どん  と

呑吐ダム

ダム事業で見えた公共用地取得の課題

豊かな水を印南野に送る呑吐ダム
 神戸電鉄箕谷駅から市バスで約15分。終点の「衝原(つくはら)」で降りて、「箱木千年家」1)の案内に導かれてそこを訪れる。「離れ」と呼ばれる建物の座敷から窓外を見ると眼下に大きな水面が広がる。「つくはら湖」だ。「呑吐(どんと)ダム」によって生まれたこの貯水池の底に衝原地区の33戸が沈んだ。この箱木千年家も水没することになったが、国の重要文化財に指定されていたことから、現在地に移築・保存され、もとの居住者の箱木氏も隣接地に移転しておられる。本稿では、呑吐ダムを題材に、公共事業に伴う移転や生活再建について考える。

古郡稲美町を中心とする印南野(いなみの)は水利に乏しく、明治24(1891)年に建設した淡河(おうご)川疏水と大正4(1915)年に建設した山田川疏水(いずれも加古川の支流からの導水)で耕作を維持していたが、根本的な解決には必ずしも至っていなかった。戦後に極度に困窮した食糧事情を改善するため、農林省(当時)は昭和22(1947)年から「国営農業水利事業」を開始。全国に先駆けて大井川・九頭竜川・野洲川と並んで加古川水系が選ばれた。
 加古川水系においては、まず「東条川農業水利事業」が策定され、その基幹施設である「鴨川ダム」が26年に完成している。堤高43.5m、堤体積4.8万m3の重力式コンクリートダムで、貯水量は867万m3。貯水池は「東条湖」と名付けられ、そ
図1 東播用水農業利水事業の概要
の周辺は観光地しての整備がなされている2)。次に計画されたのが、「川代ダム」・「大川瀬ダム」・「呑吐ダム」を基幹施設とする「東播用水農業水利事業」だった。本事業は次の4つの目的で実施された。@播磨平野東部から北神戸地域にかけての既成田畑7,650haの用水不足の解消、A神戸市と三木市に広がる390haの山林の農地造成と畑地(主に果樹園)の用水確保、B東播台地に点在する非効率な皿池の埋め立てを含む大規模圃場整備を通じて営農労力の節減と高生産性土地基盤の整備、C進展著しい都市化に対応して最大27万7,000m3/日の水道用水供給を行う兵庫県用水供給事業との共同施行。これらのダムは導水路で結ばれ、受益地内の農地や上水道の原水供給地点に給水するという計画である(図1)。
播用水農業水利事業の基幹施設のうち、最も規模が大きい呑吐ダムについて、その建設までの経緯を見てみよう。
 呑吐ダムは三木市志染(しじみ)町で志染川の支流の山田川を堰き止める重力式コンクリートダムで、堤高71.5m、堤体積37万m3、貯水量1,886万m3の規模を有し、これにより、神戸市北区山田町衝原地区が大規模に水没する。衝原は、山田川に沿って耕地が連なる中に33戸が散在する閑静な集落で、「箱木千年家」に象徴されるように古い歴史を持った土地であった。呑吐ダムの予備調査が開始されたのは昭和36年であったが、この時には住民への説明はなかったようだ。実施計画調査が開始された43年に農林省が初めて説明会を行ったら、水没予定地の衝原地区では「呑吐ダム対策委員会」を設置し、ただちに全員一致でダムに反対することを決めた。
 その2年後、上記委員会は「呑吐ダム対策協議会」に改組するとともに、農林省に「衝原ダム建設に伴う地元趣意書並びに公共補償要求書」を提出した。地元がダム建設阻止の姿勢から補償交渉を有利に展開する方向に転じたことをうかがわせる事象である。ただし、地元は補償交渉がすべて締結するまではダムの工事に着手しないことを条件としており、そのルールのもとに農林省と対策協議会との交渉がもたれることとなった。このように、最初に交渉のルール確認しておいたことは、当時の大規模ダム事業がことごとく猛烈な反対闘争に遭遇3)している中で、本ダムが激しいながらも話し合いにより問題を解決できた一つの要因であったと評価できる。
 しかし、農林省と対策協議会の再三の交渉にもかかわらず話し合いの進展は見られなかった。おそらくそれは、農林省が持っている補償基準に合致しない事項が協議会から要求されたためと思われる。当時はまだ「水源地域対策特別措置法(昭和48年10月17日法律第118号)4)」が制定されておらず、移転者の財産を事業者が補償するだけで移転によるさまざまな不利益を救済する方途がなかった。前記の要求書において対策協議会は水没者の生活再建を強く求めており、ここに不安があれば勢い対策協議会が要求する地価は高額にならざるを得ない。
