柳ケ瀬隧道

限界に挑んだ黎明期のトンネル技術

道路に転用されている「柳ケ瀬隧道」の西側坑口
 敦賀市南郊の麻生口で国道8号から分かれて、北陸道に沿って走る県道敦賀柳ケ瀬線を行くと、普通車が交互通行でしか通れないトンネルが小さな坑口を開けている。柳ケ瀬トンネルだ。走り抜ければ2分余りだが、その間も不安を覚えるほど圧迫感がある。これが建設されたのは明治17(1884)年。わが国で最長の鉄道トンネルだった。本稿では、このトンネルが道路に転用されるまでのエピソードをご紹介する。

治2(1869)年5月の函館五稜郭の陥落によって政権を握った明治政府は、「富国強兵」をスローガンに近代国家建設に邁進するのだが、その重要な施策が鉄道の敷設であった。同年11月に政府が廟議を開いて決意したルートは「幹線ハ東西両京ヲ連絡シ、枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又琵琶湖周辺ヨリ敦賀ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ル」というものであって、この時点で、琵琶湖から野坂山地を越えて敦賀に達する路線を最優先で建設すべきと認識していたことになる。従来は長距離の輸送は船舶に頼らざるを得なかったので、日本海側の拠点である敦賀を鉄道により太平洋側とつなぐことの意義は大きかったのだ。
 4年から測量が開始され、6年には米原から塩津を経て深坂峠を越えて疋田に向かい敦賀に達するルートがいったん決定された。しかし、この路線は相当な難工事が予想され、その後の財政難から着工は遅れた。13年1月に至って鉄道局長 井上 勝は長浜を起点に中之郷・柳ケ瀬・刀根を経て疋田に至るルートに変更するよう政府に上申し、
図1 明治15〜17年に開通した鉄道と現在の交通網
2月にこれが許可されて4月に着工した。変更の理由としては、塩津を経由するルートよりも勾配が緩和されること、沿線の中之郷・柳ケ瀬は北国街道の宿場町でありローカルな旅客輸送が見込めること、長浜の浅見 又蔵1)らが鉄道誘致を活発化させていたことなどが想像される。
浜〜敦賀間の鉄道工事は4工区に分けて施工された。このうち最も難工事が予想された「柳ケ瀬隧道」を含む工区は西側が長谷川 謹介、東側が長江 種間が工区長に任命されている。測量の結果、線路勾配を機関車の限界である25‰に設定しても柳ヶ瀬隧道の延長は1,352mになることが示された。(旧)逢坂山隧道(13年完成、644.8m)の2倍以上で、当時のわが国では最長だ。断面は逢坂山隧道と同じ値(最大幅員とレール面からの高さがそれぞれ14ft
(4,267mm))が採用された2)
 地山のもろさに工事は難航したようだ。空気圧縮式鑿岩機やダイナマイト(「建設機械の歴史」(http://hw001.spaaqs.ne.jp/geomover/hstry/
hstry.htm)によればわが国で最初の使用例) を用いたが、15年3月に長浜〜柳ケ瀬間と洞道口〜金ケ崎(後に敦賀港と改名)間だけが完成し、隧道の区間は徒歩で連絡することとされたのだ3)。隧道が完成したのはそれから2年後の17年4月であった。両側の坑門には伊藤 博文が揮毫した「萬世永頼」の石額と工事の経過や困難を記した「柳瀬洞道碑」が掲げられた4)
22
年に東海道線が全通すると、日本海側の要港である敦賀から東京や神戸に直通できるようになる。40年、敦賀港は横浜港・神戸港・関門港とともに国営港に選定され、日本海側で唯一の第1種重要港湾として対露貿易と中国大陸進出の根拠地になった。インド洋回りに比べて短いことから、敦賀〜ウラジオストック間航路とシベリア鉄道を乗り継いでヨーロッパに向かう経路がメインルートとなり5)、新橋〜金ヶ崎間には「欧亜国際連絡列車」として航路連絡の直通急行列車が走った。
 この路線の重要性が著しく高まった一方で、柳ケ瀬隧道の厳しい勾配と狭小な断面は機関士泣かせの難所として知られていた。蒸気機関車の運転席は窓が開放されていて外気がそのまま入ってくる。石炭を最大限に焚いてトンネルを走るのは誇張ではなくまさしく命がけの仕事であった。そして悲劇が起こる。
