旧福知山線生瀬〜武田尾

ハイキングコースになった鉄道廃線

溝滝尾トンネルから望む武庫川第2橋りょう
 JR宝塚線(福知山線)は、生瀬駅を過ぎると道場駅まで連続するトンネルを高速で駆け抜ける。これは昭和61(1986)年に付け替えられた新しい路線で、もとの路線は武庫川の峡谷に沿った風光明媚なルートだった。廃線になった旧ルートのうち生瀬〜武田尾間は、平成28年11月15日からハイキングコースとして開放されている。本日は、このハイキングコースを辿りながら鉄道の遺構を探すことにしよう。

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R宝塚線(福知山線)を敷設したのは「阪鶴鉄道」である。明治30(1897)年、尼ケ崎〜池田1)間を営業していた「摂津鉄道」を買収し、軌間を762mmから1,067mmに改軌するとともに、池田駅の南で大きく西に転じて宝塚に達する路線を建設した。翌31年には生瀬(当時の駅名は「有馬口」)まで開業し、32年に三田・篠山・柏原を経て福知山南口(福知山市内田町付近、現存せす)までの開業を果たした。この建設を指導したのは、山陽鉄道で技師長をしていた南 清。
 このうち工事が難航したのは宝塚〜三田間だった。この間の伝統的な経路は、生瀬西郊の木之元(このもと)まで武庫川に沿って進みここで武庫川と別れて名塩から赤坂峠を越えて下山口に向かう丹波街道のルートであり、現在も国道176号や中国道がこれを採用している。ところが鉄道ではこの急坂は越えられないことから、阪鶴鉄道は時の逓信大臣 黒田 清隆に技師の派遣を願ってルートの選定を依頼した。選任された佐竹技師が調査の結果、武庫川の峡谷に沿って敷設することになり、
最急勾配は1/70(≒14.3‰)でおさまったものの武庫川を6回渡りトンネルは11本に及んだ(大正11(1922)年に明かり区間1箇所をトンネル化して12本になった)。この難工事に、会社は工事中断を迫られるほど資金繰りに苦しんだという。
 阪鶴鉄道は40年に国有化され、その後は福知山線となって大阪と北近畿や山陰を結ぶ優等列車が運転される時代が続いた。そして、
図1 生瀬〜武田尾間の旧福知山線の廃線敷
新幹線の岡山までの開業(昭和47(1972)年))とともに山陰方面へのメインルートとしての立場を失う一方、昭和55年頃から三田市と神戸市北区にまたがる「北摂ニュータウン」の入居が始まり、単線非電化運転していた福知山線の近代化が必要となった。しかし、武庫川の渓谷を走る区間での複線化が困難であったことから、国鉄は生瀬〜道場間にトンネルの連続する複線の新線を建設し61年8月1日より運行を開始した。翌年、新三田以南の区間にJR宝塚線の愛称が与えられている。
 さて、廃止された区間のうち武田尾〜道場間では橋梁が撤去・転用されたが、生瀬〜武田尾間ではレールは撤去されたものの構造物はそのまま残され、非公認のまま事実上のハイキングコースになっていた。このたびJRが構造物の安全対策を、市が清掃や巡回などの日常管理を行うとする協議が成立し、平成28(2016)年11月15日から正式に一般開放された。
瀬駅を降りて西進すると国道176号の西宝橋南詰めに出る。ここを左折しさらに西に進む。廃止になった福知山線は、左手の山をトンネルで抜けていた。大多田川橋からは封鎖された城山トンネルの坑口と大多田川橋梁の橋台を望むことができる。
 ところで、目前の大きな断崖を猿首(さるこうべ)岩という。江戸時代、この下を通る丹波街道は危険だとして、小浜宿から武庫川左岸の丘陵(現在の「青葉台」や「花の峰」の北側)に上がって対岸の木之元に向かう「青野道」を通行することが横行したそうだ。それでは生瀬宿の経営が成り立たないと、生瀬の人たちは宿場の存亡をかけて猿首岩を削って道を開いたという。今でもここは国道176号の難所であって、申し訳程度の歩道がついているに過ぎない。兵庫国道事務所が「名塩道路」として4車線化を進めている。
図2 逆台形の鋼材で補強した名塩川橋梁
国道と交差するあたりで、国道を横断して新しく整備されたスロープを下るといよいよ廃線跡だ。すぐに踏切の痕跡を見るが、それが先述の青野道に相当する。まもなく渡る名塩川橋梁の主桁は、腹板を継ぎ足して補剛されている。D50型機関車を投入した昭和初年頃のことと思われる。その後、スイッチボックス、
図3 ハイキングコースに残された鉄道関連施設、(A)電話のスイッチボックス、(B)列車見張り台、(C)速度制限標識、(D)刻印されたレールを転用した落石防止柵
見張り台、速度制限標識など鉄道の遺構が次々と現れて飽きさせない。