 これを打開できたのは、47年12月に地区住民・神戸市・神戸市緑農開発公社で結成された「東播用水事業衝原地区連絡協議会」の力が大きい。翌1月の第1回協議会で当初の全村一括移転から集団移転と任意移転の選択へと方針を変更し、10月に「用地買収および補償交渉に関する基本覚書」を結んで、12月には全員妥結で農林省との調印を見たのである。
初の説明会から5年で用地補償が決着するという類似事業には見られないスピード解決には、49年に予定されていた税制改革を控えて地権者が契約を急いだという背景もあったが、地域の実情を知り農村計画を立案する能力を有し用地補償実務にも通じていた緑農開発公社が市の方針に基づいて精力的に働いたことが特筆されるべきだろう。呑吐ダムの補償では、被補償者が事業者と直接交渉するのではなく、公社が交渉を担当した。
図2 整然と区画された集団移転地に建つ住宅 図3 集団移転地内の畑、離農した高齢者のために整備された
第3者的な専門家である公社が介在することで、価格についての合意が早まったことが考えられる。また、公社は集団移転を希望する住民の移転先の選定にも参画し、工費及び工期・土地条件・住民意見・神戸市開発指導要綱との整合の観点から最適な案として、ダム湖の東南の部分に土を盛って移転地とする案を提示した。移転に伴って離農する高齢者のために、集団移転地に補償とは別に200坪の畑を設けるなど、移転後の暮らしやすさの面でも配慮があった。
 もう一つの要因として、呑吐ダムが都市近郊に位置していたことが挙げられる。水源域に位置するダムの水没補償においては金銭補償よりも現物補償が望ましい5)という考えがあるが、本件では集団移転地の造成を緑農開発公社が行ったほかはすべて金銭補償で行われた。また、参考文献1によれば、移転対象者29名を調べたところ農業・養鶏業に従事していたのは10名で、残りは移転によっても職業的影響を受けない公務員等であった。農業に専従していたのはいずれも高齢者で、彼らは移転後無職になっている者が多い。また、非農業者の中には通勤の利便性や煩わしい近所づきあいからの回避などから地区外への任意移転を希望する者も多く、最終的には集団移転者は20戸となった。移転先での生活再建のために事業者が取るべき措置が軽減できたことが想像される。
 事業者の姿勢にも見るべき点があった。事業者だけでの対応に限界があると知るや、近畿農政局長より神戸市長宛に協力依頼を発し、先述の連絡協議会の成立に結びつけた。連絡協議会は、神戸市助役が会長となりその下に設けられた幹事会は市の関係部課長18名と地元代表3名で構成するというもので、市の全面的な応援を意味していた。事業者も連絡協議会での調整事項の実現に努力し、例えば、水没を回避できる戸をそのまま残したのではコミュニティの維持等に支障があるとしてこれらについても補償を行ったり、48年内の契約を望む地権者に対して補償額の一律500万円嵩上げを決断して妥結に向けて決定的な後押しをした。
吐ダムは52年度から基礎の掘削に着手、55年度から堤体コンクリートの打設を開始した。地質調査により河床部に2本の断層を含む破砕帯が見つかり、これに対処するため堤体の構造解析に本格的な有限要素法を導入し、コンクリートダムとしては世界で初めて地震時の引張応力を緩和するためのくさび型の横継目を有するマットコンクリート工法6)を採用することにより問題が解決されるなど、技術陣の貢献も大きかった。平成元年に完成。衝原に「つくはら湖」
図4 つくはら湖を渡る衝原大橋、左は平成10(1998)年に開通した橋長323mの3径間PCエクストラド−ズド橋「つくはら橋」
という1.05km2の貯水池ができた。
 翌年、神戸市が市民の健康と余暇活用のために「神出(かんで)山田自転車道」(L=22.6km)を建設した。この自転車道はつくはら湖の西部では左岸を東部では右岸を走り、中央付近に架かる「衝原大橋」は橋長174mの2径間PC斜張橋。第1種風致地区に指定された周辺景観との調和を考慮して設計されたという。併せて「衝原湖サイクルフロント整備事業」が行われ、自転車道に野鳥観察広場や休憩所が整備されるとともに、つくはら湖東端に「つくはらサイクリングターミナル」が開設されている。また、会議や研修に使える「自然休養村管理センター」もあり、主に青少年団体に利用されているようだ。 

