許認可競争の申し子、「男山ケーブル」

トレッスル橋で大杉谷を渡る「男山ケーブル」
 都の裏鬼門を守護するため貞観2(860)年に朝廷の命により造営された石清水(いわしみず)八幡宮は、仁和寺の法師は知らなかったそうだが(徒然草 第52段)男山の山頂に鎮座する。平成28(2016)年の2月に国宝に指定された。ここに参詣する人の便を図って敷設されたのが「京阪電鉄鋼索線」、通称「男山ケーブル」だ。本稿ではこの鋼索線に係る逸話をご紹介しよう。


正から昭和初期は私鉄建設が熱を帯びた時代だった。京奈和間においては、すでに明治43(1910)年に「京阪電鉄」(以下、「京阪」という)が、大正3(1914)年に「大阪電気軌道」(現在の近鉄奈良線)が開業しており、「奈良電鉄」(現在の近鉄京都線)も昭和3(1928)年に開通する見込みであったが、これら3線に囲まれた地域においてこれらと競合する私鉄の出願が盛んであった。大正11年に大阪電気軌道が自社線から別れて天神橋四丁目に達する路線や、「阪神電鉄」が梅田から四条畷まで延伸する路線の申請がなされていたが、本格的なのは「畿内電鉄」による天王寺〜七条(JR京都駅付近)間の免許申請(14年)だった。
 この認可を牽制するため、京阪は、鉄道省の誘いに応じて(鉄道省は自ら国鉄を経営すると同時に私鉄の認可権も持っていた)片町線への乗入れを出願した(昭和2年)。費用600万円(現在価格で約42億円)を京阪が負担して片町線を電化・3線軌条化・複線化(片町〜星田間)し、自社の車両を走らせるというものだった。
図1 京阪奈間に各社が申請した私鉄路線
併せて京阪は、片町線の長尾から奈良線の新田に達する路線も出願している。
 同年、石清水八幡宮に向かう鋼索線を経営していた「男山索道」が、新京阪鉄道の大山崎から片町線長尾までの鉄道免許を得た。この会社の重役であった野田 儀一郎は、才賀電気商会1)で支配人を務めていた人物であり、同社が破綻した後は独立して同じようなビジネス、すなわち先んじて鉄道の免許を取得し(または建設まで行い)鉄道を欲しているが事業のノウハウの乏しい地元の資本家に高く売る仕事をしていたと思われる。京阪はこのようなことは十分承知であったが、この免許が他人の手に渡れば自社の経営に支障になると判断し、やむなく同社の株の過半を引受けて子会社にした。
 さらにこの年、奈良電鉄は、まだ建設中路線の完成を見ないうちから、畿内電鉄に対抗して玉造〜小倉間の免許を新たに申請した。また、この年には、大阪の資本家が設立した「東大阪電鉄」が森ノ宮〜四条畷〜奈良間の免許を申請した。東大阪電鉄は、鉄道に明るい人物が発起人におらず、急峻な清滝峠を越えるのにトンネルやループ線を考慮していないなど明らかに杜撰な計画であったのだが、奈良電鉄は自社よりも同社の方が免許交付の見込みが高いと判断し、四条畷〜小倉〜宇治間を新たに申請するとともに同社の株の過半を買い込んで支配下におくという行動に出た。このような激しい競願の末、実際に免許が下りた(昭和4年)のは、有力視された畿内電鉄ではなく、奈良電鉄の当初の申請と東大阪電鉄の申請に対してだった2)。そうなると奈良電鉄が所有する東大阪電鉄株は不要になる。これを譲渡したいという話が京阪に持ち込まれた。京阪では、東大阪電鉄の免許を足掛かりにすれば片町線に投資をするよりも有利に奈良に行く路線ができると考え、これに応じた。そして、片町線に費用負担して乗入れる認可は返上した。
