丹波で最大の城下町に鉄道がない理由

篠山城の堀に沿った遊歩道にかつては篠山鉄道が走っていた
 デカンショ節で知られる丹波篠山は6万石の城下町。その篠山城の北堀に沿う市道に設けられた遊歩道に、かつては“マッチ箱”と呼ばれた客車を挽いた小さな蒸気機関車が煙を吐いていた。それが廃されて70年余。廃線跡を歩きながら、鉄道の通らない町の現代におけるありようを調べてみた。

図1 丹波国の城下町の明治以降の人口変化、鉄道結節点となった福知山・綾部が存在感を強めている

山は、古代には山陰道から分岐して武庫川流域や加古川流域を経て山陽道と結ぶ支路の拠点として宿駅が置かれていたが、江戸時代になると大坂の豊臣氏と西日本の諸大名を分断する軍事上の要衝としての位置づけが与えられ、慶長14(1609)年に徳川 家康の命で天下普請1)により篠山城が建設され、実子 松平 康重が入城した。爾来、篠山は松平家8代と青山家6代の城下町として栄える。明治4(1871)年の廃藩置県により篠山藩は篠山県になり、豊岡県を経て9年に兵庫県に包含されて多紀郡篠山町になった。
 廃藩時の篠山藩の石高6万石は、丹波では最大の規模であった。ところが、その後の発展を見ると、人口の伸びは他の城下町と比べてかなり鈍いことが明らかだ。その要因として、参考文献1を始め多くの関係者は、篠山が鉄道不便の地であることを挙げている。では、どのような経緯があって当地が鉄道に恵まれなくなったのか、その歴史を見ていこう。
図2 篠山における鉄道計画
治の中頃、当地では2つの鉄道が構想されていた。ひとつは、大阪と舞鶴を結ぼうという「阪鶴鉄道」で、同社は古市から大きく迂回して篠山の西郊に駅を設ける考えであった。もうひとつは、京都府の園部と姫路とを結ぶ「京姫鉄道2)」で、篠山の南郊に駅を設けようとしていた。阪鶴鉄道の駅の予定地で用地買収に反対する者があったので、京姫鉄道と適切に連絡すればあえて阪鶴鉄道を迂回させる必要もないということになって、明治32(1899)年に開通した時には篠山から5kmも離れたところに駅を置いた。名前ばかりは「篠山」とされたが、実際には味間村弁天にあった。ところが、篠山の人々が期待を寄せていた京姫鉄道は、資金の問題から計画倒れに終わってしまった。かくして篠山は鉄道に恵まれる最初のチャンスを失ったのである。参考文献2は、これを「千載一遇の好機を逸した」と悔やんでいる。なお、阪鶴鉄道は40年に国有化され、現在のJR福知山線に至っている。
山の市街と駅との往来は人力車と馬車に頼らざるを得ず、この間の鉄道が熱望されていた。43年になって有志7人が発起人となって軽便鉄道の敷設を申請し、大正2(1913)年に「篠山軽便鉄道」を設立して、4年に弁天〜篠山町間3.9kmを開通させた。
図3 篠山城の堀端を走る篠山軽便鉄道(出典:湯口 徹「日本の蒸気車(下)」(ネコ・パブリッシング))
28ポンドの細い軌条で軌間は762mm。車両の小ささに人々は"マッチ箱"と呼んだという。
 これの実現には、40年に歩兵第70連帯が篠山に置かれることになったことが影響していると思われる。約1,000人が入営していたという。篠山町駅は憲兵分隊のすぐ南に設けられた。その後、10年に西町駅と改称し、そこから1km延長して町の中心に新たに篠山町駅を開設している。14年には1,067mmに改軌するとともに社名を「篠山鉄道」に変更し、弁天駅を廃止し国鉄篠山駅に乗り入れた。会社は利便の増進に努めたが、乗客は多くなく、補助金頼みの経営であった。篠山鉄道は、篠山〜日置間の免許も受けることに成功したが、施工には至らなかった。
住をはじめとする多紀郡東部の地域では、京姫鉄道が未成に終わった後も鉄道を望む声が強く、大正11年に施行された新しい「鉄道敷設法」では、別表第78号に「京都府園部ヨリ兵庫県篠山附近ニ至ル鉄道」が盛り込まれた。
図4 本篠山バス停付近に建てられた国鉄バス 園篠線の記念碑、いくつもの支線が走っていたようだ
福住村出身の代議士らが陳情を重ねた結果、昭和3(1928)年に「園篠線」として政府の建設確定線に加えられ6年度から起工することが決まったが、第58回帝国議会(5年)において起工繰延の扱いを受け未成になってしまった。9年になって、その代償として省営バス園篠線が開通したものの、地域ではあくまで鉄道敷設の夢を捨てきれず陳情を継続した。
 この粘り強い運動が功を奏する時が来る。第2次世界大戦が勃発して戦局が重大となるや、山陽本線を回避して京都〜姫路間を結ぶ鉄道の必要性がまたもや浮上したのと、多紀郡東部で産出する硅石3)やマンガン4)の輸送のために、17年に園部〜篠山間の鉄道敷設が決定された。不要不急線として廃止された有馬線(三田〜有馬間、12.2km)の資材を転用し、突貫工事の末、第1期線である篠山〜福住間17.6kmが完成し、19年4月に「篠山線」として営業開始した。それに先立って、福知山線の篠山駅は篠山口駅と改称。篠山線に新たに篠山駅が設置されたが、篠山線は園部方面への連絡を重視していたため、駅ができたのは市街から遠く離れた城南村だった。一方、市街の中心に駅を持つ篠山鉄道は、篠山線がこれと交差するように施工されたため、同線の敷設と同時に廃止。並行する道路にバスが走るようになった。篠山鉄道の資材は、西宮市にあった航空機製造工場と東海道線を結ぶ阪神電鉄武庫川線に供出された。
