林業の近代化と高野山森林軌道1)の盛衰


鳴戸川林道に沿って残る高野山森林軌道の高架橋
 高野山金剛峰寺は深い森に囲まれている。「一山(いっさん)境内地」と称し、高野山の全体が寺院だとする考え方だ。ここでは、寺院建築に必要な木材を択伐した後に「高野六木(りくぼく)」と呼ばれるヒノキ・スギ・モミ・ツガ・アカマツ・コウヤマキを植えて循環的利用を図ったという。その森林が、明治以降は国の管理になり盛んに伐採が行われた。ここで活躍したのが高野山森林軌道だ。本稿では、森林軌道の歴史とともにそれが廃止された後の状況をご紹介する。

成16(2004)年に世界文化遺産に登録されて観光客を集めている高野山。中国から真言密教をもたらした弘法大師 空海が弘仁7(816)年に開山した。海抜千メートルの山上に広がる盆地を峰々が取り囲むハスの花のような地形は、根本道場を開くに最適の場所だった。爾来、天皇や顕官から一般の民衆に至るまで数えきれない参詣者が高野山に登った。
 大師は高野山への参詣のために道標として木製の卒塔婆を建てたそうだが、これは朽ちやすかったので鎌倉時代に町石(ちょういし)に取り換えられた。九度山町の慈尊院から大門まで高さ3.3mの町石が1丁(約109m)ごとに180基が連なる。「町石道」と呼ばれるこの参詣道は全体として緩やかで歩きやすく、現在でもハイキングコースとして親しまれる。
 高野山への参詣道は時代とともに変わった。江戸時代になると、学文路(かむろ)を起点に河根(かね)・西郷(にしごう)を経て極楽橋から不動坂を上る「京大阪道」が拓かれる。起伏はあるが町石道(約22km)より4kmほど短かったので高野山への参詣客は多くがこちらを利用するようになった。その賑わいは、丹生川を渡るところにある河根では、料理屋・腰掛茶屋(通行人を休ませる簡単な作りの茶屋)・馬や駕籠の人夫の帳場(詰所)が立ち並び、朝から三味線や太鼓の音が聞こえるほどだったという。また、江戸時代には紀ノ川の水運が発達し、九度山から山越えして赤瀬(あかぜ)で丹生川を渡り、刈萱堂を経て神谷で京大阪道に合流する「長坂道」の利用度も増していった。神谷も大いに賑わい、茶屋や旅籠はもとより芝居小屋まで出たという。