 この結果、京阪にとって唯一のライバルは奈良電鉄ということになったが、同社では京阪が支払った代金を横領した廉(かど)で専務と常務が有罪判決を受けるなど大いに混乱をきたした上に、昭和5年に勃発した世界恐慌の影響を受けて、結局、免許線を建設することができずに失効させてしまった。一方の京阪も、新京阪鉄道の過大な投資が経営を圧迫していたところに恐慌に見舞われたから、とてもこれ以上の新線を建設する余裕はなかった。こういう顛末で、各社が入り乱れて競った京阪奈間の私鉄は、結局は何も建設されないまま終焉を迎えた。京阪は、男山鉄道(男山索道が昭和3年に改名)と東大阪電鉄に200万円ほど投資したが、
図2 男山ケーブルの離合点付近
手に残ったのは0.4kmの鋼索線だけということになった。
「男
山ケーブル」と呼ばれるこの鋼索線が開通したのは大正15年。その後、昭和19年に軍に資材を供出するために不要不急線として廃止され、30年に京阪が改めて免許を受けて再開した。石清水八幡宮への初詣客でにぎわう1月が年間利用者の半分を占めるという季節変動の大きい路線で、男山山上駅に巻上機を2基装備し、繁忙期は250馬力の巻上機で12.6km/時、通常期は190馬力の巻上機で8km/時で運転する。わずかな延長のうちに2本のトンネルとL=108.7mの「男山橋梁」を有し、しかもトンネルから橋梁にかけての区間が離合のために複線断面になっている。なかなかの高コスト路線である。
 繁忙期には頻発するそうだが、通常期の男山ケーブルの運転は15分間隔の1時間4本。そのうち2本は乗客がなければ運転しないというダイヤだ。かつて京阪奈間の激しい許認可競争の渦中にあったとは思えない
図3 男山橋梁(左)・中古沢橋梁(中)・開運橋(右)の橋脚、いずれも急峻な斜面にあって大規模な地形改変をせずして建脚に成功している、“自然にやさしい”工法と言えようか
のどかなケーブルカーである。
幡市駅からケーブルカーに乗らずに、渓流に沿って杉山谷不動尊に向かう。思いのほか険しい山道を10分ほど行くと、そこに現れるのが道を塞ぐように建つ男山橋梁の橋脚だ。男山橋梁は「トレッスル橋(trestle bridge)」3)、すなわち、橋脚を柱にせずに鋼材を櫓のように組んで構築する形式。最近ではほとんど採用されないが、南海高野線の「中古沢(なかこさわ)橋梁」(昭和2年)や信貴山の「開運橋」(6年)がこの形式で知られる。
 これらの立地場所に共通しているのは、斜面が急峻であるため大規模な進入路が確保できず施工ヤードが狭小であること。この点、この形式は@比較的小さい部材に分割して資材を搬入でき、A構築した部分を足掛かりにして上に伸ばしていけることから、前記の条件下で橋脚を建設するのに適していたと筆者は考える。谷が深くて橋脚が高くなる場合には特に有利であろう。男山橋梁は地表から43mの高さに架かっており、これは「第二広瀬川橋梁」(JR仙山線)の51mに次ぐ規模だという。
 (2016.05.24)
1) 才賀 藤吉(明治3(1870)〜大正4(1915)年)が、大阪電燈や三吉電機工場などの勤務を経て設立した会社。各地の電気会社や電鉄会社の設立に関与し、その数は100社とも150社とも言われる。しかし、経理は不透明であり、明治天皇の大喪の礼により銀行が一斉に休業している間に不渡りを出して破綻した。

2) この免許交付に当たって小川 平吉鉄道大臣を巡る汚職があったという疑獄事件に発展する。

3) Trestleとは架台あるいは脚立の意味で、主にアメリカの大陸横断鉄道などで19世紀後半に盛んに用いられた木製のティンバー・トレッスル(timber trestle、右図 出典: http://works-k.cocolog-nifty.com/page1/images/2011/12/13/f_11.jpg)が、部材に鋼鉄を用いるようになってスパンが大きくなったもの。かつてはJR山陰本線の餘部鉄橋(明治45(1912)年)が著名であったが平成22(2010)年に運用が廃止され、現在ではわが国に12橋が存在するとされる。