問題の続発に翻弄された奈良市水道


カフェに利用されているかつての「市坂ポンプ所」
 多かれ少なかれプロジェクトを遂行するには支障となる問題を解決していくことが必要だ。だが、奈良市の創設水道の場合はどうだろう。本当に次から次へと問題が現れて関係者を翻弄した。今回は、この事例でもってプロジェクトのマネージメントについて考えてみよう。

図1 奈良市を流れる河川と創設期の奈良市水道施設
良市は水事情の悪いところだ。一説では、平城京を移すことになった理由が水不足による悪疫流行だったとも言う。奈良市街地を流れる川は東部の大和高原に源を発しているように見えるが、その集水域は市街地のほんの周辺だけで、大和高原に降った雨の大部分は奈良には来ない。木津川に流れ込んでしまうのである。
 明治以降、奈良市も都市化が進み人口が次第に増加した。この状況で必要な水が確保されないと市民の衛生問題に発展する1)。水道敷設の機運が高まった。さらに、木造の文化財を多く擁する古都であるから、観光都市としての発展のために防火対策としての水道の必要も指摘されるようになった。水道を希望する声は高まり、たびたび新聞で取り上げられる問題となった。これに応えて「臨時市是調査委員会」2)が始めて水道について審議することになったのは明治42(1909)年9月のことだった。
 ここに至るまで、奈良市は2つの案件から水道の敷設を要望されていた。その1つは「奈良ホテル」である。外国観光客の増加を見越し、42年の開業を目指して帝 国鉄道院が建設していたのである3)。水洗便所に大量の水を消費するホテルは、井戸から湧出する水量では足りないとして眼前の「荒池」を水源にしようと試みた。荒池は、天正15(1589)年に豊臣 秀長の命で築造されたと伝えられるが、その後 荒廃していたのを三条村など3村が費用を拠出して明治21年に農業用のため池に修築していたものであったから、簡単に協議がまとまるはずもなかった。窮した鉄道院が、市に協力を求めてきたのだ4)。市には水道に関する資料がなかったので、鉄道院の技師らが春日山麓一帯を歩き尽くして水源を探し当て、市の助役や収入役が立ち会って実測調査を行った。しかし、干ばつを心配する下流地域の了解を得ることはできず、水道は実現しなかった。結局、奈良公園内の池から水を引くことにして42年10月にホテルは開業した。
 もう1つの案件は、陸軍歩兵第53連隊がこの年の3月に奈良市高畑町(跡地は奈良教育大学などに転用されている)に移ってきたことである。この移駐は県・市も歓迎し市民も提灯行列などで祝ったのだが、早速 水不足に困ることになった。兵営の中には18本の井戸があったが、その湧出量が予想以上に少ないために炊事・洗濯・入浴などに支障を来し、この不衛生な状態のために2,000人の将兵のうち80人余りが衛戍病院に入院するほどだった。連隊では、これ以上の兵営内での鑿井は限界だとして、能登川の上流に水源を求めることを内定した。その場所は奇しくも奈良ホテルが求めた水源と同じだった。連隊は、土地の使用許可と流水の使用権について県市に協力を求め、地元との交渉を強く依頼した。7月末に協議がまとまったのであるが、実際の工事が地元への説明とは異なり潅漑用水取入口より上流に堰を設けたとして地元が市に異を申し立てるというような混乱を経て、翌年11月になって完成を見た。
の2つ5)の経験から、奈良市は、市の発展のためには水道により安定的な給水を確保することの必要性を強く認識したのだろう。43年度の予算に3,000円の調査費が始めて計上されたのである(以後、毎年予算を計上している)。先に臨時市是調査委員会は佐保川の上流から取水することを提案していた。市は専門の技師を迎えて、この案に沿って測量等を行い、2年かけて水道敷設案を策定して内務大臣に申請したが、省から実地調査に派遣された技官は佐保川は水源として不十分であると判断し申請は却下された。そこで大正元(1912)に、市は佐保川水源案の代わりに鑿井案と打滝川(安郷川の5kmほど東を北流して木津川に注ぐ河川)水源案を並行して検討することを決定した。鑿井案については、春日山麓で市長らの立ち会いの下に井戸の試掘を開始したが、半年かけても所要の湧水量が得られずやむなく中止になった。打滝川水源案については、柳生村と契約して水質調査を行ったものの、別途「笠置水電」が出願していた発電所設置が許可された(3年1月)ため、ここから取水するのは至難となってしまった。両案とも実現困難となった事態に、1月10日付け「奈良新聞」は「鑿井工事は予期に反し打滝川用水絶望なりとすれば奈良市の水道敷設は画餅に終わるの止むなきに至らざるか、これ市民の大いに考慮すべき問題なり」と書いている。
 そうこうしているうちにまたもや問題が持ち上がった。鉄道院が奈良駅を拡張してここに機関庫を作ることを計画し、大量の水を使用することから市に協力を求めてきたのである。市は、機関庫があれば奈良駅が交通の中心になることから、機関庫の工事が完了するまでには水道が一部は開通するだろうと考えてこれに協力することを約した。
 そのためには行き詰っている水道敷設を打開しなければならないと、再び技師を任用することになり大阪市の柴島(くにじま)浄水場建設に従事した経験を持つ住田 義夫をして調査に当たらせた。住田がこれまでの調査を吟味した結果、木津川から取水すべきとの考えに達し、早速 付近一帯を測量した。そして、就任後3か月の3年7月に「奈良市上水道設計説明書」を完成させた。それには「水源ハ京都府相楽郡木津町大字鹿背山字一本松トシ茲ニ取入口ヲ設ケ木津川流水を「サイホン」式鉄管ヲ以テ取水シ取水喞筒ニヨリ浄水場ニ導キ茲ニ於テ濾過シタル浄水ハ更ニ送水喞筒ニヨリテ直径16吋(約40.6cm)鉄管ヲ通ジ距離約60町(約6,550m)木津川入口低水面より約300尺(約91m)ノ高サニアル奈良市奈良坂町ニ設置スル配水池ニ送水シ同池ヨリ自然流下ニヨリテ市内ヘ配水スルモノニシテ市内高地区ニ属スル一部分ノ給水ハ同配水池ヨリ更ニ再ビ高地区配水池ニ揚水シ之ヨリ配水スルモノトス」と記されている。第1期として計画人口5万人、給水量 平均毎秒1.74立法尺(約53l)を予定し、4年度に起工して6年度に竣工することとしていた。市は直ちに内務省に水道起業許可を、大蔵省・奈良県に国庫・県費補助を申請した。