 北山第1トンネルに着く。これは大正時代に追加されたトンネルで、坑門こそ切石成層積みにしているが内部の覆工はコンクリートである。カーブしているので内部は暗い。懐中電灯が必要である。トンネルを出ると、古レールを転用した落石防護柵が断続する。その中に「HANKAKU」と刻印されたレールもあるが、先述のように阪鶴鉄道は10年間しか存在しなかった会社であるので、当初の敷設時のものである可能性が高い。続いて北山第2トンネルだ。入口側の坑門は昭和31(1956)年に16m延長されたものでコンクリート製である2)。内部は側壁が不整形な切石の乱積み、アーチ部が煉瓦の長手積みであり、建設時の姿をとどめていると思われる。出口側坑門は、側壁が切石成層積み、アーチ部が煉瓦の長手積み5層巻き、スパンドレルは切石成層積みであり、柱壁(ピラスター)・要石・扁額などを欠く装飾性の少ない作りになっている。これも建設時のものと考えられる。次に見えてくる短いトンネルのようなコンクリート製の構造物は、山から流れ出る水を武庫川に落す水路橋である。この付近の山側の擁壁が、土木構造物には珍しい煉瓦のフランス積みになっているところがある。そして溝滝尾トンネルに至る。内部の覆工は北山第2トンネルと同様である。
図4 ハイキングコースに現れる構造物(その1)、(A)石で装飾された北山第1トンネルの坑口、(B)コンクリートで延伸された北山第2トンネルの坑口、(C)鉄道の上を越えていた水路の遺構
図5 武庫川第2橋梁のスケルトン(参考文献による)
 トンネルの出口から赤いトラス橋が見える(標題の写真)。武庫川第2橋りょうだ。リベット接合が無骨にして力強い。曲弦3)ワーレントラスを基本として中央部の長大な部材を分格した形式である。ワーレントラスは、昭和に入ってからそれまで多用されていたプラットトラスよりも垂直材を省略または簡素化できることから安価になることに気づかれて採用機会が増えた形式であって、この橋も昭和29年に架けかえられたものだ。元の橋はプラット分格トラス(ペンシルベニアトラス)でL=253ft5・1/2in(約77.3m)だった(小西 純一・西野 保行・淵上 龍雄「明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラス桁その1」(「日本土木史研究発表会論文集 Vol. 8」所収))。現在の橋梁はL=72m。遊歩道として整備されているので見づらいが、元の石積みの橋台の前にコンクリート製の新しい橋台を建てている。
図6 改築を受けていない長尾山第1トンネル入口側の坑門
 これに続く長尾山第1トンネルは、後年の補修や改良が施されておらず、明治期の様相を最もよく残している。坑門は、側壁が切石成層積み、アーチ部が煉瓦の長手積み5層巻き、スパンドレルは切石を覆工に沿って積んでいる。内部は、側壁が切石の乱積みでアーチ部は煉瓦の長手積みである。いずれもこの区間での標準的な形式と言えよう。その次の長尾山第2トンネルは、側壁が煉瓦のイギリス積みになっている点が他と異なる。ハイキングコースの最後になる長尾山第3トンネルは、第1トンネルと同様の覆工を施している。 
図7 ハイキングコースに現れる構造物(その2)、(A)側壁に煉瓦を用いた長尾山第2トンネル、(B)坑口が大規模に改良された長尾山第3トンネル、(C)トンネルの中に分岐がある草山トンネル
手から県道切畑道場線が合流して廃線跡に重なる。ここにあった武田尾駅は駐車場に変わっている。駅前にあった商店や住宅は跡形もない。というのは、武田尾は過去からたびたび水害を受けてきたところで、最近では26年8月に続いて27年7月にも台風11号による大きな被害を受けた。建物を撤去して河川改修工事が進められているのである。新しい武田尾駅からもう少し進むと草山トンネルだ。道路に転用されているが、途中で覆工を破って左に分かれる道路が設けられ、武田尾温泉へ向かう赤い吊橋に続いている。トンネルはこの先は通行止めだ。迂回して出口を見ることはできるが、そこから武庫川を渡っていた武庫川第3橋梁は撤去されていて、対岸に大茂山トンネルの坑口を望むだけである。ということで本日の探索はここで終わりとする。
(2016.12.19)
(参考文献) 西野 保行「福知山線生瀬−武田尾間廃線跡を歩く」(鉄道ピクトリアルVol.38 No.1所収)


1) 尼ケ崎とは後の「尼崎港」(昭和56年に旅客営業を廃止し59年に貨物営業も廃止、3号神戸線尼崎集約料金所の位置にあった)のこと。池田は、実際には池田にはなく対岸の呉服(くれは)橋西詰め(現在の川西市小戸)付近にあった。なお、摂津鉄道は途中の長洲で官営鉄道(東海道線)と交差することが認められなかったため、官営鉄道の南北で列車は折り返し運転を行い旅客は徒歩連絡していた。

2) 旧福知山線では落石防護のための坑門延長が何度か行われた。本稿で取り上げた範囲では、北山第2トンネル入口のほか溝滝尾トンネル入口(8.0m、昭和31年)、出口(3.4m、大正10年)、長尾山第3トンネル入口(9.9m、昭和31年)、出口(22.2m、大正10年)、草山トンネル入口(50.0m、大正10年)、出口(12.8m、大正10年)がある。これらのうち大正時代のものは坑門の壁面を切石成層積み、昭和時代のものはコンクリートで仕上げている。

3) 路面の乗らない弦材(トラスを構成する部材のうち水平に近い方向に配置されるもの)が橋梁の支間中央部で高くなっている形式。