浄水を各戸に送り続けた「赤穂水道」 |
荒神社の前を流れる赤穂水道 |
中世以来 防御に有利だとして平地を見下ろす山頂に建てられていた城郭は、領国の経営が重視される戦国時代後期からは政治・経済の中心となるべき地に建てられるようになった。同時に、城郭の周囲には武士だけでなく商工業に従事する町人も集められた。そうなると、築城するのに併せて都市施設の整備が必要になる。中でも上水道は重要だ。今回は、「日本三大上水道」のひとつと称される赤穂水道を訪ねて、「忠臣蔵」で有名な播州赤穂に降り立った。 |
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ヶ原の戦いの熱気の残る慶長5(1600)年、池田 輝政は播磨52万石を与えられ姫路に入った。輝政は領内支配のために各所に支城を築いたが、そのひとつが赤穂の「掻上(かきあげ)城」である。輝政は慶長18(1613)年に亡くなりその跡を継いだ忠継も元和元(1615)年に亡くなると、領国は弟たちに分与され、赤穂には池田
政綱が35,000石で入封した。ここに初めて赤穂藩が成立した。
赤穂は千種川の三角州に位置しており、城内も城下も井戸に塩水が混入して飲用にならなかった。そこで、千種川の上流から上水を引くことが考えられた。
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図1 赤穂水道の概要1)(赤穂市「赤穂市史第2巻」の図により作成 |
これが赤穂水道だ。工事を指揮したのは、池田家に仕えた赤穂郡代 垂水 半左衛門。着工は慶長19年というから、まだ忠継が赤穂に入城していない時期である。垂水
半左衛門の事跡は明らかでないようだが、赤穂の町の形成にかなりの先見を有していた実力者であったに違いない。
赤穂水道の完成は元和2年。赤穂から約7km遡った高雄で取水し、切山隧道を経て開渠によって城下まで引水し、町の北端に設けた「百々呂屋裏(ももろやうら)大枡」という2間(約4.0m)四方の石組みの枡まで送られた。ここからは暗渠になった水路が道路の下に網目のように張り巡らされ、これから分岐する管が屋敷地に引き込まれて、汲出枡から水が汲み上げられた。給水先は、城内はもちろん侍屋敷や町家に至るまで各戸に及んだ。
赤穂水道は、「神田上水」、「福山上水」と並んで「日本三大上水道」と称される。現在は上水道としての機能は有していないが、潅漑用水や維持用水として今も使われ続けている。
ころで、水道と言えば、古くから大規模な水道が引かれていたヨーロッパのそれが先進的だと思われよう。ローマの最初の水道はB.C.321年に完成したと伝えられる。アーチ橋やトンネルを通って送られた水は広場の泉や公衆便所に送られ、市民は水を必要とするときは
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表1 わが国の主な城下町と上水道 |
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都市名 |
施設名 |
竣工年 |
小田原 |
早川上水 |
天文14(1545)年 |
江戸 |
神田上水 |
天正18(1590)年 |
甲府 |
甲府用水 |
文禄 3(1594)年 |
富山 |
富山水道 |
慶長10(1605)年 |
福井 |
芝原水道 |
慶長12(1607)年 |
近江八幡 |
近江八幡水道 |
慶長12(1607)年 |
駿府 |
駿府用水 |
慶長14(1609)年 |
米沢 |
米沢御入水 |
慶長19(1614)年 |
赤穂 |
赤穂水道 |
元和 2(1616)年 |
鳥取 |
鳥取水道 |
元和 3(1617)年 |
中津 |
中津水道 |
元和 6(1620)年 |
仙台 |
四ツ谷堰用水 |
元和 6(1620)年 |
福山 |
福山水道 |
元和 8(1622)年 |
佐賀 |
佐賀水道 |
元和 9(1623)年 |
桑名 |
桑名御用水 |
寛永 3(1626)年 |
金沢 |
辰巳用水 |
寛永 9(1632)年 |
高松 |
高松水道 |
正保元(1644)年 |
江戸 |
玉川上水 |
承応 3(1654)年 |
江戸 |
本所上水 |
万治 2(1659)年 |
水戸 |
笠原水道 |
寛文 3(1663)年 |
名古屋 |
巾下水道 |
寛文 4(1664)年 |
宇土 |
轟水道 |
元禄 3(1690)年 |
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17世紀までのものを示す。神吉和夫「近世城下町に見る水道の知恵」(ミツカン水の文化センター「水の文化」第12号所収)により作成 |
公共の泉まで汲みに行けば新鮮な水を得ることができた。ローマ帝国の支配が拡大するにつれ同様の水道はヨーロッパの各地に広まった。しかし、帝国の瓦解と共にその施設と技術は放棄された。人々は水道の存在を忘れ、都市は不衛生な状態に置かれた。しかし、14世紀にペストが大流行するに及んで水道の必要が痛感され、1527年にハノーバーで、1581年にロンドンで水道が敷設されたのである。
これに比べてわが国では、天文14(1545)年に小田原に「早川上水」が、天正18(1590)年に江戸に「神田上水」が開設されるなど、各地の城下町に水道が設けられていたことを考えると、近世においては決してヨーロッパに引けを取らないものであったことがわかる。とりわけ、近代水道につながる各戸給水の観点では、ロンドンで開始されたのは1619年であり、それより3年早く赤穂で実現していたことは特筆されてよい。