図5 呑吐ダムができる前後の衝原地区、ダムができる前の状況は山田郷土誌編纂委員会「山田郷土誌(第2篇)」及び参考文献1による
が国では、環境への配慮の面では、平成9(1997)年に「環境影響評価法(平成9年6月13日法律第81号)」が施行され、大規模公共事業では環境への影響を調査し対策することが義務付けられた。これにより、公共性の高い事業といえども環境への負荷次第では変更や中止となる例も出てきている。一方、社会への配慮の点では、公共事業の社会影響を事前評価することはまだ制度化されていない。これまでいくつもの大規模な公共事業が反対運動に直面してきた苦い歴史があるが、反対の理由は必ずしも環境基準と対比される予測数値への不信だけでなく、被補償者なら移転先に順応できるかという不安、補償の対象にならない人ならコミュニティ回復不安(地域分断)・顧客の減少による営業継続不安、都市化の進展への対応不安など、公共事業に伴って生じる社会影響にうまく対応して自らの生活を維持・回復できるかわからないことに起因する場合が多かったのではないかという気がする。
 このうち被補償者については、一般的には、「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」の考え方にあるように、土地・家屋などを金銭で補償すれば各自が自由に選んだ移転先で新しい生活を始めることができるとされてきた。ところが、現実には、高齢のために現状の生活を変える意欲をもてない被補償者や就業・通院・福祉サービスなどの理由で自由な移転が困難な被補償者もあったのである。このような場合、これまでは用地職員が被補償者を献身的に支援することで何とか問題を解決してきた。しかし、用地職員がカウンセラーのような役割を兼ねつつ補償交渉を進めるのは、問題もあるし限界もあると考える。独力で生計回復の道を開けない被補償者をどのように支援するのか、さらなる制度面での検討の余地があろう。
 地域に残ることになった人の対応も重要だ。糀屋ダム(多可郡多可町中区糀屋新田、昭和40(1965)年着手・平成元(1989)年完成)では水没を免れた5戸の残留者があったが、生活再建がうまくいかず国を相手取って訴訟を起こす事態になっている7)。残留者への対応を事業者が行うことは難しいから、事業者としては、事業が地域に及ぼす社会的影響を予測し負の影響が生ずる場合にはその対策となる関連地域整備などをあらかじめ自治体などと調整しておくことが必要だ。

(参考文献)
1 白井義彦ほか「都市域における水利開発と環境整備−神戸市域呑吐ダムの水没補償を中心として」(「兵庫教育大学研究紀要第11巻第2分冊」所収)
2 華山 謙「補償の理論と現実-ダム補償を中心に」(勁草書房)
(2015.12.21)

1) 応永(1394〜1429)年間に山田庄の下頭屋(しもとうや)役を務めていたといわれる箱木家の住宅で、写真右側の棟は14世紀ごろまで遡るとされるわが国に現存する最古の民家。昭和52年から教育委員会により調査が行われ、建物が修築しつつ使用されてきた経緯が明らかにされた。建築当初の姿に近い形に戻して、原位置から70mほど離れた高台に移築されている。

