本 町 通

秀吉の城下政策から生まれた街道の今

店舗が建ち並んで賑わいを見せる伏見稲荷付近の本町通
 京都では、本町通とは、五条大橋の東詰から鴨川左岸を南進して伏見に至る道路を指する。東山区では伏見街道(もしくは伏水街道)とも呼ばれ、深草・藤森付近では直違橋通(すじかいばしどおり)と通称され、伏見に入って京町筋につながる。今では場末の商店街にしか見えないこの通りが、その名に違わず本当に「本町」であった頃のにぎわいを思い起こしてみたいと思う。

都から南下して奈良方面を結ぶ道は古代からあったが、そのルートは、京都からしばらくほぼ今の本町通の東を南下し、伏見稲荷付近で東南東に折れて大亀谷から「木幡越」で桃山丘陵を越えて六地蔵を経て宇治橋に達するものであった。紫式部が著した「源氏物語」第50帖「東屋」に、薫大将が浮舟を伴って牛車で宇治へ向かう様子が描かれているのは、この木幡越の道だといわれている。薄暗い竹藪の中を進む区間が多かったようで、「竹の下道」とも呼ばれていた(「深草や 竹の下道 わけすぎて 伏見にかかる 雪の明けぼの(続千載和歌集 前関白太政大臣)」)。
 本町通を整備したのは豊臣 秀吉である。全国支配のために長浜、姫路、大坂、名護屋と次々に城を築いてきた秀吉の最後の仕上げは、伏見城とその城下町 伏見の建設であった。彼は最初 淀城を政治上の拠点にしようとしていた。そして、景色を眺めながら茶の湯などを楽しむために隠居所として桃山に指月城を建てるのだが、まもなく伏見の優位性に気づき構想を改める。彼が伏見に注目したのは、この地が京と大阪の間に位置し両者に目の届く要所だったばかりでなく、隠然たる力をもつ畿内の諸武将や完全に平伏したとは言い難い東国への睨みをきかすにも適していたからであった。
 彼は、伏見を天下を支配するにふさわしい城下町とすべく、ここをすべての交通の結節点にすることを意図して、
図1 秀吉により改変された伏見付近の交通網(青字は新設されたもの、赤字は廃止されたものを示す)
宇治川の改修と道路の再編を行った。まず、宇治川については、宇治橋の下流から巨椋池1)に注いでいたのを、池の外周に槙島堤と呼ばれる築堤を施して河道を池と分離し、水流を伏見に導いた。伏見の南浜に港を設けることにより、伏見は舟運でもって大阪と結ばれることとなる。道路について述べると、ひとつは、本町通を伏見の中心に至らせることにより京と伏見の直結を図った。また、奈良方面と結ぶため、巨椋(おぐら)池の中に築いた小倉堤と宇治川に架設した豊後橋(現在の観月橋にあたる2))でもって新たな大和街道を整備した。秀吉の伏見にかける執念はすさまじく、先に述べた木幡越を廃道とし、宇治橋を落とす3)ほどの徹底ぶりであった。また、淀や岡屋(宇治市五ヶ庄付近にあった河港)などの港の使用も禁じられた。伏見を迂回する交通を許さなかったのである。
のような交通網の再編の結果、本町通は人荷の往来でたいへん賑わったようで、沿道には人家がとぎれなく張り付いていた。ヨーロッパに鎖国中の日本を紹介した「日本誌」の原著者ケンペル((Engelbert Kaempfer、1651〜1716)は、京都に向かう途中に伏見を通った時の様子を「町筋はわずかであるが幅広く、長い通りもあり…中央にある本通りは伏見から京まで続き、これらを区別することは難しく、むしろ伏見は京の郊外の町と思ってもよいくらいである(江戸参府旅行日記)」と記している。
図2 文久元(1861)年に刊行された「淀川両岸一覧」に描かれた本町通のにぎわい(大阪市立図書館所蔵)

