広村堤防

津波の記憶を伝え続ける人々

広村堤防の現在の姿
 平成27(2015)年12月22日(日本時間では23日)、国連総会で11月5日を「世界津波の日」とする決議が採択された。11月5日が選ばれたのは、160年前のこの日に起こった安政南海地震の津波における逸話に所以する。今回はこの逸話の舞台となった和歌山県広川町を訪れ、防災への取り組みと課題を見た。

「「こ
れは、たゞ事でない。」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。」という書き出しで始まるのは、昭和12(1937)年から10年間にわたり「小学国語読本 巻十」(5学年用)に掲載された「稲むらの火」1)。安政南海地震(嘉永7(1854)年11月5日発生)の津波に襲われた時に、紀伊国有田郡広村の濱口 梧陵がとった行動をヒントにして創作されたものだ。南部(みなべ)小学校の教員をしていた中井 常蔵が文部省の教材公募に応募して入選・採択された作品で、これを学んだ約1,000万人の学童に大きな感銘を与えたという。中井は、明治40(1907)年に広村の隣の湯浅町に生まれ、広村にあった和歌山県立耐久中学校を卒業して、和歌山師範学校で学んでいた時に郷土の偉人を題材とした小泉八雲(ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn、1850〜明治37(1904)年)の「A Living God」に接していた。これを小学生向きの短編に書き直したのである。
 「稲むらの火」で取り上げられた安政東南海地震とそれに伴う津波の被害を概観しておこう。まず、11月4日午前9時ごろ、マグニチュード8.4の烈震が東海沖で発生し、相模から近江にかけて大きな揺れを感じた。津波は房総半島から土佐湾まで及び、とりわけ伊豆や志摩で大きな被害を見たという。そして翌5日午後4時ごろ再びマグニチュード8.4の地震がこんどは南海沖で発生した。震源が近いだけに紀伊での震度は5〜6であり、その激しさは「其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ」(「濱口梧陵手記」)と表現されている。地震の発生から津波の襲来までの時間はいくばくもなく、津波は合計7波打ち寄せ、第2波と第3波は高さが5mを越えたと推定されている。この津波により広村では339戸が流出などの被害を受けたが、自らも九死に一生を得た梧陵の機転により死者は30人に抑えることができた。
 ただし、実話を題材にしているとはいえ「稲むらの火」はあくまで創作である。五兵衛が高台に住む老年の庄屋という設定であるのに対して、実在の濱口 梧陵は文政3(1820)年の生まれで、地震の時は35歳。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現在のヤマサ醤油)の当主であった。五兵衛は「取り入れるばかりになってゐた」稲むらに火をつけたことになっているが、梧陵が燃やしたのは脱穀を終えて積み上げられていた藁の山であった。それも、津波を予見して避難場所を指示するためではなく、津波に襲われて暗闇の中を避難する人々を安全に誘導するためであり、来襲した津波は燃える稲むらをも押し流してしまったという。また、実際に起こった地震は激烈なものであって、「稲むらの火」に描かれている「別に烈しいといふ程のものではな」いが「長いゆったりとしたゆれ方」をする地震動や、「波が沖へ〜と動」いて砂浜が現れていく現象は、八雲が出版する前年に起こった明治三陸津波(29年)で経験されたものと言われている。史実との相違は中井も文部省も認識していたが、五兵衛の犠牲的精神と津波防災の重要性を強調する観点から、あえてこのように 表現されたということだ。
