役割を終
えて自
ら撤退した「
赤穂鉄道
」
赤穂水道に沿う遊歩道になっている砂子付近の赤穂鉄道の跡地
新快速を姫路で乗り換えて山陽本線を岡山に向かって25分ほど走ると有年(うね)駅に着く。こぢんまりした駅舎の西に空地が広がるが、これはかつての「赤穂鉄道」(昭和26年12月12日廃止)の跡。ここから軽便鉄道が赤穂に通じていたのだ。廃止の時点で赤穂鉄道には特段の経営上の問題を抱えていたわけではなかった。それが廃止に至った経緯を訪ねてみた。
赤
穂は塩が有名だ。浅野家の初代 長直は正保3(1646)年に姫路藩 塩田村から塩民を呼び寄せ、東浜を干拓させた。東浜は新浜村として独立し、その戸数は万治4(1661)年で61軒、宝永6(1709)年には189軒、天保10(1839)年には578軒と大きく発展する。浅野家が廃絶した後に赤穂に移封した森家も、新たに西浜を開発するなど製塩業に力を入れた。生産された塩の7割は江戸で販売されたとされ、その積出港である坂越(さこし)浦は大いに栄えたという。
明治になると、赤穂の製塩業は藩の庇護を失い、民間が自ら生産や流通を統御しなくてはならなくなった。しかも15(1882)年以降 何度も潮害を受け、赤穂の塩の信用は低下していた。これを立て直して販売を拡大するには、廻船だけでなく全国に広がりつつある鉄道網を利用した運輸が必要だと考えられた。ところが、21年に兵庫〜姫路間を開業した山陽鉄道(現在のJR山陽本線)は、23年には有年から上郡を経て岡山県の三石に達しており、赤穂からは10km以上も離れていた。鉄道ネットワークから取り残された赤穂の町を山陽鉄道にアクセスさせるために、自分たちで鉄道を敷設しようとする計画が何度も提起された。
その最初のものは、日清戦争(27〜28年)後の29年に出た「播州鉄道」だった。赤穂から千種川に沿って走って有年で山陽鉄道に連絡しさらに北上して上郡から佐用に至るという計画だったが、ルート
1)
や軌間を巡って発起人の意見が一致しなかったのに加えて、同年に発起された「赤穂鉄道」との競合を嫌って有力な発起人が辞退したため、頓挫してしまった。赤穂鉄道とは、山陽鉄道の那波(現在の相生)から赤穂・片上・西大寺を経て岡山で山陽鉄道に結ぶ本線と西大寺で岐れて牛窓に至る支線とで成るという本格的な計画で、本線はほぼ現在のJR赤穂線に相当するものである。会社は、塩などの物産の輸送と沿線人口の多さから十分に採算がとれるとしていたが、なぜか実現に至らなかった。「もしこの計画が実現していたら、その後の赤穂の発展はかなり異なったものになっていたであろう」と、赤穂市史は残念がる。次に赤穂で鉄道計画が持ち上がるのは、新浜の有志が提案した「播備電鉄」(40年)だった。これは、龍野または播磨新宮から那波・赤穂・片上を通って西大寺まで行くという計画で、東播・西備地区の鉄道空白都市を一気に解消しようとするものであったが、この計画も発起人の募集がうまくいかなかったようで半年ほどで瓦解してしまう。
全
国各地で鉄道を求める声が高まるのに応えて43年に「軽便鉄道法」が公布され、併せて国による補助が認められた。
図1 赤穂鉄道の位置、現在の鉄道と高速道路を破線で付記した
これを契機に、赤穂でも軽便鉄道を敷設する動きが急速に具体化した。翌44年に鉄道院の技師を招いて実地踏査が行われ、沿線の7町村長と各町村の惣代2名ら26名が参加して「赤穂鉄道期成同盟会」を発足(大正元(1912)年)させて、各町村への株式割り当てを決定した。当初の「起業目論見書」では、赤穂の西郊の塩屋村を起点として千種川右岸を通って上郡
2)
まで行く本線と、坂越村で分岐して坂越港に至る支線が計画されていた。軌間762mmの蒸気鉄道であった。しかし、必要な資本金50万円を集めるのは難しかった。各町村は課税基準に基づいて半ば強制的に各戸に株式を引受けさせ、在京・在阪の赤穂出身者にも投資を依頼したが、思うように進まなかった。そのため、有年〜上郡間と坂越支線を取りやめて資本金を25万円に減額することとし、さらに、富原(とんばら)付近に架橋するとしていたのを根木付近で左岸に渡ることにして工費の縮減を図っている。このような経緯の末に、3年後の大正4年5月に「赤穂鉄道」の創立総会が開かれる運びとなった。
着工の後も、困難が続いた。水路付替え工事がずさんだとの訴えが知事に提出されたり、用地取得交渉がもつれて土地収用事業認定を受けざるを得なくなったりして、工事の遅延が相次いだ。完成したのは10年3月。6年近くかかったことになる。また、会社は、千種川を渡る橋梁のトラス構は九州鉄道から、車両や信号機などは改軌により不要となった龍崎鉄道から譲り受けるなどして
3)
工費の縮減に努めたが、この間に費やした費用は67万円にまで達した。資本金の2.7倍に相当する額だ。工事期間が第1次世界大戦の物価高騰期に当たったためである。一方、資本金の払い込みは遅々として進まず、会社は多額の借入金を必要とした。これを見かねた赤穂郡長 森 重毅は役員を督励して各12.5万円の優先株を2度にわたって発行したが、なお資金が不足したので赤穂町が株を買い増しし、それでも不足する分は福井 義夫郡長が「兵庫県農工銀行」から20万円の借入れに尽力して
4)
、ようやく開業にこぎつけることができた。
