点からにわかに注目を浴びている。新エネルギーとは「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法」(平成9年法律第37号)で定義されるもので、太陽光発電・
図2 京都周辺の小規模水力発電所の現況 @清滝発電所 A栂尾発電所 B洛北発電所 C夷川発電所 D墨染発電所
太陽熱利用・風力発電・雪氷熱利用・バイオマス発電・バイオマス熱利用・地熱発電・河川水などの温度差熱利用などが挙げられるが、20年の同法施行令改正で1,000kw以下の小水力発電もこれに含まれることになったのだ。ただし、新規に行う小水力発電は既存の発電以外の用途(灌漑・利水・砂防など)に供される工作物に設置されるものであることが条件だ。
 これのモデルになった事例が嵐山にある。標題の写真に示した「嵐山保勝会水力発電所」だ。大堰川に架かる渡月橋は、照明設備の義務付けの無い昭和9年に架設され、その後の改修においても景観上の観点から照明設備の設置が
図3 「嵯峨一の井堰」に付設された水力発電の電力を用いた渡月橋の夜間照明、LEDを用いており季節によって色が変わる
見送られてきたが、交通や防犯の懸念から地元の「嵐山保勝会」が照明設備の設置を申請していた。その電源を、土地改良区が所有する堰に設置した小水力発電により賄っているのである。堰の1.74mの落差を利用して5.5kwの発電を行うもので、平成17年12月の完成。渡月橋の照明に必要なのは2kw程度なので、残りを関西電力に売電して施設の維持費に当てている。わずかな発電に関西電力が低圧で連系したことは同社の大きな貢献であった。
 また、電気事業者が一定以上の新エネルギーを使用することを義務付ける「電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法」5)(平成14年法律第62号)においても、1,000kW以下の水力発電は新エネルギーに該当するようになった。おそらくそのためであろう、関西電力は廃止を免れた京都市近郊の小規模な水力発電所を適宜 改修しているようであり、今後も使用し続ける考えと見受けられる。
力発電は、化石燃料に乏しいわが国にあって貴重な自然エネルギーである。大地に降った雨や雪が海に注いで蒸発し雲となって再び雨や雪として大地に戻ってくるのであるから、水力は消耗することのない再生可能なエネルギーと言ってよい。しかも、太陽光発電のように大きな面積を取ることもなく、昼夜を問わず年間を通して安定した発電が可能だ(太陽光発電の設備利用率が12%程度であるのに対して小水力発電は70%程度)。小水力発電は既存の施設に付属するものなので新たに水利権を取得する必要は乏しいが、河川法の許可などの法的手続きは必要である。これの簡素化が普及のためのひとつの課題だろう。

(参考文献) 京都電燈株式会社「京都電燈株式会社五十年史」
 (2017.02.21)

1) 当時は直流発電機を使用していたので送電できる範囲は約2.2kmに限られていた。そういうこともあって、一般から電力の需要があったのは2社だけであった。

2) 当時は電気事業を2分し、一般家庭に電燈用の電気を供給する電燈事業と工場などの動力としての電気を供給する電力事業を区別して考えられていた。

3) やや遅れて大正11年に、清滝発電所の上流に当たる右京区梅ケ畑川西町に「帝国電化」が出力750kwの「栂尾発電所」を設置したが、13年にやはり京都電燈に移管されている。なお、これらの京都市北郊の発電所は、昭和15(1940)年の京都市との供給区域交換により、京都電燈から市に譲渡された。現在は関西電力が管理している。

4) この激しい競争は「同一区域内に両者の送電並に配電線を混淆し甚だしきは一戸にして両者より供給を受くるの奇観」(京都市電気局「京都市営電気事業沿革誌」)を呈したばかりか、「競争につけ込む中間の不良媒介者は需要家を唆して無料点燈」(参考文献)させたので、両者とも料金の収納状態が非常に悪化し市政の大問題になったという。

5) 「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法」(平成23年法律第108号)の施行に伴い本法は廃止されたが、廃止前の電気事業者による新エネルギー等の利用に関する規定は、当分の間、なおその効力を有すると附則に規定されている。