わ け

和気 清麻呂1)の志を今に継ぐ

和気 清麻呂が水路に利用しようとしたと伝えられる河底池
 大河ドラマの主人公にもなった真田 信繁(幸村)が「大坂夏の陣」で布陣した茶臼山に接する天王寺公園の一角に、河底池がある。この興味深い名前は、和気 清麻呂(天平5(733)〜延暦18(799)年)が河内川の水を大阪湾に流そうと試みた人工河川の跡だからという。本稿では、その跡とされるところを辿りつつ、排水の悪い河内平野における浸水対策の今昔を探った。

代、上町台地の東から生駒山地の麓にかけて広がる河内平野では、しばしば洪水が発生して人家に浸水するとともに、水田の長期の冠水により稲が腐損して飢饉が発生していた。例えば、「続日本紀」延暦4(785)年の条では、河内国で30か所も破堤する激しい水害があって「洪水氾溢し、百姓漂蕩して或は船に乗り或は堤上に寓し、〓食絶之して艱苦良(まこと)に深し」(〓は火へんに良)と記録されている。
図1 古代の河内平野の河川と和気 清麻呂が開削しようとした水路(諏訪部 順ほか「近畿地方の古地理に関する調査」(国土地理院時報No.94所収)・阪田 育功「河内平野低地部における河川流路の変遷」(柏原市古文化研究会「河内古文化研究論集」(和泉書院)所収)等をもとに作成)、河川名は近世のものを記入
河内平野が水害に悩まされたのは、大和川を流れてきた水が平野の西に延びる上町台地に阻まれて行き場を失ってしまうからだ。古く仁徳天皇は「難波の堀江」を鑿って「南の水を引きて西の海に入れ」(「日本書紀」仁徳天皇11(323?)年)ていたが、これとても水勢に勝る淀川に競り負けて、大和川の派流からの通水は十分でなかったことが予想される。
 この事態に、摂津大夫であり民部大輔にも任じられていた和気 清麻呂は、心を痛めて対策を検討したのであろう。延暦7年にいわば河内川放水路というべきものを建議した。「河内・摂津両国の堺、川を堀り堤を築き、荒陵(あらはか)の南より河内川を導き西に海へと通ず。然らば即ち沃壌益々広く、以て開墾すべし」(「続日本紀」)と。すなわち、仁徳天皇の堀江よりもさらに南に水路を堀り、大和川の派流から直接に大阪湾に排水しようとしたのだ。
 しかし、事業は失敗に終わった。清麻呂の死去した延暦18年の「日本紀略」の記録に「河内川を鑿ち直に西海に通じ水害を除かんと擬すも、費す所巨多にして功遂に成らず」とある。決して事業の必要性がなくなったのではない。その後も水害は続発したことが記録され、朝廷は河内国の税を減じたり新銭を与えて堤防の用に充てさせている。それでも洪水は収まらず、嵯峨天皇は「河内国の境、害を被ること尤も甚し。秋稼之を以て淹傷し、下民其れに由りて昏〓す。朕、今事に即して斯の地を経歴し、日に触れて憂を増す」(〓は執の下に土)と述べて、貧民の税を免除するよう命じている(「類聚国史」弘仁12(821)年)ほどである。この事業を推進できるだけの人がいないためのやむなき中止と考えることもできよう。
在も生野区から天王寺区にかけて連続した低地が確認でき、河底池のほか、堀越神社・堀越町・河堀口(こぼれぐち)・河堀(かわほり)町・河堀(こぼれ)稲生(いなり)神社などの地名が残る。これが清麻呂が放棄した水路の跡だとされている。
 図1で、平野川は、8〜9世紀には河内平野を幾重にもわかれて流れる大和川の本流というべき重要な派流で、大阪文化財研究所の発掘調査では幅が200mほどあった。これが河内川とよばれるもので、A付近で西除川と合流していた。清麻呂が計画した水路はここを起点にしていたと思われる。ここから北西に流れて源ケ橋(げんがばし)2)近くのBで猫間川と交差し、さらに北西に上町台地を開削して河底池に至り、そこから西方に落とそうとしたのであろう。
 河底池の北にある茶臼山は長く古墳だと考えられ、河底池はその濠だと考えられていた。というのは、日本書紀に、「四天王寺を難波の荒陵に造る」(推古天皇元(593)年)との記述があり、茶臼山がここでいう荒陵に比定されていたからである。しかし、昭和61(1986)年に行われた発掘調査で、古墳時代に作られた可能性のある人工的な盛土であることはわかったが埴輪や葺石などが確認できなかったため、古墳説には疑問符が付くことになった。茶臼山に隣接する和気山統国寺はもとは百済古念仏寺があったところで、付近に渡来人が住んでいたことが想像される。河底池が古墳の濠でないとすれば、渡来人が築いたため池だったのかもしれない。いずれにせよ、清麻呂はこれを水路に利用しようとした。
 以上に述べたように、清麻呂の計画はなかなか優れた着眼であったと評価できるが、そのルート最高点は現在の谷町筋と交差するあたりで、標高14.2m。これは源ケ橋の4.9mnに比べて10m近くも高い(標高はいずれも地理院地図で現況値を測定したもの)。当時の技術ではこれだけの掘削ができなかったということなのだろう。
 河底池の縁に立って西を見ると、10mほどの崖の下に動物園や新世界の歓楽街が広がる。河底池を含む上町台地を掘り下げることができたら河内川の水は問題なく大阪湾に流れたはずだ。清麻呂の無念が伝わってくるようだった。
麻呂の時代から1,200年余り。その後、文禄6(1596)年の豊臣 秀吉による淀川の築堤や、宝永元(1704)年の大和川付替えによって、寝屋川は淀川や大和川の水系から切り離され、これらの河川の水が寝屋川を経由して河内平野の低地部に流れ込むことはなくなった。しかし、河内平野からの円滑な排水は依然として防災上の課題だ。清麻呂の着想は今も有益なのだ。
図2 河内平野から上町台地を横断して整備が進む地下放水路や地下河川
そこで、現代の進んだ土木技術を用いてこの課題を解決するため、地下放水路や地下河川の建設が推進されている。
 まず取り組まれたのが「平野〜住之江下水道幹線」いわゆる「なにわ大放水路」で、大阪市が昭和59(1984)年度に着工し15年余の歳月をかけて平成12(2000)年3月に完成させた。総延長12.2km、最大管径6.5mの放水路で集められた雨水は住之江抽水所で住吉川に排出される。計画排水量は73m3/秒。
 大阪府においても、寝屋川水系の浸水対策として「寝屋川南部地下河川」と「寝屋川北部地下河川」という2本の放流施設の建設を進めている。南部地下河川は総延長13.4km、最大管径9.8mの地下河川で、既に完成した11.2kmは周辺の24kmの下水道と連携して96万m3を暫定的に貯留する。暫定利用の状態でも浸水対策に効果を挙げている3)。最終的には南津守に設置するポンプで180m3
図3 なにわ大放水路の内部(出典:
http://www.city.osaka.lg.jp/
templates/jorei_boshu/cmsfiles/
contents/0000303/303147/1-4.-5.pdf)
を排水する計画である。一方の北部地下河川は総延長14.3km、最大管径11.5mで、平成4年度に着手して西三荘水路と交差する鶴見立坑から上流の6.6kmはすでに完成し、暫定的に20万m3の貯留槽として供用されている。それより下流は、大深度地下を使用するよう都市計画の変更を行って事業化している。淀川貨物駅跡に建設するポンプ場は計画排水量250m3/秒を予定している。
 これらの施策により河内平野の治水安全性は着実に向上している。泉下の清麻呂はこれをどのように見ているであろうか。
河底池を渡って茶臼山に行く朱塗りの橋は和気橋と名付けられている 昔は神社の南の一段窪んだ土地が濠であってそれを渡って参拝したという堀越神社 庚申堂の南に残る清水井戸地蔵尊、湧水の多かったことの名残りである  近くに祀られている河堀稲生神社、清麻呂が完工を祈ったと伝えられる
寺田町駅の下をくぐる市道大道天王寺町線が清麻呂の水路の跡とされている 現在の源ケ橋交差点、国道25号に生野本通り商店街が交わる 源ケ橋の親柱と同じ石柱を建て看板にしている源ケ橋温泉