図1 高野山に至る道路及び鉄軌道網
れらの参詣道がおおむね山伝いに高野山に達していたのに対し、本稿で取り上げる高野山森林軌道は不動谷川に沿って敷設されており、ルート選定の方針が全く異なっている。その理由は木材搬出の特性にある。
 高野山の山林はもともとは金剛峰寺の寺領であり、そこから得られる林産物に係る収入は寺の維持に当てられていた。ところが明治6(1873)年、明治政府は「社寺上地」の命を発し、高野山においては金剛峰寺を囲む稜線の外側の山林を国有林としたのである。
図2 シュラ落しのイメージ(出典:笠原 正夫「目で見る有田・海南の100年」(郷土出版社))
国は数百年にわたって禁伐であった山林の開発を試み、20年、材木商ら3名に大門付近の山林を払い下げた。3名が木材の搬出を行った方法は、「シュラ落し」(丸太を敷き並べた上を木材を滑らせる)で不動谷川に落し、沿線の村と「川道明け」(期間を限って搬送のために川を利用する)の契約を結んで「管流し」(一時的に川を堰止めて木材を浮かせ、堰を切ることにより鉄砲水とともに一挙に押し流す)と呼ばれる方法で椎葉に設けた土場(どば、木材を陸揚げする所または一時的に集積する所)まで流し、そこからは「木馬道(きんまみち)」で安田島(あんだじま)の土場に運ぶというものだった。木馬とは、50cmほどの間隔に並べた丸太の上を人力または馬力で木材を引き下ろす作業のこと。管流しは季節的制約を受けるほか木材の流失や水難の危険があったので、21年に木馬道を細川まで延伸している。そして、木材の運搬事業が終わった30年に、これらの木馬道は公道に寄付された。
図3 木馬のイメージ(出典:新宮市教育委員会文化振興課(http://
kumanomori.info/?p=1024)
 国では、国有林の経営を本格化させるため、38年から「官行斫伐(しゃくばつ)」(直営で生産事業を行うこと)を開始した。伐採した木材は長坂道を経て椎出の土場まで木馬を曳き、そこからは、効率的に運搬するために、安田島の土場まで過日 公道化されたもとの木馬道(雨の森を経由するので「雨の森街道」と呼ばれた)に沿って延長 約3.3kmの軌道(軌間762mm)を敷設した。わが国で最初の森林軌道である。ところが、34年に紀和鉄道(現在のJR和歌山線、33年11月に五條〜和歌山間全通)に高野口駅(開設時の名称は名倉駅)がオープンしており、高野山の参詣客は、椎出まで平坦な雨の森街道を通るようになっていた2)。しかも、当初は悪路であったこの街道は、参詣客の利便のために赤瀬の丹生川渡河部(35年)と駅との間の紀ノ川(36年)にそれぞれ賃取橋が架けられ、その収益でもって道路の改修が進められて、九度山から雨の森・椎出・長坂・神谷を経て女人堂に至る道が「高野街道」と呼ばれるほどのメインルートになっていたのである。
図4 豆トロのイメージ(林野庁http://
www.rinya.maff.go.jp/j/kouhou/
eizou/pdf/sinrintetudou.pdf)
森林軌道は、トロリーに木材を積んで搭乗した人が勾配に応じて制動したり押したりするもので(小型であったので「豆トロ」と呼ばれた)、参詣の団体客や人力車と遭遇する時は危険を避けるために小型のラッパを吹いて運行したという。ところが、この軌道は早くも41年に撤去が始まる。対岸に新たな軌道を敷設するためだ。
 思うに、高野街道を利用して木馬と軌道で運搬するというのは無理があったのではなかろうか。参詣者との輻輳のほか、重量物である木材を山越えで運ぶのも土場で積み替えるのも負担が大きい。シュラ落しや管流しのような危険な方法は採れないとしても、やはり自重で降下するような運搬方法がよいだろう。こうして選ばれた新たな軌道のルートは、不動谷川を遡って高野山に達するものだったのである。
治42年、九度山の入郷(にゅうごう)に開設された貯木場に木材を運ぶための森林軌道が開通した。この軌道は、椎出の南で不動谷川の右岸に渡ってから川沿いにうねうねと曲がりながら高野山の塵無(ちりなし)土場までの26.0km。高度を稼ぐために、極楽橋と神谷の間で大きなヘアピンカーブを描いている3)。木材を積んだトロリーを人力で降下し空車は牛で引上げていた期間が長く続いたが、昭和3(1928)年に米国ホイットコム社製のガソリン機関車を3両購入し、
図5 昭和初期の木炭ガス車(http://
www.rinya.maff.go.jp/kinki/
wakayama/work/pdf/
24kannaigaiyou-insatu.pdf)
一部区間に導入した(翌年2両を追加。6年からは、ガソリンが軍用となり燃料を木炭ガスに転換)。ここにおいて、木材輸送は、人力でコントロールしつつ重力により降下させる段階から動力車で運搬する段階に進化し、作業の安全性が大きく高まった。ようやく近代産業に脱皮できたと言えようか。