 昭和3(1928)年12月6日、疋田駅を10時37分に発車した貨物列車が2両のD50型機関車で45両の貨車を牽引して走っていたところ、折からの寒気で車輪が空転し柳ケ瀬隧道の出口の25m手前でついに立ち往生してしまったのだ。こういう時はブレーキを緩めてゆっくりと後退しなければいけないのだが、機関士たちは昏睡してしまっていてその操作ができなかった。離合のために東坑口に待機していた列車の機関士が異変に気づき、
図2 柳ケ瀬隧道の東坑口に設置された排煙設備と集煙装置を付けた機関車(出典:参考文献)
機関車をトンネルに乗入れて立ち往生していた列車をもとの方向に押し出したが、救援した機関士も昏睡状態に陥った。
 3名の命が失われたこの事故の後、柳ケ瀬隧道では、排煙のための換気ファンと坑口を遮蔽する隧道幕6)が東坑口に取り付けられた。また、排煙をトンネルの天井に沿って後部に排出させるために機関車の煙突に取り付ける集煙装置が開発された。
の事故は旧来の鉄道施設が輸送量の増大に対応できなくなっていることの表われでもあり、木之本〜敦賀間の新線の計画が進められた。そして現在の「深坂トンネル」(5,170m)を経由するルートの工事が13年に着手され18年には貫通を果たしたが、戦況の悪化とともに中断。25年に再開するも折からの緊縮財政で関連する工事が進まず開通は32年になった。併せて同年には敦賀までの交流電化も行われている。ただし、新線は疋田〜敦賀間で在来線に合流していたので、依然として25‰区間が存在していた。この上り線の勾配を10‰に緩和する措置として「衣掛ループ線」が38年に開通し、最後に、トンネル区間を複線化すべくもう1本の深坂トンネルが41年に開通している。
 このような北陸本線の輸送力強化に伴って、旧来の路線は32年以降は「柳ケ瀬線」というローカル線になった。しかし、営業係数(100円の収入を上げるために必要な費用)は1,145と極めて悪く、衣掛ループ線の工事に関連して38年から休止されていた疋田〜敦賀間に続いて39年には木之本〜疋田間も廃止されてそこを国鉄バスが運行するようになった。
在は全線が道路として一般に開放され、柳ケ瀬隧道区間を除いて敦賀市と長浜市のコミュニティバスが走っている。おおむね、疋田で笙の川を渡る付近から麻生口付近までは国道8号に、麻生口付近から柳ケ瀬隧道東坑口付近までは福井県道・滋賀県道敦賀柳ケ瀬線に、そこから木之本〜中之郷間の新線分岐までは国道365号に転用されている。
 県道に編入された柳ケ瀬隧道は、石と煉瓦積みの一部をコンクリート巻にして
旧柳ケ瀬線が疋田舟川を横断していた向井影橋梁 公民館の敷地を縁取る石積みは疋田駅の跡
国道8号の南で笙の川を渡っていた橋梁の基礎の跡 曽々木地区で国道8号の下に残る向井野橋梁
北陸道の工事用道路として拡幅され要石だけが残る刀根隧道 柳ケ瀬隧道の西坑口に置かれている「柳瀬洞道碑」(レプリカ)4)
柳ケ瀬隧道の東坑口に置かれている「萬世永頼」の石額(レプリカ)4) 中之郷駅の跡には駅名標を模した案内板が設置されている
待避所・照明設備・消火栓などを設け一般車の通行に供用しているが、断面が小さいことから信号制御による交互通行で大型車・軽車両・歩行者通行禁止(表題の写真)。黎明期の隧道技術を記念するものとして、平成15(2003)年に土木学会選奨土木遺産に、20年には経済産業省近代化産業遺産にそれぞれ認定された。
 柳ケ瀬隧道を除く県道は55年に開通した北陸道 敦賀IC〜米原JCT間の建設により大規模な付け替えが行われ往時の痕跡は少ない。その中で特筆されるのは、「小刀根隧道」だ。全長56mという小さなトンネルであるが、国鉄バスの廃止後も県道として利用されなかったため、改修されることなくその端正な作りを今にとどめている。建設当時の姿を伝える最古のトンネルとして、平成8年に敦賀市指定文化財に、26年度に土木学会選奨土木遺産に指定された。
明治時代の鉄道トンネルがそのまま残る「小刀根隧道」、敦賀市指定文化財
 図3 旧柳ケ瀬線の主な遺構
                                                  (2016.11.21)
(参考文献) 敦賀市立博物館「敦賀長浜鉄道物語-敦賀みなとと鉄道文化」