 彼の通ったルートは記録からはよくわからないが、文久元(1861)年に発行された「宇治川両岸一覧」によれば、中書島に架かる蓬莱橋が航路とのターミナルであったようで、「船上りの旅客、京師(みやこ)に到るに、(中略)おのおのその勝手に任せて同じからずといへども、凡(およ)そこの橋条(はしすじ)を北へ板橋通に至り、右へとりて墨染、深草を経て京に入るを本街道という(或いは伏見街道、稲荷街道という)」とある。下板橋通との交差点に「右は稲荷街道、左は竹田街道」を案内する石標があったようだ。ここで指している本町通がメインルートだと考え、本日は、実際に伏見から京都まで歩いてその町並みを確認してみよう。
 

図3 宇治川派流にかかる蓬莱橋、京に向かう伏見側の起点だ
阪中書島駅でおりて歩車共存舗装のされた道を北へ5分ほど行くと、蓬莱橋である。北詰めの西には坂本 龍馬が定宿としていたという寺田屋が営業しており、水路には船着場が復元されて観光の小舟が就航している。ここから龍馬通りと名付けられた商店街を北に行く。油掛通を越えると納屋町商店街。アーケードが大手筋まで伸びる。さらに、風呂屋町、紺屋町と続く通りを進むと、下板橋通に至る。ここに「宇治川両岸一覧」に紹介された道標があるはずであるが、現物は伏見中学校に保存されているそうだ。右折してすぐ、伏見板橋小学校の前に弘化4(1847)年の銘のある石標を見る。南面には「右 京 大津みち」、
図4 伏見板橋小学校前に残されている石標、子どもたちにより大切に守られている
東面には「左 ふ年(ね)のり場」とある。このあたりにこれほど道標が多いのは、往来が盛んであった証左なのかもしれない。
 ややつま先上がりの下板橋通は、京阪電車の踏切の手前で京町通に達する。京町通を北上すると、近鉄をくぐってまもなく国道24号と伏見インクラインがある。次の信号が墨染通。交差点の東南の隅切りが大きいのは、ここを曲がるのが主方向であったからだろう。墨染寺、疏水、京阪電車を過ぎるとすぐ墨染交差点。北西の隅切りに従
って左折すると、ちょっとした商店街になっており、むかしの街道筋の面影が強く感じられる。米市商店や清水製麺所などの町家は、江戸時代にまでさかのぼるものではないだろうが、点在する寺社と併せて、ケンペルの往還記を彷彿とさせるものがある。
 勝負の神様といわれる藤森神社の西参道を過ぎると、直違橋(すじかいばし)である。欄干には「伏水街道第四橋」の文字が。直違橋の名は、下を流れる七瀬川が橋のところで
 大きくS字を描いて斜めに交差して流れているからだと聞いた。橋を川側から見ると図5のように、真円アーチ橋と呼ばれる形式4)
 第三軍道との交差点は「直違橋1丁目」。ここから2丁目、3丁目とあがっていく(ここに限らず一般に伏見の丁目は南から北に向かって昇番していく)。まもなく左手に「軍人湯」という銭湯が。あまり語られていないが、伏見は陸軍第
16師団5)が置かれた軍都でもあるのだ。聖母女学院の美しい煉瓦造りの建物がかつての司令部である。
図5 東から見た直違橋(伏水街道第四橋)、次の第三橋も同様の構造をしているようだ 図6 端正な姿を見せる聖母学院、師団司令部の建物を 使用しており内部はほとんど当時のままだという
このほか京都教育大学、
図7 第16師団に関連する施設、現在はその多くは棄却されて住宅や学校に転用されている(出典:京都歴史教育者研究会「京都案内−歴史をたずねて」(かもがわ出版))
龍谷大学、消防学校、警察学校、国立病院など、伏見の多くの公共施設は軍の遺産だ。伏見の酒に「月桂冠」、「英勲」、「キンシ(金鵄)正宗」などめでたくも勇ましい名前のものが多いのもその影響といわれる。
 やがてJR奈良線の踏切をわたって伏見稲荷大社に近づく。土産物屋がとぎれたあたりに伏見人形で知られる丹嘉。このあたりで伏見区から東山区に入り本町22丁目となる。京都側の丁目は北から南に昇番しており、今日はこれを1丁目まで行くのだ。
 まもなく「伏水街道第三橋」がある。下を流れる三ノ橋川は稲荷山を水源とし、紅葉で有名な東福寺の中を流れる。さらに行くと九条通の高架下に「伏水街道第二橋」の欄干だけが残されている。元治元(1864)年に出された京の名所案内書「花洛名勝図会」には、「水源は常楽庵の奥より出づ」とあることから、比較的小さい川だったようだ。次の信号で車は左に折れなければならない。JR東海道線と新幹線が本町通を遮っているからである。その少し手前、本町10丁目と11丁目の境に伏水街道第一橋があったという。「花洛名勝図絵」で橋の南詰めにあったと紹介されている瀧尾宮は今も現地で確認することができる。欄干は、交差点の北東にある東山泉小学
校に保存されているそうだ。
図8 伏水街道第三橋と第二橋の欄干、第二橋の下の河川は暗渠化されている
 歩道橋でJRをわたる。七条通を越え、広い正面通の奥に豊国神社を見るとほどなく五条通に着く。
て、歩いてみて感じたことを2つ。ひとつは、明治から昭和初期にかけてのものと思われる町家がよく残されていること。京都市内よりもまとまって残っていると感じた。こういう建物は維持が大変だと聞くが、今日は町家を保全した物件が売りに出ているのも見た。部分的にも町並み保存を図れば、地域に新しい魅力が加わるのではなかろうか。もうひとつは沿道に小学校と郵便局が多いこと。本日の行程8.4kmのうちに小学校が6校(市立のみ)、郵便局が9局も門を開いている。これは、明治期にこれら施設が立地したとき本町通が地域のコミュニティの中心であり、今もなおその立場を保っていることを意味するのではないか。このコミュニティの力をもって地域の魅力アップが図られれば、本町通には大きな可能性が見えてくるように思った。