陵が郷土の偉人だと言われる本当の理由は、迅速・安全な避難に貢献したことばかりではなく、「稲むらの火」には取り上げられていないが、地域のリーダーとして被災者の救援と被災後の復旧・復興事業に力を尽くしたことにある。
 地震の当夜、梧陵は最寄りの寺に炊出しを依頼するとともに、
図1 耐久中学校の校庭に建つ濱口 梧陵像
隣村に行って「自分が責任を持つ」と約束して納める予定の年貢米50石を借り受けたという。翌日からは、村役人を鞭撻して治安の維持に当たらせるとともに、自らが200俵の米を供出して有志に寄付を呼びかけそれでもって藁ぶきの仮小屋50棟を建て生活物資や農具を配給するなど、寝食を忘れて活躍した。しかし、余りの被害の大きさに、復旧をあきらめ村を出ようとする者も多かったようだ。これを見た梧陵は、根本的な救済が必要であると考え、津波防止の堤防を築くことを決意する。これには3つの目的があったという。1つは将来にわたって村を津波の被害から守ることであり、2つには窮民に就労の機会を与えて自力での再興を促すことであり、3つにはこれまで重税に苦しんできた土地を堤防敷地にして課税対象から外すことであった。梧陵は同志とともに藩に上申書を提出して許可を得、翌安政2年の2月から着工した。農閑期に1日400〜500人を雇用しその日のうちに日当を支払ったので、生活に苦しんでいた者も安堵して離村を思いとどまったということである。
 広村は何度も津波対策が施されてきたところで、古く室町時代の応永6(1399)年に畠山氏により高さ1間半(約2.7m)、
 図2 広村堤防の断面
長さ400間(約720m)の石垣が建設されていた2)。梧陵は、その背後に高さ2間半(約4.5m)、長さ370間(約670m)の堤防を築いたのだった。石垣と堤防の間にはクロマツを、堤防の法面にはハゼを植えているが、クロマツは防潮の役割を、ハゼは実からとれる木蝋を売って堤防の維持資金にする意図があったという。工事に要した1,572両(現在価格で約4億円に相当)は、すべて梧陵が調達した3)
 図3 広村堤防と濱口梧陵に関連する事跡
 梧陵の地域に対する貢献はこればかりではない。幕末の嘉永5(1852)年、濱口 東江・岩崎 明岳らと協力して剣術や漢学を教授する私塾を開設。「耐久社」と呼ばれた。現在の町立耐久中学校・県立耐久高校の前身である。また、明治4(1871)年に大久保利通により駅逓頭に任じられたのを始め、12年には初代の和歌山県議会議長に選ばれるなどの活躍をした。18年に視察先のニューヨークで客死。
村にはその後も津波が襲う。梧陵の死から28年後、大正2(1913)年に広村に津波が来た時、梧陵が築いた堤防は立派に波を防ぎ広村は被害から免れた。昭和19(1944)年の昭和東南海地震5)による津波にも広村堤防はその役割を果たした。21年の昭和南海地震6)の際にも堤防は人々を津波から守ったが、堤防のない地域では22人の死者が出た。
 梧陵が点けた稲むらの火を、広村の人々は津波防災の象徴として灯し続けている。安政南海地震から50年後の明治36年の11月5日、安政東南海地震の津波の犠牲者の霊を慰めるとともに防波堤を築いた濱口 梧陵の偉業に感謝して、広村の有志が堤防に土を盛る祭事を行った。今に続く「津浪祭」の始まりである。昭和5年には堤防の中ほどに「感恩碑」が建立され、津浪祭に除幕式が行われた。100年余り経った今も、津浪祭では感恩碑の前で小中学生が堤防に土を盛るセレモニーを行う。また、平成19(2007)年に「濱口梧陵記念館」と「津波防災教育センター」から成る「稲むらの火の館」がオープンしている。