その興奮を大阪朝日新聞は次のように伝えている。「鉄道省に出頭して懇請した結果、漸く13日午後7時認可の電報に接したるを以て会社にては直ちに数名の人夫を督し沿道町村民に対し「赤穂鉄道開通」の宣伝ビラを散布せしめたので沿道町村民は俄に活気づき至る所萬歳萬歳を連呼する有様であった(中略)。明けて14日の開通当日は朝来天気はよし、
図2 有年に向かう赤穂鉄道の列車、機関車の後ろの無蓋車には塩を積み客車のデッキには人があふれている(出典:参考文献2)
図3 千種川を渡る赤穂鉄道の列車、橋梁のうちポ
ニートラスは
九州鉄道の遠賀川橋梁から譲り受けた(出典:同左)
我先きにと一番乗りを競う連中で赤穂駅は忽ち人の山、豆の如き機関車に連結された客車6輌は乗客の押すな押すなの大騒ぎの裡に忽ち満員の大盛況を見せた」(大正10年4月15日付け大阪朝日新聞神戸付録)。
鉄道の開通により赤穂の人たちは格段に便利になったが、見込んだほどの需要は得られなかった。会社は、冬には義士祭、夏には海水浴や赤穂御崎の観光に力を入れて域外からの増客を図った。多客期には深夜までピストン運転することもあったという。また、会社の支出の3割が借入金利子というのも経営を圧迫したが、14年に35万円の増資を行ってからは堅調になった。そして、昭和3(1928)年からは気動車(ガソリンカー)を導入して列車の増発を行い、主な資産の償却が進んだ13年からは配当も出せるようになった。戦中・戦後も輸送量の衰えはなく、年間旅客50万人、貨物量3万tを維持し続けた。
さ
て、明治23年に船坂峠を1,138mのトンネルで克服して三石に達した山陽鉄道(34年に馬関(現在の下関)まで全通、39年に国有化)は、峠の前後の急勾配区間がひとつの難所になっていた。この輸送力を補うため、大正11(1922)年に改定された「鉄道敷設法」には、「兵庫縣有年ヨリ岡山縣伊部ヲ經テ西大寺附近ニ至ル鐡道及赤穂附近ヨリ分岐シテ那波附近ニ至ル鐡道」が盛り込まれていた。起点を有年にするか那波にするかでもめた上に第2次世界大戦による建設の中断があって、相生〜赤穂間が開通したのは昭和26(1951)年になった。国鉄赤穂線である。その開通の前日、赤穂鉄道は最後の営業を終え30年の幕を閉じた。
赤穂線は赤穂鉄道のライバルであるはずだが、同社は赤穂線の建設に異議を唱えなかったし、補償金を求めることもなかった
5)
。むしろ、有年駅での積み替えを要しない赤穂線による地域の発展を願って自ら身を引いた感がある。レールの取り外された廃線敷きや橋梁は、売り払われることなくそのまま道路敷きとして移管された。投資家が資本増殖を目的として起業した鉄道ではなく、地域の住民らが資金を出し合って敷設した鉄道であったからこその、潔い最期であった。
図4 有年駅の西に残る空地、参考文献2によれば昭和52(1977)年頃にはまだ赤穂鉄道の駅舎が残っていたという
図5 県道有年原周世線になった富原〜周世間の赤穂鉄道の跡、川に
沿った
山裾を
切って
敷設したことがわかる
図6 千種川を渡る橋梁は昭
和53(1978)
年まで道路橋として使われたが現在は橋脚の跡を残すだけ
図7 赤穂鉄道が周辺の観光地に走らせていたバス事業は神姫バスに譲渡され播州赤穂駅の跡が同社の車庫になっている
(参考文献)
1 赤穂市「赤穂市史 第3巻」
2 安保 彰夫「赤穂鉄道の発掘」(ネコ・パブリッシング)
(2016.04.14)
1) 有力な発起人が坂越の人であったためか、播州鉄道は赤穂側のターミナルを千種川を挟んだ東岸に置くこととしたため、これを好感しない発起人が多かったとされる。
2) 兵庫県佐用郡の有志らが明治43年に上郡〜江見(岡山県英田(あいだ)郡)間に「播美鉄道」の免許を受けていた(松岡 秀夫「播美鉄道の話」(西播史談会「播磨」第67号所収))。江見では米子まで伸びる予定の「中国鉄道」に接続することになっていたので、上郡が鉄道結節点として重要な位置に当たると考えられた。しかし、播美鉄道は一部の工事に着手しただけで中止された。後に赤穂鉄道が有年〜上郡間を廃止するのは播美鉄道の中止が関係しているという。
3) 当時は各地で鉄道建設が盛んであったので、鉄道技術者はひとつの事業が終わると別の会社に移って当該社の事業に従事していた。会社はこのような技術者の知見を通じて他社の状況を知ることができた。情報通信の発達していない時代に他社の不用品の転用がうまくいったのは、このような事情があったからである。
4) 赤穂鉄道の建設に歴代郡長の積極的な関与が見られるのは、当時の赤穂郡は郡役所をどこに置くかで騒擾が起きるほど地域間の対立が激しく、これを融和する上で鉄道の効果に期待したためであった(参考文献1)と言われる。
5) 戦前においては国鉄線が建設されることにより競合する私鉄が廃止になるときには補償金が払われるのが通常であったが、戦後の日本国有鉄道公社にはこの制度がなく、赤穂鉄道を前例として補償を行わないこととしていた。一方、昭和37年に赤穂線の伊部〜東岡山間の開通により廃止に至った「西大寺鉄道」は、「地方鉄道軌道整備法」を根拠に猛烈に反発して、補償を得るのに成功した。 以後の鉄道建設では、私鉄が廃止になる場合に補償を行うかどうかの制度的課題が担当者を悩ませたという。