図9 本町通で活躍中の町家たち(左上から米市本店、清水製麺所、伊東家、林戸家、森本家、野田米穀店、今邑家、旅館 玉家、伏見人形 丹嘉、上野酒店)、このほかにも小規模なもの、サッシ等が改変されているが簡単に復元できそうなものなどがたくさんある

(2008.11.25) (2009.04.06) (2010.01.15) (2010.05.21)

1) 宇治川が京都盆地に流れ込むところは京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、平等院付近から木津川、桂川との合流点にかけては広大な遊水池を形成していた。これが巨椋池である。明治以降 たびたび改修されたが、昭和16(1941)年に干拓され現存しない。詳しくは巨椋池の稿を参照されたい。

2) 観月橋の北詰めに豊後橋町の地名が残っている。

3) 宇治市が蒐集した「宇治里袋」という史料に「文禄三年、大椋より伏見まで新堤築かせられ候、御奉行岐阜中納言殿、その節宇治ばしを伏見へお引取りなされ候」とあるそうで、豊後橋は宇治橋を解体・移設したものと考えられている(「宇治橋−その歴史と美と−」(宇治市歴史資料館)による)。

4) 明治6(1873)年、石工 内田 徳左衛門の手によるもの。真円アーチ橋の形式は珍しいが、彼はこれを得意としたようで、堀川第一橋(中立売橋)でも同様のものを残している。昭和46(1971)年に両側を拡幅して現在の姿になった。

5) 京都の陸軍施設としては、明治29(1896)年に歩兵第9聯隊、練兵場と射撃場が設置されていた(第4師団(大阪)に所属)が、明治政府は日露戦争の経験を踏まえてそれまでの13ヶ師団を19ヶ師団に増強することとし、41年に京都府への第16師団設置を決定した。師団とは、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵(弾薬や食糧などの補給・輸送に従事)といった全ての兵種が集まり、それだけで戦争ができる軍の部隊の単位の呼び方である。師団の用地は35万坪にも及んだ。残念ながら第16師団は非運だった。永く満州に駐在し、昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると華北、上海、南京と転戦(世に言う南京大虐殺はこの時のできごと)、いったん復員するも15年からは京都での衛戍を第53師団に譲って自らは満州に永久駐屯することとなる。翌年からの太平洋戦争ではフィリピン攻略に参戦してマニラに駐屯していたが、19年4月、マッカーサー率いる20万人の連合軍の北上を阻止せよとの命を受けてレイテ島に移駐。ついに10月20日の決戦で壊滅し、13,778名のうち生還者はわずか620名にすぎなかった。