明治時代にもあっ京都縦貫道、京都宮津間車道

歩行者用の橋梁として活かされている王子橋
 平成27(2015)年7月、宮津に達する京都縦貫道が全通した。京都府は、北部への観光客の増加や産業の振興に寄与するとし、南北に長い府域の連携強化に貢献すると期待している。京都と宮津を結ぶ幹線道路により府域の一体化を図ろうとする動きは、府域が現在のものに確定した明治時代にもあった。「京都宮津間車道」だ。本稿では、この車道の建設事業の主要な構造物である撥雲(はつうん)洞と王子橋をご紹介する。




京への2度目の行幸のため明治2(1869)年3月に京都を起たれた天皇は、翌年に予定されていた還行を延期してそのまま東京に留まられた。東京奠都である。京都は "千年の王都"の地位を失い、公家・諸侯はもとより有力な商人も東京に移って、江戸時代に40万人あったと推測される人口が23.9万人(「日本地誌提要」による6年調査値)に減少するなど、大変な衰退を迎えた。ここで京都府知事に就いたのは槇村 正直。彼は天保5(1834)年に長州に生まれ、明治維新のあと京都府に出仕して、華族出身で政治経験の乏しい初代知事 長谷 信篤を補佐し、5年に長谷の退任とともに権知事に、8年に知事に就任した。会津出身の山本 覚馬らを重用して果断な実行力で文明開化政策を断行したことで知られ、わが国最初の学校制度を作ったのを始め、窮民授産所・外国語学校・画学校・博物館・女紅場(にょこうば)1)・勧業場・舎密(せいみ)局2)・織殿・染殿などを次々と設立した。京都の文化・経済の活性化を強力に推進した彼が進めようとした
図1 京都宮津間車道開鑿事業の概要
もうひとつの施策が、京都〜宮津間の車道開鑿工事だった。
 明治4年7月に廃藩置県が行われた当初は、藩をそのまま県に置き換えたものであったため、全国が3府302県に分かれていた。これではあまりに数が多いというので、同年11月の第1次府県統合で3府72県に統合され、その後も20年頃まで断続的に府県の統合や境界の変更が行われている。この一環として、京都府においては9年の第2次府県統合で豊岡県が分割されて丹後国と丹波国天田郡が府に編入された。この結果、京都府は山城から丹後までの南北に長いエリアを有することとなったので、府域を結ぶ車道の整備が必要と考えられたのである。
 予備調査を終えた13年、府は車道開鑿を付議することを議会に諮詢し議会もこれを可とした。ところが、他の議案が否定されたのを恨んだ槇村が付議を拒んだため、議会は「目下ノ急務」だとして全会一致で本件を付議するよう求めている。当時の主要な輸送機関は荷車だったが、離合困難や急勾配の区間がたくさんあったので、丹後の生糸・ちりめん・海産物などを京都の町に運ぶのに2泊3日も要した。加えて、当時の宮津は、港湾が脆弱である上に背後は普甲峠に隔てられていて、冬季には交通が途絶するという状況であったから、車道にかける期待は極めて大きかった。これに他の府議も共鳴して全会一致の請願になったものと思われる。しかし、槇村は強権的な政治手法を貫いたため、議会と対立した挙句14年1月に辞任。車道の整備は、第3代知事 北垣 国道3)に託された。
 北垣は言わずと知れた琵琶湖疏水の生みの親。京都宮津間車道開鑿工事の必要性を高く評価していた。工期5年、工費17.5万円でもって3間(約5.5m)4)の幅員を持つ高規格な道路に改良することを計画し、5月議会に議案を提出して11月から着工した。北垣は、議会と協調する姿勢を示してその協力を得たばかりでなく、府民にも事業への協力を求めた。すなわち、この事業には府税だけでなく沿道住民からの寄付金が充てられ、あるいは住民が作業員として工事に従事した。住民の負担は大きく、20年に国庫補助金5)が支給されることが決まった時の住民の喜びはたいへんなものだったという6)。困難な工事に予想以上の時間を要し、完成したのは22年。工費も31.8万円余まで膨らんだが、この道路により宮津〜京都間は馬車で走れるようになり、所要時間は15時間に短縮された7)。北垣は馬車で各地を訪問して、協力した住民に謝辞を述べて回った(明治24年4月3日付け「日出新聞」)。