図4 和気清麻呂が試みた水路に関係する事物
 (2017.03.09)

1) 備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。当初は磐梨別(いわなしわけ)姓を名乗る地方豪族だったが、次第に中央政界に知られるようになって何度か改姓した。称徳天皇(在位 天平宝字8(764)〜神護景雲4(770)年)の意に反してその寵愛する道鏡を皇位に就けることを妨げる神託を宇佐八幡宮から持ち帰り、天皇の怒りを買って流罪となったが、天皇の崩御のあと復権し桓武天皇(在位 天応元(781)〜延暦25(806)年)のもとで実務官僚として重用された。河内川の工事に先立ち延暦4年に神崎川と淀川を直結させる工事を行っているが、結果は芳しいものではなかったらしい。また、平安遷都を進言し自ら造営大夫として尽力した。

2) 大和街道が猫間川を渡る所に架かっていた橋を源ケ橋と呼び、現在も交差点名に残っている。阿倍野区のホームページ(http://www.city.osaka.lg.jp/abeno/page/0000001309.html)によると、初代の源ケ橋は猫間川ではなく清麻呂が施工した堀江に架けられたものだという。この説が正しければ、清麻呂の工事が実際にこの付近で行われていたことになる。その後、橋は廃絶したが、文化年間(1804〜1818年)に猫間川を渡る旅人から金品を巻き上げていた源という渡し守がその罪を悔やんで架けた橋を源ケ橋と呼ぶようになったという(http://www. city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000045.html)。なお、「続日本紀」天平勝宝8(756)年2月条に孝謙天皇が難波に行幸した記録があることから、大和街道(当時は「渋河路」と呼んだ)は早くから拓かれていたはずだが、猫間川の規模から考えて19世紀まで大和街道に橋がなかったのを架橋技術の面から説明するのは難しく、むしろ猫間川が盛んに水運に利用されていたために架橋が遅れたとみるべきではないだろうか。源という男も一介の渡し守ではなくて猫間川の舟運を支配していた人物かもしれない。

3) 竹村 公太郎氏は、寝屋川南部地下河川が暫定的に雨水を貯留するようになってから浸水戸数が激減しているとして、すでに事業効果が発現していると指摘している(http://www.
miyagikencenter.or.jp/rengoukai/zenkoku/kaigi-14%20touhoku/inhurasutorakutya.pdf)。