1) 浅見 又蔵(天保10(1839)〜明治33(1900)年)は、長浜で縮緬製造業を営む浅見家に養子に入って「浜ちりめん」の特産化に力を注ぎ、アメリカに輸出するまでに事業を拡大した。小学校や銀行の設立に尽力したほか町会議員や町長に就任するなど、長浜の政財界をリードした人物。明治11年に藤田 伝三郎らと連名で鉄道と汽船の連絡運輸を願い出たのを始め、12年には長浜〜関ヶ原間の鉄道、13年には長浜〜関ヶ原間の新道と長浜港の修築許可を県に求め、14年には「太湖汽船」という会社を起している。長浜を鉄道と琵琶湖舟運の結節点にして滋賀県最大の都市に育てようというのが彼の願いであった。長浜駅の南にある「慶雲館」は、20年に明治天皇・皇后が汽船で長浜に来られた時にお休み処として彼が建てたもの。

2) その後のトンネル断面は機関車の大型化に伴って次第に大きい値が採用されるようになっている。柳ケ瀬隧道の断面を昭和5年に制定された「2号型断面」(電化を考慮しないトンネル)の最大幅員4,560mm、レール面からの高さ4,630mmと比べると約85%に過ぎない。なお、先例となった逢坂山隧道は大正10(1921)年に供用を廃止されている。

3) 開通後(4月)のダイヤでは、長浜〜柳ケ瀬間と洞道口〜金ヶ崎間に1日2往復、麻生口〜金ヶ崎間に1往復の運行があった。このうち1往復について柳ケ瀬〜洞道口間の徒歩連絡が考慮されていたようだ(徒歩時間 1時間35分)。

4) これらの実物は、長浜駅に隣接する「長浜鉄道スクエア」で保存展示されている。

5) 海路では約40日かかった東京〜パリ間を17日間で結んだ。昭和7(1932)年の国際連盟総会において連盟脱退を宣言した松岡洋右一行の往復にもこの経路が用いられた。ロアルド・アムンゼン(探検家)などヨーロッパの著名人たちも金ヶ崎でアジアへの第一歩を踏んでいる。15年8月から翌年6月までの間、リトアニア領事代理 杉原千畝の発給した「命のビザ」によって、多くのユダヤ人難民がウラジオストク経由で敦賀へ上陸したことも著名。

6) 隧道幕とは、英国人F.H.トレブィシック(F.H.Trevithick、1850〜1931年)が考案したとされているもので、列車がトンネル内を走行中に坑口を遮蔽して外気の侵入を防ぐもの。坑口付近に駐在して隧道幕を操作する人を隧道番と呼んだが、碓氷峠を越えるトンネル群(信越本線)や加太(かぶと)トンネル(関西本線)の沿線には隧道番の子孫がおられて隧道幕についての逸話を残している(http://www.jomonet.co.jp/joshufu-page/tachiyomi/go/
tachiyomi-5.htm、http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200810040007.
html)。それによると、列車がトンネル内を走行するとき、後部の坑口を閉じれば列車の背後に低圧な空間が生じるので、排煙が速やかにそちらに流れて乗員や乗客が煙に巻かれるのを軽減するという。その説明ならば坂下側に隧道幕が設置されるはずで、事実、これらのトンネルではそうなっている。ところが、柳ケ瀬隧道では坂上側に隧道幕が設置されているので、上述のメカニズムとは異なるものと考えられる。列車の通過後に幕を閉めてトンネル内に残った煤煙の換気を効率的に行う効果が期待されていたという(岩本 太郎「続・滋賀の技術小史」(http://www.rikou.ryukoku.
ac.jp/images/journal62/RJ62-03.pdf))。写真は坑門が延長され排煙設備が設けられていた東坑口の現状。