 機関庫は3年12月に着工し順調に工事が進んだ。ところが、国庫補助が見送りとなるなどして市の水道は4年度には着工できなかった。いろいろな水源に打診した市は、予定どおりに機関庫に送水するにはこの方法しかないとして、急遽 ウワナベ池と水の使用契約を結び、ポンプや管路を施工して鉄道院の要求に間に合わせた。臨時応急の措置という位置づけであった。
 第1期計画の着工を前に、またもや問題が持ち上がった。折からの「欧州戦乱の影響を受けて、鉄価非常に暴騰し殆ど3倍に達したれば(中略)奈良市の水道は大影響を免れず、到底工事を遅延して平和の克復をまち鉄の下落をまたざるべからずというもあれど(中略)徒に工事を遅延せしむる能わざるの事情もあれば・・・」(大正4年12月26日付け「奈良新聞」)というものである。が、市には逡巡はなかったようだ。事業費・工期を変更した新たな水道施設計画を策定するとともに、5年8月には木津水源地工事に着手し、11月には同地で起工式を挙行した。ところが、やはり鉄価の高騰は事業を圧迫し、ついに7年10月には工事中止のやむなきに至った。しかし、11月に第1世界大戦が終了し、国庫補助増額申請などを経て8年7月から再開することができた。
 そして9年12月になってようやく一部(奈良機関庫、民家16戸、湯屋4軒)への給水が叶った。全部の通水ができたのは11年9月だった。5月に公会堂で盛大な竣工式が挙行され、3日間にわたり市内でさまざまな祝賀行事が行われた。その中で提灯行列に参加した小学生は「たった一ねじまはしたら 木津の川からトクトクと
図2 概成して濾過砂を入れるばかりになった木津浄水場、画面の右に牛の姿が見える(出典:参考文献1) 図3 高地区配水池の突固め工事、姉さんかむりした女性が重錘の綱を引いている光景か(出典:同左)
野こえ山こえ阪こえて きれいな水が出てきます ぢーやは風呂に水いれた ばーやはせっせと拭掃除 坊やも一人で水まいて 母の手助けいたしませう」と歌ったという(大正14年4月24日付け「奈良新聞」)。なお、総工費は153万1,870円を数えた。
 明治42年以来、続発する問題に翻弄されながらようやく給水に漕ぎ着けたわけだが、未経験からくる見通しの悪さも重なって関係者の苦しみは並大抵ではなかった。後手に回った対応がいかに労多くして効率の悪いものか、本稿を通じて看取できるであろう。わが国の近代水道は、横浜市(明治20年)・函館市(22年)・長崎市(24年)など伝染病を受け入れやすい港湾都市から先鞭をつける形で整備されてきたのだが、この流れとは別に岡山市(38年)・秋田市(40年)・三好郡池田町(41年)などで早期に水道敷設が行われていることは、地域固有の水問題に率先して取り組む地域があったことを示している。
良市の水道は、その後 数次にわたり拡張・強化されて現在に至っているが、当初の施設の現況を見ておこう。まず、「木津浄水場」につては、創設期の沈澱池(長さ140尺(約42.4m)、幅100尺(約30.3m)、深さ11尺〜11.5尺(約3.3〜3.5m)) 2池、緩速濾過地(長さ100尺、幅75尺(約22.7m)、深さ7〜7.2尺(約2.1〜2.2m)) 4池、ポンプ室が現存しているという。奈良市奈良阪町に設けられた「低地区配水池」は、海面上290尺(約87.9m)以下の地域に配水するもので、長さ66尺(約20.0m)、幅62尺(約18.8m)、深さ11〜11.2尺(約3.3〜3.4m)の配水池2池を擁していたが、昭和56(1981)年に新しい池に改修されている。ポンプ室上屋と敷地境界の壁は当時のものという。川上町の東大寺境内に設けられた「高地区配水池」には長さ86尺(約26.1m)、幅39尺(約11.8m)、深さ12〜12.5尺(約3.6〜3.8m)の配水池2池が整備され、現在は使用されていないが施設の一部は明確に現存している。ここから市内を望むと目の高さに東大寺大仏殿の屋根が見え、
図4 木津浄水場の現況、沈殿地などが現存している
水道のもう一つの目的であった文化財防火が充分に考慮されていたことが実感できる(だからこそ東大寺境内に設置できたのであろう)。東之阪町にある「奈良市水道計量器室」は、低地区配水池と高地区配水池を結ぶ水管上に現存するオランダ積み煉瓦造りの平屋建て地下1階の建物で、1階には計量器2器、地下にはポンプ1機が設置されているという。
 創設期のものではないが、図1には木津川市市坂にある
図8 ポンプ 1機を残すカフェVERT DE GRIS」の店内、水道施設の秀逸なリノべーションだ
「市坂ポンプ所」を示しておいた。これは第2期拡張計画で整備されたものであり、木津川浄水場からの送水を補助すべく4機のポンプが設置されたのだが、そのうち1機が保存されて建物は「VERT DE GRIS」というカフェになっている(標題の写真)。水道施設をこのようにリノベーションする事例は珍しい。
図5 改修されて稼働中の低地区配水池、ポンプ室上屋などは当時のものが残るという 図6 高地区配水池の点検用通路の入口、古典的なファサードが特徴 図7 水道計量器室には水をかたどった意匠が施されている、端正な煉瓦の外壁が美しい
(2017.01.16)