 高野山森林軌道は、九度山貯木場〜塵無土場間を幹線として、ここから枝分かれした支線がたくさん伸びていた。森林軌道の常として伐採の進捗によって頻繁に敷設・付替え・廃止されるので、支線の全貌をとらえるのは困難だが、特に大規模なのは7年に建設された「花坂線」。細川で分岐して南西に走り、トンネルで鳴戸(なるこ)川の流域に達し、これを上流に登ってその延長線はトンネルで内子谷(ないごだに)川の流域に伸びる。また、塵無土場の西で分岐して南東に走り、弘法大師廟への参詣道をくぐって御殿(おど)川の流域に入り、さらにトンネルで一ノ枝川の流域に達する「別所谷線」も大規模だ。これらの支線により、高野山をほぼ全周する軌道網ができあがる。森林軌道で搬出された木材は九度山貯木場で販売された。昭和18〜19年で年間約2.5万m3に及んだという。
 戦後復旧の需要増大の中で、28年1月に「森林鉄道保安規定」が発出され、組織・職員の配置・閉塞方式・運転速度など安全運行に必要な事項が定められた。同年12月に発出された「森林鉄道建設規定」では、最小半径・限度勾配・軌条の太さ・道床の厚さ等が細かく規定された。これらにより、森林鉄道は一般の鉄道に準じた制度が確立し、運材の主役として全盛期を迎える。
 しかし、まもなく森林鉄道は自動車輸送に置き換えられていく。その転換点と言えるのが34年に制定された「国有林林道合理化要綱」であって、そこでは、高度経済成長に伴う木材輸送の増大に対応するため、今後 建設する林道は自動車道とすること、既設の森林鉄道は原則として自動車道に改良することが示されていた。高野山においては一足早く33年に細川土場より上が自動車道に改修されている。翌34年には、日本道路公団が建設した「高野山道路4)」を使って全線が自動車輸送になった。
使
われなくなった鉄道用地は九度山町と高野町に譲与された。その現在の姿はさまざまだ。下から順に見ていこう。
 高野山の木材を集積・販売した九度山貯木場の跡地は、道の駅になっている(図6の@)。大河ドラマ「真田丸」で九度山が有名になったところであり、食事時でもないのに駐車場は観光バスや乗用車で満杯であった。そこから南に続く部分は落石のため通行止めになっているため、県道和歌山橋本線の役場前交差点を南に折れて廃線敷きに入る。ほどなく人家が途切れ、丹生川に沿って山裾を切り開いた幅員1.8m程度の遊歩道に変わる(A)。町では「龍王渓」と名付けている。南海高野線の丹生川橋梁5)が見えればまもなく高野下駅に着く(B)。駅舎が道路をまたいでいるのは、もとはこの道路が軌道だったから。かつては高野索道6)の始点が隣接しており、駅には貨物用ホームもあったという。
@道の駅に利用されている九度山貯木場の跡地 A町が遊歩道として整備した区間、軌道の幅員を残している B高野下駅舎の下を貫く森林軌道跡の道路
C不動谷川の渓谷に沿って進む森林軌道の跡地 D下古沢消防団器具庫付近の高架橋 E下古沢〜上古沢間に残っているトンネル
F細川土場の跡地は町営住宅になっている G営林署により自動車道としての整備がなされた区間 H森林軌道の橋脚が撤去されないまま残っている橋梁
I道路からはずれて残っている盛土や橋脚 J林道の上流部は町により2車線化が進められていた K森林センターになっている塵無土場の跡地
L中の橋付近で見られる森林軌道の立体交差の遺構 M倒木にふさがれた円通寺隧道の坑口 N森林軌道のレールは頭部幅約2.5cm、想像以上に華奢だ
O等高線に沿ってうねりながら進む森林鉄道の跡 P通行止めになっている花坂隧道 Q硬い岩をくり抜いて建設された湯川隧道
図6 高野山森林軌道の廃線敷きの現況
 高野線をくぐってその先も廃線敷きが続く。右岸側を走る国道370号はずんずん高度を上げていくが、森林軌道の勾配は変わらずに未舗装の路面がゆるやかに伸びている(C)。いつか国道は遠ざかり、ちょっとした峡谷になった不動谷川の水音だけが耳に届く。川が大きく蛇行しているが、軌道跡もこれに沿いつつ3度渡河して最後の「牛頭(うしかみ)橋」のところで国道に出会う。いったん国道に吸収された廃線敷きは160mほど先で左に分かれるのだが、そこは通れないので交通に注意して国道を進むと、下古沢消防団器具庫の付近の2箇所でコンクリート製の橋脚と橋桁が残っているのを望むことができる(D)。