@ 耐久中学校の門前に残る耐久社の建物

A 赤門近くの堤防上に建立された感恩碑、津浪祭が行われる

B 梧陵の業績を顕彰する「稲むらの火の館」
C「東濱口公園」にある東濱口家の「安政蔵」、内部に津波の高さが残されている D 淡濃山の東南麓に祀られた梧陵の墓 E 広八幡神社境内の「梧陵濱口君碑」、撰文と題額は勝海舟で建碑は明治25(1892)年
図4 広川町に残されている濱口梧陵に関する事跡
図5 深専寺の門前にある「大地震津なみ心えの記」碑
図6 地元の人たちに守られている「大地震両川口津浪記」碑
図7 四天王寺の無縁墓地の中央に建つ「安政地震津波碑」
図8 大浜公園に移設された「擁護璽」
の湯浅町では、地震が起これば津波が来るものと考えて高いところに避難せよとの教訓が伝えられている。深専寺(じんせんじ)門前にある「大地震津なみ心え之記」と掘られた石碑である。高さ1.8m、幅0.6mの大きさで、地震の発生から2年後の安政3年に建立されたものだ。碑文は、震災の概要を記して、舟に逃げて溺死した人の多かったことを伝えるとともに、“宝永4(1707)年7)の地震の際にも浜辺に逃げて津波に遭った人があったのに、それが言い伝えられなかったことからこの碑を建てる”として、“井戸水が減ったり濁ったりするのは津波の兆候だと言い伝えられているが、今回の地震ではそのような兆候は見られなかった8)。そうであれば、兆候に頼るのではなく、地震が起きればまず火の用心をした上で、津波が来るものと考え絶対に浜辺や川筋に逃げず寺の前を通って東の天神山の方へ逃げること”と具体的な指示を示している。和歌山県指定文化財。
 安政南海地震による津波は大規模なものであったので、各地にそれを記録する碑が残っている。大阪でも被災した人が多かったようだ。道路が狭く水運の発達していた大阪では、火災があれば家財を舟に積み込んで避難していたのである。大正橋東詰にある「大地震両川口津浪記」は、震災の翌年に建てられたもので、“宝永年間にも船で避難して被災した人がたくさんあったのに、それを伝える人がいなかったため同じ犠牲を繰り返してしまった。地震があれば津波が伴うものと十分に心得るとともに、火災に対する備えをせよ。この記憶を後世まで伝えるため拙文を記すので、読みやすいように毎年刻字に墨を入れよ”という趣旨の碑文である。災害の教訓を生かせなかったことを悔やむ気持ちが処々に現れている。道路拡張などで何度か移転したが、地域の人たちが資金を出しあって周辺を整備するなどして守ってきた。津波から160年たった今も、碑文に従って、8月の地蔵盆に碑を洗い墨入れを行っている。大阪市指定有形文化財。
 四天王寺の無縁墓地にある「安政地震津波碑」も、木津川付近の被害が大きかったことを述べて“海鳴り・潮の干満の乱れがあれば津波の兆候であることに気づいて早く避難するように”と諭している。碑文は津波の前日から海鳴りや潮の干満に乱れがあったとしているが、安政南海地震の時に大阪で前兆があったことを示す史料はほかに見られないという。大阪市顕彰史跡。
 一方、災害の記憶を生かせて被害を最小限に食い止めた例もあった。堺市の大浜公園にある「擁護璽(ようごじ)」は、“船・橋・家屋の被害は大きかったが、神社の庭に集まって避難したためにひとりのけが人も出すことがなかった。宝永年間にこのたびと同じように地震津波があったとき、船で避難して多くの人が津波で死んだということをはっきり知っていたために、今われわれは助かったのである”と述べて、神に無事を感謝している。
成23(2011)年3月11日午後2時46分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の超巨大地震で岩手県から福島県にかけての広い範囲で大きな津波が発生し、死者・行方不明者18,458人(平成27年12月10日発表の警察庁緊急災害警備本部資料による)もの被害があった。しかし、日ごろの津波教育が成功して全く犠牲者を出さなかった学校の例9)も報告されたことから、改めて防災意識の重要性が認識され「稲むらの火」が想起された。ちょうどその年の5年生の教科書の「伝記を読んで自分の生き方を考えよう」という単元に、関西大学社会安全学部 河田 恵昭教授が「百年後のふるさとを守る」と題した教材を執筆し、梧陵の功績を紹介した。
 同年6月、津波被害から国民の生命・財産を保護することを目的とする「津波対策の推進に関する法律」が制定され、この法律で梧陵の逸話の生まれた11月5日を「津波防災の
図9 「津波防災の日」の制定を記する切手、広村堤防のイメージが描かれている
日」とすることとした。そして、東日本大震災から5年を迎えるのを前に、日本が提唱し142ケ国が共同提案した11月5日を「世界津波の日」とする決議案が27年12月の国連総会第2委員会で採択された。伝統的知識の活用などにより津波に対する意識を向上させるとともに、早期の警報による迅速な情報共有の重要性を認識することで災害に備えようというものだ。これによって、今後、この日に各国で津波への備えを啓発する活動が展開されることになるだろう。過去に大きな津波被害を受けてきたわが国の貢献が期待されるが、そのためにはわが国が先頭に立って防災・減災対策を力強く進めていくことが必要だ。
 災害の記憶が伝承されなかったために類似の被害を繰り返すことの無いよう、啓発を続けることは大切だ。同時に、梧陵がしたように、防災のためのハード整備も続けていかねばならない。
 広川町でも、災害時に中心的な役割を果たすべき町役場が津波浸水区域にあるなど、まだハード的な課題は残っている。その着実な投資を時間をかけて続けていくためには、眼前の課題だけに振り回されない国民の腰の据わった防災意識が根付くかねばならない。
(参考文献) 稲むらの火の館HP(http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/index.html)
 (2016.01.07) (2022.10.17)