(参考文献)
1 「奈良市水道五十年史」(奈良市水道局)
2 「奈良県の近代化遺産―奈良県近代化遺産総合調査報告書」(奈良県教育委員会)

1) 水道工事に着手する大正4(1915)年のことではあるが、市が行った「奈良市衛生事項調査書」に、市内の井戸4,534本のうちそのまま飲用に供せられるもの14.6%、煮沸・濾過して飲用に供せられるもの51.6%、全く改善を要するもの34.4%というデータが掲載されていて、水道の必要性が衛生の観点から認識されていたことが伺える。

2) 奈良市の重要課題を審議する委員会で、人望篤く市政に功労多い者を委員に委嘱して明治42年7月に設置されたもの。

3) 奈良には外国人を宿泊させる施設がなかったので、これを受け入れる体制を整えるべく、「奈良実業協会」が関西鉄道に要請してホテルを建設していたが、関西鉄道は明治40年に鉄道院に買収され、ホテル事業も鉄道院が承継することになった。なお、奈良実業協会とは、同志社で新島 襄の指導を受けた木本源吉が24年に21人の実業家を糾合して設立した団体で、民間の立場から奈良市の方向性を議論し、公会堂・物産陳列所の建設、連隊の誘致、県立学校の設置、上水道の整備などを建議していた。

4) 明治23(1890)年に発出された「水道条例」において水道の敷設は市町村の役割であることが示されていたので、市に求めてきたのである。

5) 実現しなかったが、市の水道と関係した案件がもう1つある。奈良県が「奈良公園改良調査会」を発足させ(42年)、春日山中に設ける貯水池を中心に動物園・植物園・運動場・遊歩道を整備し市内から電車を敷設するという構想を打ち出した件である。ここでも水源が大きな問題となったが、一方ではこの貯水池が水道に利用できることが期待された。