2) 釣り・ボートなどに活用されているほか、湖畔に「東条湖ランド」(テーマ遊園地、昭和44(1969)年開園・平成12(2000)年閉鎖、同年「東条湖おもちゃ王国」として再開園)や「アクア東条」(水辺の生物を展示する水族館、平成2年開館)が立地している。

3) この時期のダム反対闘争の口火を切ったともいえる「蜂の巣城紛争」は、建設省九州地方建設局(当時)が計画する松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)事業に対し、事業者の高圧的な姿勢に反発して住民らが事業地内に砦を築いて抗戦する構えを見せた(昭和33年)事案である。本件では、公共事業の公益性と住民の基本的人権・財産権のあり方を巡る裁判闘争にもつれ込み、以後のダム事業に大きな影響を与えている。沼田ダム(利根川、28年着手)や赤岩ダム(鵡川、27年着手)が住民の反対により事業中止に至ったほか、大滝ダム(紀ノ川、37年着手)は暫定供用まで40年、徳山ダム(揖斐川、46年着手)は完成まで36年、宮ケ瀬ダム(中津川、46年着手)は完成まで29年の年月がかかるなど、事業を継続するためには住民との交渉に多くの時間を費やすこととなった。八ッ場(やんば)ダム(吾妻川、42年着手)、川辺川ダム(川辺川、41年着手)に至っては、水没地域外の有識者等も反対に参加するなどして現在も問題が解決していない。

4) 昭和37年6月に閣議決定された「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」では、土地は正常な取引価格でもって取得し、家屋等の建物・工作物・は移転に伴って「通常生ずる損失」として移転料・営業補償・残地補償などを補償する扱いとなっていた。ところがダムによる水没では、生業の基盤をすべて失うなど財産の補償だけではすまない大きな影響が地権者に発生することが多く、十分な補償を要求する地権者との対立が解けずに交渉が長期化することが多かった。一方、発電用ダムなど採算性を重視する事業では、要綱によらず(要綱には法的拘束力はない)高額の補償費を支払って短期に解決を図る例も現れ、事業により補償金額が大きく異なるという問題も生じた。そのため、ダムによる水没等で移転等の不利益を蒙る水源住民の不利益や負担を軽減し、地域の活性化を図ることを目的に本法が制定された。水没戸数20戸以上もしくは水没農地面積20ha以上のダムを対象に、水源地域の道路・下水道・レクリェーション施設・公共施設・福祉施設の建設に当たる費用の一部が国庫補助及び下流受益地よる負担で賄われる。なお、水没戸数150戸もしくは水没農地面積が150ha以上の場合、法第9条に基づき国庫補助率が嵩上げされる。昭和49年の最初の指定では20ダム1湖沼が対象となり、呑吐ダムは50年に指定を受けている。

5) 水源地域でのダム補償では、適切な代替地や就業機会がなければ生活再建ができないなどの理由で、金銭補償よりも代替農地を整備するなどの現物補償が望ましいとするのが研究者の間では一般的である(例えば、参考文献2)。一方、補償事務を行う事業者には「現物補償を始めれば収拾がつかなくなるから」絶対に避けるべしとの意見がある(例えば、宮崎鐐次郎「総合開発と補償」(港出版合作社))。

6) ダム堤体の底部を巨大なコンクリート版(マットコンクリートという)と一体化させる工法。呑吐ダムの場合では、堤高71.5mのうち15mがマットコンクリートであり、その長さは160mになった(勝俣 昇ほか「呑吐ダムにおける断層破砕部の堤体設計について」(農業土木学会「農業土木学会誌」33巻1号所収))。

7) 近畿農政局は、@移転者の残存農地を低額で買取れる、Aダム湖が観光地になれば土産物店などが営業できるなどと説明して残留を勧めたが、これらの説明は楽観的な予想に過ぎず、事業者が実現のための労をとらなかったから、いずれも実現しなかった。これを国の債務不履行として残留者が提訴したもの(昭和49年(7)第370号国家賠償請求事件)。国が非を認め、損害賠償をして今後の集落の維持について協議を進めて行くことになった。