あ     じ
安 治 川

河村 瑞賢が拓いた大阪発展の基盤

川口付近から安治川の河口方向を望む
 中之島の西端で合流した土佐堀川と堂島川は、南に木津川を分けると一直線に海に向かう。この部分を「安治川」と呼ぶ。この工事を指揮した河村瑞賢安治(やすはる)(元和3(1617)〜元禄12(1699)年)の名をとって、元禄11年4月に幕府が命名した。本稿では、瑞賢が行った工事についてご紹介し、大阪の発展に大きく寄与したその意義を考える。


永元(1704)年に「川違え」が行われるまで、大和川は柏原から幾筋もに分かれて河内平野を北西に流れ、寝屋川とともに大川に注ぎ込んでいた。これを現在のように付け替えてほしいという嘆願はたびたび提出されていたが、新しい川筋に当たる村々からは猛烈な反対を受けていたことから、幕府は容易には決しかねていた。ところが度重なる洪水災害と凶作・飢饉により農民の不穏な動きが起こることを懸念する幕府は、もはやこの問題を放置しておくことができなくなった。すでに何度かの調査はされていたが、改めて現地を踏査して治水方針を定めることとした。
 「常憲院殿御実紀」(「常憲院殿」とは5代将軍 徳川 綱吉のこと)の天和3年2月18日の条に、この日 「臨時朝会」があって「少老 稲葉 石見守正休(まさやす)、摂河両国の水路巡検を命ぜられお手づから羽織下され暇(いとま)給う。大見付 彦坂 壱岐守重継(しげつぐ)、勘定頭 大岡 備前守重清(しげきよ)並びに属吏にも同じ」との記事が見えるそうだ。この時に調査を命ぜられたのは先に名の出た3名に加えて代官 伊奈 忠篤(ただとく)1)、商人 河村 瑞賢と伊奈の手代ら5人の計10人だった。
 瑞賢は伊勢国度会郡東宮村(現在の南伊勢町)の貧農の家に生まれ、13歳で江戸に出て車力や行商を経て土木工事の人夫頭をしていたが、明暦の大火(1657年)の時に木曽の木材を買占めて巨万の富を得た。工事の請負を通じて小田原藩主 稲葉 正則の知己を得、しだいに幕府の公共事業に関わっていく。奥州の年貢米を江戸に廻送する東回り航路や大阪に廻送する西回り航路を開拓したことで著名だ。当時66歳になっていた瑞賢は、傲岸なところがなく人の意見をよく聞きながら画期的なアイデアを発案できる人として重用されていた。
井 白石の手になる「畿内治河記」によると、巡検の一行は、3月に京都に着くと摂津・河内のほか丹波・山城・近江・大和にも足を延ばして淀川・大和川流域の状況を調査した。そして4月11日に大坂の本町橋東詰めにあった西番所の代官屋敷で調査結果のとりまとめの会議が行われた。席上、稲葉 石見守と瑞賢は大いに論じたと伝えられる。「百姓が種をまいて育てる環境を作るべき」と言う稲葉に対して瑞賢は、財政困窮の折から緊要の工事を優先的すべきとして、大和川の付替えは不要とした。彼の考えは「借水攻沙、以水治水」というもので、河川の流速を早くすれば砂泥の堆積がなくなって治水が実現するという意味だ。そして「詳(つまびらか)に審するに、水患を治むるは実は海口にあり」として、淀川の河口にあってその疎通を妨げていた九条島を開削して新しい川を作ることを進言するのである。同時に、河口の閉塞の原因は上流部のハゲ山にあるのだから山林の伐採禁止と植林の奨励を行うべきとも述べた。最終的には瑞賢の所論が採択され、一行の意見として幕府に上申された。
 翌年6月に再度の調査のため山城・河内を回った瑞賢は、9月に稲葉邸に呼ばれ、彦坂や大岡の立会いのもと淀川改修工事を委任する旨の命を受け、その諸費用が支給された。同時に、道中宿駅で無賃伝馬人足の使用を認める駅符を授かった。このことから、瑞賢は工事を請負う立場で参加したのではなく、稲葉らに代わって事業を監理する立場で参加したことがわかる。発注者支援のようなものであろう。
 明けて貞享元(1684)年正月、瑞賢は九条島に新しい川を通す工事の準備を進め、いよいよ2月21日に現場着手した。工事はいきなり島の中央に大きな穴を掘るところから始まった。湧水をここに集めて、あらかじめ用意してあった600基の足踏み式水車で汲み上げるのである。そして、順次、掘削範囲を溝状に拡大して河道とした。作業を効率的かつ確実に行うため、人夫を班に分けて編成してそれぞれに責任者を置いて統率させるとともに、要所で掛け声を入れて規律ある行動をとらせた。また、人夫が泥土に足を取られないよう現場に数万枚の木板を敷いて通路とし、昇降用の梯子には足を踏み外さないよう裏に簀(すのこ)を張った。「地の遠近を論ぜず四方より馳せ来て募(もとめ)に応ずる者」(「畿内治河記」)があって、予想以上の作業員を雇用できて工事は順調に進んだ。掘った土は南岸に積み上げて崩れぬように松を植え(「波除山」と呼ばれた。現存せず)、