各戸給水と関係しているのかも知れないが、赤穂水道では水質の保持に特段の注意が払われた。水道の開渠部分に沿う家々は、排水は水道の下を暗渠によって排出することとされ、水道で洗顔・洗濯をすること、牛馬を水道に近づけること、堆肥を置くことなどは厳禁された。これを徹底するため、「水道筋奉行」を駐在させて巡回警備に当たらせた。また、伝承によれば、百々呂屋裏大枡の付近に「漉場(こしば)」と呼ばれる設備があって、砂礫と木炭によって浄水したということだ。 昭和25(1950)年頃に付近で土木工事があった際に木炭の層が発掘されたともいう。もしこれが藩政時代からあったとするならば、これは世界で最初の濾過設備であると考えられる
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図2 給配水に用いられた瓦樋(左)と土樋(「赤穂市立有年考古館」での展示を撮影) |
(一般には、砂による濾過は1827年にロンドンで行ったのを最初としている)。
渠の構造にはいつくかの仕様があったようだ。最も断面の大きい個所では「石垣樋」が採用された。底に扁平な石を敷き、両側壁を石積みにして防漏のために粘土で石と石の間を塞ぎ、松板で蓋をした。標準の樋幅は1尺5寸(約45.5cm)、深さは2尺(約60.6cm)であった。次いで用いられたのが、板材を組み合わせて作った「箱樋」。大きいもので内法が1尺3寸(約39.4cm)四方、
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図3 木升で瓦樋を接続した例(赤穂城本丸門」での展示を撮影) |
図4 瓶升で瓦樋を接続した例(出典:赤穂市教育委員会「発掘された赤穂城下町−赤穂駅前大石神社線街路整備に伴う赤穂城下町跡発掘調査報告書1」) |
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図5 赤穂城大手門にある石升、堀の下をサイホンでくぐった水がここに湧き出した |
図6 「近藤源八宅跡長屋門」に保存されている石製の汲出井戸 |
小さいもので5寸(約15.2cm)四方だった。それほどの大きさが必要でないところでは、素焼きの「土樋」が用いられた。なお、箱樋は耐久性に劣るためか、漸次「瓦樋」に交換されている。これは瓦と同様の焼成をしたもので、大きいもので内径8寸(約24.2cm)、小さいもので2寸7分(約8.2cm)であった。城内に導く箇所では堀の下をくぐる必要があったので「松ノ掘樋」を用いている。これは、松の角材をくり抜いてU字溝を作り、これに蓋をして全体を甘皮で巻き漆喰で固めたもの。こうしてサイホンの水圧に耐えた。
また、各戸に引き込む給水管は当該戸の負担になっていたようで、上級武士では高価な備前焼の樋を使用している一方、竹の節をくり抜いた「竹樋」を使っている町屋もあった。
樋の屈曲する所や分岐する所には枡が設けられた。これにも材質により「石枡」、「木枡」、「瓶枡」があった。枡は樋よりもやや深く埋められ、泥芥を沈殿させるようになっていた。こうして導かれた水は各戸の「汲出枡」または「汲出井戸」から汲み上げられた。
田家は正保2(1645)年に改易され浅野 長直が入封する。その浅野家も江戸城内での刃傷事件で改易となり、その後は永井家と森家が赤穂を支配した。その間、千種川の流路変更や水需要の増大に対応して取水地点の変更・追加があったものの、水道の管理にはほとんど変化が認められなかったという。そして、昭和17年に赤穂に近代水道が整備されるまでの320年間、赤穂水道はその役割を果たし続けてきた。
ところが、31年からの千種川での井堰建設や51年洪水の復旧改修工事などにより、取水口は大きく変化し、切山隧道や木津以南の導水路もコンクリートで固められてしまった。また、戸島枡から百々呂屋裏大枡までが暗渠化され、
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図7 街路と併せて整備された上水道のモニュメント |
枡も縮小されたり埋められたりした。54年から下水道が市内で敷設されるに及んで、各所で破壊が進んだ。これに対して、市民から水道遺構を保存すべしとの意見が起こり、市は「お城通り」(都市計画道路赤穂駅前大石神社線)の整備(平成9(1997)〜16年度)に当たって遺構をモニュメントとして修景保存した。なお、発掘された樋や枡は、「赤穂市立歴史博物館」や「赤穂城本丸門」に展示されている。
後に、赤穂水道で最大の難工事であった「切山隧道」を訪ねておこう。水路トンネルとしてはわが国で最初のものと思われる2)。ここにトンネルを掘るという難工事があえて行われたのは、当時の千種川の流路が
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図8 切山隧道の呑口部、表面はコンクリートで被覆されている |
切山の北側付近で図1の点線で示したように大きく蛇行しており、この地点は淵となって水量も安定し水位も高かったためと想像される。長さは52間(約93.6m)。浅野氏の始祖
長直が千種川の流路変更に伴って取水口を船渡(ふなど)に変更してからは、廃川敷きに開かれた田圃の悪水(農業に使用された水の残り水)を通すようになった。
なお、明治時代には水量が多くなったため隧道を拡大する工事が行われ、さらに、昭和38(1963)年に両坑口がコンクリートによって被覆されたが、中央部の約50mは手掘りの跡が残るという。 |
(参考文献) 廣山 堯道「播州赤穂の城と町」(雄山閣出版)
1) 戸島枡から新田集落に達する区間は浅野 長直が新田を干拓した時にその灌漑用水を赤穂水道から導水(同時に取水口を船渡に変更した)したもの。
2) ちなみに、会津若松市にある「戸の口堰洞門」(敗走する白虎隊が通ったことで有名)は寛文5(1665)年、裾野市にある「箱根用水隧道」は寛文10(1670)年の完成で、切山隧道から半世紀後のこと。
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