 しかしながら、翌20年に終戦を迎え、福住〜園部間の建設は着手されることなく中止された。以来、篠山線は地域輸送の使命を帯びることとなるが、駅の位置が不便なことなどから利用者は少なく、43(1968)年に「赤字83線5)」に指定されて廃止の方向が固まった。沿線では「国鉄篠山線園部延長期成同盟」を「篠山線廃止反対同盟」に切り替えて活発な反対を繰り広げたが、
図5 篠山川に残る篠山鉄道の橋脚の跡
篠山線の営業成績は悪化するばかりで、ついに47年に全線が廃止された。これで、篠山の鉄道事情は明治32年の状態に戻ってしまった。
成11(1999)年、旧多紀郡篠山町・今田町・丹南町・西紀町の4町が合併して篠山市が誕生した。「自治体合併による人口4万以上の市制」を全国で初めて適用したもので、「平成の大合併」のさきがけとなった。新たにできた篠山市は、面積377.16km2。篠山口までJRの快速電車が走るなど大阪への通勤圏に入っているように見えるが、人口は43,000人足らずで年々減りつつある。
 篠山鉄道が廃されて70年以上たった今、篠山の市街地を歩いてみると、かつてここに鉄道が通じていたことはほとんど忘れられているようだ。廃線敷きの大部分が道路・通路に転用されているほかは、意図的に残されている遺構は見当たらない。一方、高度成長期の人口増加を経験しなかったので、しっとりとした品格のある街並みを呈している。
 市街地の改変が少いことが幸いして、16年に城跡とその周囲の武家屋敷群や商家群が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。保存地区は東西約1,500m、南北約600mに及ぶ。城址の西に広がる武家屋敷群は、
図6 御徒士町(おかちまち)の武家屋敷群、天保元(1830)年の火災の後 6尺(約1.8m)後退して建てられた家々が連なる 図7 城下の商業の中心として栄えた河原町の妻入り商家群、貴重な建物が生業・生活の場として使われている
間口8間(約14.5m)、奥行25間(約45.5m)という江戸時代の敷地割が残り、通りに面して土塀と棟門が続く。また、市街地の東南には約700mにわたって江戸末期から昭和初期にかけての商家が並んでおり、こちらは間口が3間(約5.5m)ほどであるの対して奥行が20間(約36.4m)〜60間(約109.1m)もある。「妻入り商家群」と呼ばれ、建物の妻側6)を道路に向けた造りが特徴だ。
を延ばして、国鉄篠山線の終点であった福住の集落を訪れよう。廃線後、国鉄は跡地を積極的に売却したので
図8 丹波日置〜村雲間に残された橋梁、なぜか枕木とレールがそのままになっていた
ほとんどが農地や道路に転じているようだが、日置駅跡あたりで国道372号から逸れて篠山川に沿って大きく左に向きを変えた付近では低い盛土が残っていて、小さな橋梁が散見される。やがて廃線敷きは県道上宿栃梨線と交錯して痕跡が消えてしまう。
 たどり着いた福住の集落は、亀岡に続く「西京街道」に沿って2.5kmも人家が連続する町だった。近世までは宿場町として栄え、農業と兼業で旅籠や茶店を営む家が多かったが、京都鉄道や阪鶴鉄道の整備により当地を経由する旅客が激減し、福住は農村集落としての性格を強めることとなった。篠山線がほとんど経済効果を与えないまま
図9 街道に沿って妻入り民家が
  並ぶ福住の集落
廃止に至ったこともあって、福住は近代化の影響を受けずに経過し、江戸時代から明治時代に建てられた妻入り民家を中心とした伝統的な町並みを残している。24年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
る時期、地方都市の“まちづくり”と言えば、鉄道沿線での核都市への通勤者を対象としたニュータウンの建設や鉄道駅を中心とする大型テナントを核とした再開発がイメージされた。それは各地で行われ、個性のない画一的な都市を作ってきたとも言われてきた。戦争さえなければ篠山鉄道は健在であったかも知れないが、現実には鉄道を持たない篠山はそれとはまったく異なる道を歩まざるを得なかった。開発と無縁であった結果、篠山の城下は江戸時代の絵図と比べても現在まで街路の骨格はほとんど変わっておらず、市街地の外縁化も見られない。それが重要伝統的建造物群保存地区の指定につながったということなのだろう。指定を受けるには住民の全面的な協力が必要である。保存地区でない市街地も含めて、町の中にコンビニや居酒屋チェーン店などの外部資本が見られず、地元の人たちで商いを守っている印象を受けた。こういう町だからこそ選択できた方途ではなかったかと思う。