 下古沢交差点から左に坂道を上る。四差路の右側の家宅の住人によると、この家のすぐ前を森林軌道が通っていたと言うことで、四差路を右折して道路に転用された廃線敷きを進む。これを地元では「トロッコ道」と呼んでいるようだ。二輪車で移動するときに国道を避けてこの道を通ることがあるという。すぐにトンネルがある。幅が約2.2mで高さは天頂で約3.6m。10分ほど歩くと直進する道は失われているので、道標に従って急坂を下り迂回して川を渡りまた登り返す。そのままゆるやかなトロッコ道を進み、コンクリート製の「渕ノ上橋」で右にカーブしさらに進むとまたトンネルだ(E)。内部はコンクリートで覆工されているが、もとは素掘りであったと思われる。やがて勾配が顕著になってきたところで大きく左に回り込めば上古沢駅である。この先の廃線敷きは、生活道路としての役割もなく荒れている。トンネルや橋梁の遺構があると聞くが、崖を切って桟道形式で敷設されていた個所もあり、探索は危険だ。よって、上古沢駅から電車に乗り紀伊細川駅を目指す。
 細川には土場があったが、今は住宅に変わっている(F)。ここから塵無土場までは、営林署によって自動車道に改修されてから町に引き継がれている区間だ(G)。不動谷川の右岸に沿って1.5kmほど進んだ浦神谷の集落で左岸に渡り、さらに1.5kmほど行って大きく左に曲がって「新極楽橋」(H、かつての森林軌道の橋脚が撤去されないまま残っている)で不動谷川を渡り、河谷の崖懸を神谷に向かって登っていく。改修に際して自動車の規格に合うように線形改良や構造変更がなされたようで、道路からはずれたところに森林軌道の橋台などが残っている個所がある(I)。やがて林道は2車線に拡幅され(J)、「光(こう)の滝」で不動谷川を渡る。ここは森林軌道の最大の難所とされ、かつては木製コースターのような橋梁が構築されていたという。幹線の終点であった塵無土場の跡は「高野町森林センター」になっていた(K)。
 塵無土場の手前から南東に伸びる支線の跡は霊園に続く2車線道路になっているが、中の橋付近では弘法大師廟への参道を盛土にして森林鉄道と立体交差していた痕跡を見ることができる(L)。その先、御殿川から別所谷川に沿う箇所は一部の廃線敷きが残っているだけだが、円通寺の南にはトンネルの坑口を確認することができる(M)。
 塵無土場の先に続く支線の跡も林道は2車線化が進められている。しかし、黒河(くろこ)峠に向かう支線にはまだ森林軌道のレールが残っていた。そのサイズは頭部幅が約25mm、底部幅が約56mm、高さが約50mmで、「6kgレール7)」と呼ばれる最も細いもの。恐らく木製であったろう橋梁が流失してレールだけが垂れ下がっている箇所もあり(N)、支線だからかも知れないが、高野森林軌道はたいそう簡素なものであったことが伺われる。
 紀伊細川駅に戻ってこんどは花坂線の跡を辿ってみよう。駅から西に坂道を下り、不動谷川を南に渡る。道路が二手に分かれるが、左が森林軌道の跡だ。現在も林業に使用されているようで幅員が3mほどに広げられているものの(O)、山から流れ出る渓流を渡る個所で丹念に上流に迂回して小さな橋で越えているのは、いかにも森林軌道らしい線形だ。1時間足らずの徒歩で花坂隧道に着く(P)。幅、高さとも2.7mほどの坑口をもつ坑門工はしっかりしているように見えるが、内部は崩落の恐れがあるということで平成18年8月から通行止めになっている。やむなく峠を越えて鳴戸川流域に出る。こちらには高野町により幅員4m余りの林道が整備され、山上まで通じている。途中、標題の写真のような高架橋を見ることができる。この先、内子谷川流域に向かっていた湯川隧道は、かなり硬い岩をくり抜いて建設されたようで(Q)、少し崩れているところがあるもののまだ通ることはできる状態だという。
が国の国有林は国土の 20%、森林面積の 30%を占める重要な資源である。昭和30(1955)年代から国内の木材需要が急増し、林野庁は伐採範囲を広げることによって対応したが、これが環境破壊との社会的批判を浴びる結果をもたらした。同時に進行した貿易の自由化や円高の進行などにより国産木材の価格が低迷する一方で人件費などの経営コストが増大し、国有林野の財務状況は危機的なまでに悪化するようになった。平成10(1998)年、「国有林野の改革のための特別措置法」が制定され、2兆8,000億円の累積債務を一般会計の負担とするとともに、国土保全・水源涵養・森林と人のふれあいなどの公益機能を重視する施策に切替えられた8)。これに基づき、高野山でも生産事業の廃止と営林署組織の縮小が進められた。現在の高野山国有林の天然林は学術参考保護林や風致保護林を含む国定公園特別保護地区に指定され、将来とも保存することとされている。人工林も平成10年以降 伐採されていない。
 防災の観点だけに絞っても、昨今の激しい降雨による土砂災害の発生を見れば、森林を健全に保全するという営林事業の重要性が減ずるとは考えられない。適切な間伐や野生鳥獣への対応などの育林事業や土砂流出防止などの治山事業が重要だ。また、市街地の市街地の稠密化が進んで大規模な河川改修が困難になっている中で洪水被害を軽減するには、上流部の森林による調整機能に多くの期待を寄せざるを得ない。かつて生産事業に活躍してその使命を終えた森林軌道の形を変えた活用が期待される。