図1 「弘化改正大坂細見図」(弘化4(1847)年)に見る安治川、 河口付近に描かれているのは導流のための竹篠であろうか(出典:大阪教育大学付属図書館デジタルコレクション、原図は東が上になっていたものを北が上になるように回転して表示)
川岸は石で固めて船を曳くための犬走りを設けた。最後に狼煙の合図で上・下流端の堤を崩すと、水は滔々と新川を流れた。昼夜兼行の集中的な作業により、長さ1,000丈(約3,030m)、幅30丈(約90.9m)の河川をおよそ20日で完成させたのである。後に「安治川」と命名される。併せて、九条島の臨海部に200丈(約606m)の堤防を築き、河口に近い海中に180丈(約545m)の竹篠を沈めて水流を導いた。
 深井戸から揚水してドライな工事現場を確保する方法や瑞賢の採った労務・安全管理の手法は現代に通じるところがある。それにしても、地質調査をせずして水車の必要台数を算出できたのは、よほどの知見の蓄積があったのであろう。河村家では日頃から手代らに技術知識を習得させており、彼らが議論して斬新なアイデアを生み出す気風が醸成されていたという。
 安治川の開削を終えた瑞賢は、淀川の諸派川の水量の調整を行っている。淀川は長柄付近で中津川と大川に分かれているが、水は中津川に多く流れ大川には少なかった。瑞賢は、分流点に多数の蛇籠(じゃかご)2)を沈めそれに沿って篠竹を立てて、両河川に均等に水が流れるようにした。また、大川は中之島で土佐堀川と堂島川に分かれ、堂島川からはさらに曽根崎川が分かれていたが、水は主に土佐堀川に流れ他の2川は涸れがちだった。瑞賢は堂島川を浚渫するとともに曾根崎川を720丈(約2,182m)にわたって修築した。
 ところが、このような修築の結果、支川が合流するところでは流水が滞留したり逆流するなどの事象が新たに生じた。瑞賢は急いで是正のための工事に取り掛かろうとしたが、幕府では最終的な費用が確定できない淀川改修工事を中止したいという意見が出てきた。これが稲葉 正休が大老 堀田 正俊を殿中で刺殺し自らも討たれるという事件に発展する。結局は、工事を中途半端のまま放置することはできないとして施行個所を絞って継続することとなり、再び瑞賢が命を受けることになる。彼は各所で河道を直線化したり河川内の竹木を伐採したり川底を浚渫したりしたが、なかなか水害は減らなかった。
 瑞賢が最後の工事を命じられたのは、彼が81歳になった元禄11年3月。全ての工事を終えて江戸に戻った時には年が明けて12年になっていた。3月に徳川 綱吉への謁見を許され、その3か月後の6月に82歳で没した。大坂の河川改修はまさに瑞賢の生涯をかけた事業であった。
葉 正休らに与えられたミッションは大阪平野の治水を図ることであったが、瑞賢は河川事業をもっと多目的なものと捉えていたのではなかろうか。西回り航路を拓いた瑞賢ならば、大坂の市中に達する水路としての用に供することも、重要な目的であったはずだ3)。堤防に犬走りを設けていたことがそれを裏付けるし、中津川と大川の、あるいは土佐堀川と堂島川の水量調整も、
図2 「摂津名所図会」(寛政10(1798)年)に描かれた安治川、大型の船舶が停泊して荷物を小舟に積み替えている(大阪市立図書館所蔵)
洪水対策の名の下に実は平時の水運の便を重視したもののように思える。
 そしてその後の安治川はまさしくそのように機能した。図2は寛政10(1796)年に刊行された「摂津名所図会」に収められた1枚。大小たくさんの船が安治川を行き交うさまを描いている。図中にある「安治川橋」とは、船津橋や端建蔵橋より約200m下流に架かっていたもの。船が通れるように高い橋脚を備えていたのが見て取れるが、大型の船舶が通ることは禁止されていたので、橋の近くの川口地区や富島地区に着岸してここで「上荷船」や「茶船」と呼ばれる小舟に積み替えた4)。上荷船と茶船は幕府の特許のもとに市中の水上輸送を独占しており、その数が瑞賢による一連の淀川改修工事が完了した翌年に500艘が追加されていることからも、
彼の改修工事が大坂の物流量の増大に寄与したことが伺える。「晴天には朝に東風ありて出帆に便よく、暮には西風に変ずる故に入船に便よし。ここをもって日本一の大港とす」(「摂津名所図会大成」)と評された川口・富島への大型船の到着は月に千隻を超え、「天下の貨(たから) 七分は浪華にあり、浪華の貨 七分は船中にあり」(広瀬 旭荘「九桂草堂随筆」)とも「大坂は日本国中の賄所とも云ひ、又は台所なりとも云へり」(久須美 祐雋「浪花の風」)とも言われる繁栄を見せる。
末から明治にかけて川口と富島は最も華やかな時を迎える。安政5(1858)年、幕府はイギリス・アメリカ・フランス・ロシア・オランダの5国と通商条約を結び、