1)物語のあらすじは次の通り。村の高台に住む庄屋の五兵衛は、これまで経験したことのない長周期の地震に胸騒ぎを感じて家から出て、海水が沖へ引いて行くのを見て津波の襲来を予知する。しかし、村人は祭りの準備に心奪われてそれに気づいていない。危険を知らせるため、五兵衛は自分の田に積まれた刈り取ったばかりの稲むらに次々と火をつける。危急を知った村人が消火のために高台に駆け上がって来る。五兵衛が集まった村人の数を数え終えた時、沖合に津波が現れ、それが二度三度と村を襲う。稲むらの火によって救われたことに気付いた村人は、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

2) この石垣は、コンクリートで補強して現在も防災に活用されている。表題の写真で左方に見えるのがそれ。

3) 梧陵は、津波被害からの復旧・復興のために、銚子店から合計2,018両を送らせている。これを工面するため銚子店では醤油を大量生産して業容を拡大する必要に迫られたが、これが今日の発展のもとになった。

4) 昭和元(1926)年に堤防に設けられた防潮扉のこと(右図)。

5) 昭和19年12月7日午後1時36分に発生した地震。マグニチュード7.9と推定される。震源域は熊野灘から浜名湖沖までの広い範囲に及ぶと考えられる。軍の情報統制により詳細は不明だが、御前崎市や津市のほか震源から離れた諏訪市でも震度6を記録し、東海道線で貨物列車が脱線転覆、半田市の中島飛行機などの軍需工場の被害も大きかったとされている。死者・行方不明者は1,223名と推定されている。

6) 昭和21年12月21日午前4時19分に発生した、潮岬沖から室戸岬沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震。西大寺(岡山県)・津田(香川県)・郡家(兵庫県淡路島)・野根(高知県)・五郷(和歌山県)などで震度6を観測した。死者・行方不明者1,330名を数える。津波の到達が早く、串本や須崎で約10分であった。なお、先年の昭和東南海地震の後、東京大学教授 今村 明恒(明治3(1870)〜昭和23(1948)年)が、安政東南海地震が東海沖と南海沖の2つの地震が連動していることとの比較から南海地震の発生を警告していたが、当時は氏の説に理解を示す者はなかった。今村は、地震学者として研究に携わるとともに防災の啓発にも熱心で、三陸沖地震のような津波被害を防ぐには子どもの頃からの防災教育が大切と訴えて「稲むらの火」の教科書登載を勧めた。

7) この年の10月4日、中部から九州までの広い地域にまたがり、東海・東南海・南海地震が同時に発生した。地震の規模はマグニチュード8.6と日本最大級の巨大地震と推定されている。地震から49日後、富士山で大噴火が起こり約100km離れた江戸にも大量の火山灰を降らせた。

8) 湯浅では予兆は見られなかったようだが、「濱口梧陵手記」によると広村では地震発生の数時間前に井戸が枯れたという。

9) 釜石市では群馬大学工学部 片田 敏孝教授の指導で8年にわたり津波からの避難訓練を続けていた。海抜約3mの位置にあった釜石東中学校の例では、東北大震災が発生すると全員が率先して避難所に予定されていた標高約10mの位置にある福祉施設まで走った。隣接する鵜住居(うのすまい)小学校でも中学生が避難するのを見て同様に避難した。福祉施設にいったん集合した小中学生は、さらに高台への避難を提案した中学生に導かれて標高約30mの介護施設まで避難した。津波の遡上高は20mに達し、福祉施説は水没(中学生らが避難するのを見た施設職員が入所者を3階に集める措置をとったので人命被害はなかった)したが、“想定”に頼らず最大限の対応をするという高い防災意識に基づく俊敏な判断により多くの命が救われた。