(参考文献)
1.権田 雅幸「兵庫県多紀郡における交通路の変遷と地域発達」(歴史地理学会「歴史地理学」第111号所収)
2.兵庫県篠山町「篠山町百年史」
(2016.03.15)


1)幕府が諸大名に命じて行わせた土木工事のこと。城郭の建築や道路・河川などのインフラ整備工事も含まれる。

2) 明治25年に制定された「鉄道敷設法」に掲載された「山陰及山陽連絡線」に相当するものとして建設に向けた準備が進んでいた鉄道。法には「兵庫縣下姫路ヨリ生野若ハ笹山ヲ經テ京都府下舞鶴又ハ園部ニ至ル鐵道若ハ兵庫縣下土山ヨリ京都府下福知山ヲ經テ舞鶴ニ至ル鐵道」とたくさんの代替案が示されていたが、京都〜舞鶴間の京都鉄道(26年設立)を活用して効率的なネットワークを形成できる上、須磨〜舞子付近で著しく海岸に接近して艦船からの攻撃を受けやすい山陽鉄道の迂回路にもなるとして、国も同社の事業に乗り気だったといわれる。

3) 主にシリカ(二酸化珪素SiO2)からなる鉱物や岩石の総称で、ガラス・セメント・鉄鋼・陶磁器等の材料として利用される。

4) 戦争中は乾電池の原料として重視され多数の鉱山が開発された。丹波地方には小規模なものが集中した。

5) 国鉄の財政悪化を改善するために総裁が設けた「国鉄諮問員会」は、経営体質の改善が急務として、@営業キロが100km以下で鉄道網全体から見た機能が低く沿線人口が少ない A定期客の片道輸送量が3,000人以内、貨物の1日発着600t以内 などの基準に照らして、「使命を終えた」とする83路線を選定。廃止を勧告した。国鉄はこれに基づいてローカル線の廃止に乗り出したが、協議が難航して実際に廃止できたのはこのうちの11路線に留まった。

6) 棟に直角な面のこと。妻側を正面とする建物を「妻入り」という。棟に平行な面は「平(ひら)側」。