(補遺)高野山への旅客輸送
こでは、高野山への参詣客の輸送についてまとめておこう。 先にふれたように、高野山への最初の最寄駅は、明治34(1901)年に紀和鉄道が開設した高野口駅だった。参詣客はここから歩いて高野山に向かった。この道は、大正2(1913)年に「高野街道」と呼ばれる県道に指定され、4年の「高野山開創千百年記念大法会」に向けて数回にわたって整備が重ねられた。ここに目をつけて、高野口駅から椎出までの4kmほどの間に「高野山登山自動車」が乗合自動車の運行を開始した。大正8年のことと言われる。
 一方、大阪と高野山を直通する鉄道は、明治27年頃にはすでに計画が立上がっていたようだが、南海鉄道高野線が九度山駅まで通じたのが大正13年、椎出の高野下駅(当時の駅名は高野山)まで通じたのは14年7月だった。これに呼応して高野下駅から高野山まで自動車輸送事業を企画する人が現れ、「高野山参詣自動車」という会社を興して自動車専用道路の建設を行った9)。14年2月に第1期工事として神谷までの区間を完成させ、同時に高野山登山自動車を合併して高野口駅からの運行を始めている。7月には第2期工事である神谷〜極楽橋間も完成させた。これにより、鉄道の終点であった高野下駅で乗合自動車に乗れば簡単に極楽橋まで行けるようになった。
図7 極楽橋に乗り入れた高野山電鉄、右下に高野山参詣自動車の営業所が見える(出典:高野山金剛峰寺「高野山大観」)
一方、高野索道は、高野下で旅客の手荷物を預かって客より先に山上の宿坊に届けるサービスを始めた。
 高野下まで達した南海鉄道は、京阪電鉄が保有していた免許を譲り受けて高野下〜極楽橋間の鉄道に着手した。トンネルが23もある工事費のかさむ路線であったので、南海鉄道は経営上の観点から別会社によって敷設することとし、14年に「高野山電鉄」という会社を設立して翌年から工事を始め、昭和3(1928)年6月に神谷まで、4年2月に極楽橋まで開通させた。資材の輸送には森林軌道が使われた。高野山電鉄は、高低差426.8mを克服するのに特別な性能を持った車両が必要であったので、乗客は高野下で南海鉄道から乗換えなければならなかった10)。4年に掲載された広告を見ると、高野下〜極楽橋間を高野山電鉄は32分、96銭、高野山 参詣自動車は20分、1円で結んでおり、両社が激しく競争していたことが伺われる。だが、次第に鉄道が優位になったようで、乗合自動車は数年で姿を消した。
 残るのは極楽橋から女人堂の間に続く険しい不動坂だ。最初にこの区間の旅客輸送に手を付けたのは高野山参詣自動車で、大正14年の完成を目指して自動車道を施工していたらしいが、結果的には開通は果たせなかった(この時点では、聖地である女人堂まで自動車が進入することに関係者の理解が得られなかったと言われている)。次いで、高野口駅から山上に至る延長10.7kmの長大な旅客索道を構想した「高野山登山索道」が、昭和4年、最初に許可を得た極楽橋〜女人堂間の建設に着手している。しかし、折からの経済恐慌の打撃を受けてこの事業は挫折し完成に至らなかった。そして、高野山電鉄が、5年に極楽橋〜高野山間のケーブル線を開通させるとともに、高野山駅から女人堂までバス専用道路を整備した。こうして現在の交通網ができあがったのである。
(2016.08.09)(2018.08.28)
(謝辞) 本稿で紹介した遺構のいくつかは井戸陸雄氏にご案内いただいた。