川口運上所址・富島外務局址 「大阪開港の地」の碑 川口電信所跡(大阪電信発祥の地) 富島天主堂跡
大坂船手会所跡 川口居留地跡 旧大阪府庁跡 旧大阪市役所跡
図3 川口・富島地区に残る石標類
函館・新潟・横浜・神戸・長崎の5港を開港、東京・大坂の2市を開市(外国人の通商を認めること)することとした。大坂の開市は慶応4(1868)年1月。そして、明治元(1868)年7月になって大坂を開港することが決定され、川口の波止場が外国に解放され、富島に関税や外交を司る運上所・外務局が設置された。また、3年には運上所に電信局が置かれ、神戸との間にわが国で最初の電信線が開通している。開港と同時に川口には外国人の居留地が造成され、永代借地権が競売された。まもなく下水道が設置され、歩車道の区別とガス灯がついた道路が整備され、街区に西洋建築が建ちはじめた。
 始めに居留地に来たのは多くは商人だったが、彼らは次第に神戸に移り住むようになり、その後には
図4 大阪府指定有形文化財に登録されている川口基督教会、ヴィクトリアン・ゴシック様式の美しい伽藍で知られる
図5 河村 瑞賢の紀功碑、大正4年に建てられ背面に瑞賢の業績が記されている
キリスト教会とそれに付属した学校5)・病院などが建った。また、木津川をはさんだ対岸には、大阪府が、4本の大円柱を玄関に配し大時計のついたドームをもつ本格的な洋風建築庁舎(明治7〜大正15(1926)年)を建てて話題を呼んだ。市役所(明治22〜大正元年)も建って、この地は大阪の行政の中心にもなった。
 居留地制度は明治32年に廃止されるが、大正時代までは、周辺は外国料理店や喫茶店などがあって文明開化の雰囲気をよく残していた。今は居留地当時の建物は残っておらず、大正9年に建てられた川口基督教会が唯一 その面影を伝える。
賢の開削した安治川はその後の大阪の発展に大きく貢献した。その功績を讃える巨大な紀功碑が国津橋の跡地(N:34゚40'48"、E:135゚28'21")に建つ。大正4年に建てられたもので、当時の大阪府知事 大久保 利武の発案で沿川の有志が拠金した。朝日新聞編集長 西村 時彦による格調高い漢文がしたためられている。
 このような商業的発展は瑞賢が願ったものだったろうが、幕府が瑞賢に求めたものとは微妙な齟齬があったのかも知れない。この違いを大きく捉えれば、国の発展基盤を農業生産の拡大に求めるか商業の興隆に求めるかの、政策の優先順位の差と言うべきであろう。厳然たる身分制度がある中で、商人である瑞賢にこのような政策提言が許されなかったのは当然だ。だから、このギャップは瑞賢の心のうちに閉じ込められた。彼が終始 幕府の信任を受けていたことを考えれば、彼は心を砕いてこの相違をうまく整合させたに違いない。もし、幕閣の間で上記の議論が明示的になされておれば、堀田 正俊と稲葉 正休の死は避けられたかもしれないし、瑞賢自身ももっとのびのびと仕事ができたように思える。晩年の瑞賢は、「なすところはみな夢幻にして、実相を悟るべし」(「農家訓」)と語って、両名の冥福を祈って静かに暮らす日々が多かったという。むべなるかな。 
 瑞賢の死後、幕府は、洪水防御と河内平野での優良な農地を求めて、大和川の付け替えへと急速に方針を転換していく。幕府において公然と重商主義政策が語られるには、田沼 意次(おきつぐ)の登場(明和4(1767)年に側用人に登用)まで70年近い歳月を待たなければならなかった。
(2016.02.05)
(参考文献) 大西 吉郎「瑞賢の熱い眼差し」

1) 伊奈 忠篤は、伊奈 忠治に始まる一門の6代目。伊奈一門は関東において利根川の東遷(文禄3(1594)〜元禄11(1698)年)や江戸川の開削(寛永18(1641)年)などで成果を挙げた治水事業の専門集団だった。

2) 竹で長い円筒形の籠を編み、内部に石材を充填したもの。中国では紀元前に既に使用され古墳時代にわが国に伝来したとされるが、広く使われるようになったのは江戸時代に幕府が「地方(じかた)竹馬集」などの書物で治水工法を統一してからという。現在は竹の代わりに亜鉛アルミニウム合金めっき鉄線を使うのが一般的。

3) 瑞賢は、航路開拓に関連して阿武隈川(荒浜)・最上川(酒田)・関川(越後高田)の改修を行っている。

4) これが制定されたのは元和5(1619)年で、その時の上荷船と茶船の隻数は2,623艘であった。そして、制度の実効性を確保するため翌年に「大坂船手会所」が設置され、その配下に実際に船の動きを監視する「船番所」が設けられた。

5) 現在の平安女学院・プール学院・大阪女学院・大阪信愛女学院・桃山学院などが川口を発祥の地としている。