(参考文献)
1 九度山町史編纂委員会「九度山町史 通史編」
2 矢部 三雄「近代化遺産「森林鉄道」路線の記録」(森林部門技術士会「フォレストコンサル」No.142所収)

 1) 昭和28(1953)年に発出された「森林鉄道建設規定」により、森林鉄道に1級線と2級線が区分されて1級線を森林鉄道、2級線を森林軌道と呼び分けることになったが、それ以前の森林鉄道と森林軌道の使い分けは判然としない。わが国で最初の林道規定である「林道工及び河川工取扱いに関する手続き」(明治35年、農商務省山林局)では、林道を軌道・車道・牛馬道・歩道・木馬道に区分していることから、当初は軌道であったものがある時期から鉄道の用語が併用されるようになったものと思われる。本稿においては、28年以降の事象の記述には総称して森林鉄道と表記しそれ以前については森林軌道とすることとした。

 2) これにより椎出は急速に発展し、10軒以上の旅館や50軒以上の茶店・飲食店が軒を連ねるようになった。団体客の多い春秋には300台余りの人力車が高野口駅と椎出の間を往復し200挺に余る山駕籠が高野山までの道を行き来したという。一方、河根の凋落は著しく、住民は人力車や駕籠をかついで山道を越えて椎出まで出稼ぎに出なければならなくなった。これを見かねた村長 刀禰 富太郎は私財を投じて河根から赤瀬までの里道を拓いた(44年完成)。

 3) 大正2(1913)年にこれを短絡する目的で神谷に延長295mのインクライン(incline、傾斜地に軌条を敷き動力で台車を上下させる一種のケーブルカー)を敷設したが、機関車運材を行うようになるとかえって効率的輸送のネックとなり、昭和26(1951)年に廃止されて再び極楽橋を迂回するルートで通車輸送されるようになった。

 4) 昭和29年に和歌山県によって事業化され、31年に設立された日本道路公団が引継いで35年に完成した一般有料道路。九度山町下古沢〜高野町大門間 延長17.0km。62年に無料開放され、九度山から途中の矢立交差点までが国道370号、矢立から大門までが国道480号になっている。

 5) 丹生川及び国道370号を越える鋼上路プラットトラス橋で、L=72.52m。約40度の斜角がついている。大正14(1925)年架橋。平成20年に紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、鋼索線とともに近代化産業遺産に認定された。

 6) 森林軌道よりわずかに遅れて明治44(1911)年に開通した椎出から大門に至る延長6,430mの貨物用架空索道で、わが国における最初の索道事業と考えられている(自家用の索道としては23年に開通した足尾銅山の単線索道があった)。機械の供給と設計はセレッティ・タンハニー社(イタリア)、工事はドイツ人技師カタネオ(大阪の通天閣を建設した)の指導によって行われた。複線自動循環式索道で、200kg積の搬器100台により片道約7t/時の輸送量があり、山上で暮らす僧侶や住民の生活物資や高野豆腐の原料・製品の輸送及び参詣者の荷物の託送などに使用された。高野山霊宝館・金堂・根本大塔の建立にも多くの建設資材を運び上げた。しかし、昭和9年に玉川林道が開かれて山上までトラックが行けるようになると高野索道の輸送需要は激減し、35年の高野山道路の開通を機に業態を自動車輸送に転換して索道は廃止された。なお、昭和27・28年の豪雨で道路などが山津波で甚大な被害を受けた時には、高野索道は唯一の輸送機関として救援物資の輸送、山上の生活確保、復興資材の輸送に活躍している(斎藤 達男「日本近代の架空索道」(コロナ社)による)。現在は、同社は南海系の「サザントランスポートサービス」として主に関西空港に関連する輸送を行っており、大門駅跡地に営業所を保有している。写真の出典は図7と同じ。

 7) レールの規格は1m当たりの重量で呼ばれており、JISでは普通鉄道用として60kg(主に新幹線)、50kg(主に在来線の幹線)、40kg(主にローカル線)、37kg(主に引込線、待避線など)のものが規定されている。これ以外に工事や鉱山での使用のために、断面の小さなレールが存する。

 8) 昭和22(1947)年に農林省(本州・四国・九州の国有林を所管)・内務省(北海道の国有林を所管)・宮内省(皇室の御料林を所管)の国有林を統合して以来、国有林野事業は木材の販売収入を基盤とする特別会計で実施されてきた。本法では特別会計に一般会計から資金を繰り入れて公益的な事業を行うこととしていたが、平成25(2013)年に「国有林野の有する公益的機能の維持増進を図るための国有林野の管理運営に関する法律等の一部を改正する等の法律」が施行され、特別会計を廃止して森林の公益重視の管理をさらに推進するとともに、低コスト林業技術の開発普及・民間の森林事業体やその人材の育成・木材の安定供給体制の構築などを図ることとされた。

 9) 乗合自動車がわが国で初めて営業したのは明治35(1909)年であるが、自ら自動車専用道路を建設して乗合自動車事業を行った者としては同社が最初であるとされる(「高野山交通史-高野参詣への自動車道」(高野山霊宝館「霊宝館だより 第89号」所収))。写真は前掲書による。

10) その後、南海鉄道は高野山電鉄に乗入れられる車両の製造を急ぎ、7年からは難波〜高野下〜極楽橋間の直通運転ができるようになった。