こで、槇村や北垣が指導する京都府の施策構想力を過大評価しないためにも、京都宮津間車道開鑿工事に先立つ府内の道路改修の動きを、参考文献に依って概観しておこう。
 まず取り上げるのは、京都と亀岡の間にある大枝(おおえ)峠(老ノ坂)の新道開鑿である。明治7年、桑田郡の西村 理助らは、大枝峠よりも南の峠を7間(約12.6m)ほど切り下げれば容易に通行できる新道を整備できるので有志者の献金で工事を行うが不足金が出れば通行者から通銭を徴して償却に充てたいとして許可を求め、10年に「大枝峠老ノ坂新道」として完成させている。なお、京都宮津間車道は老ノ坂をトンネル(16年完成)で抜けており、費用が償却できたか等その後の大枝峠老ノ坂新道の状況は不明である。
 次に、細野峠でも村による道路改良が企画され、10年に「道附替費用見積書」を添えて「街道筋附替之儀ニ付御願」が知事に提出されている。
 3番目に挙げるのは、宮津と由良の間にある栗田(くんだ)峠のケースである。12年に与謝郡波路(はじ)村の売間(うるま) 九兵衛(くへい)が資金提供を呼びかけて峠の切り下げ工事に着手した。栗田峠が京都宮津間車道に当たることになったので、16年から売間らの工事は府が承継するところとなり、工事方法を切り下げからトンネルに変更し、工費1万8,117円余(京都府「京都宮津間車道開鑿工事成蹟表」による)でもって19年に完成した。
 これらの例が示すように、府が京都宮津間車道を決定するよりも早く、地域の有力者は道路改修の必要を痛感し、一部は自ら実行に移していた。住民が北垣の要請に応じて工事に協力したのも、このような素地ができていたからであったといえよう。
 この事業では、京都〜宮津間に横たわる7つの峠を開削する工事が優先的に進められ、そのうち大枝峠(老ノ坂)と栗田峠は前述したとおりトンネルを穿ち、観音峠は切り下げを行い、大朴峠・菟原峠・長尾峠は迂回の新道が造成された。また、従前は渡渉によっていたであろう桂川に橋梁をかけるなど、大小の橋梁により車馬が容易に通行できるようになった。京都宮津間車道は、その後の国道9号・175号・178号に踏襲され、拡幅などの改良が加えられたため、当時の構造物が失われていることが多い。その中で、栗田峠を抜ける撥雲洞と亀岡市の王子橋については現在も供用され
図2 撥雲洞の位置
ており、その歴史的価値が高く評価されている。
ず、撥雲洞を訪ねてみよう。宮津市役所に隣接する大手橋から国道178号と並行して北東に伸びる京都宮津間車道を3kmほど辿ったところにそれはある。極めて重厚な石造りの坑門をもち、笠石や壁柱の造形的バランスも絶妙である。環状をなす迫石は、肩の部分が盾型に整形されているのが特徴だ。西側坑門には「撥雲洞」、東側坑門には「農商通利」の文字が刻まれた扁額をもつ。
図3 壁柱・帯石などを備えた風格ある撥雲洞の坑門 図4 扁額は北垣国道の揮毫
いずれも北垣の揮毫によるもの。延長68間(約126m)、幅員15尺(約4.5m)であり、わが国最初期の近代トンネルとして貴重であるとして平成20(2008)年に国登録有形文化財に指定された。建設から130余年。今も立派に役割を果たし続けている。
 先にも述べたように、このトンネルは売間の工事が発端となっている。彼は、
図5 盾型に整形された迫石
水力を用いた切り下げという工法を発案し、人々から資金を集めて事業をしようと考えた。当初はその工法を信じる人は少なかったようだが、彼が渓谷から引いた水を峠に集めて流下させる工事にひとまず成功したのを見て、出資する人が増えたという。しかし、この奇抜な工法がうまくいくはずもなく、工事は頓挫してしまった8)。その後、彼が費やした工事費の負担を巡って訴訟が起き、彼は家財を売却して村を離れざるを得なくなったが、隧道ができたのは売間の功績だとして、
図6 売間九兵衛の功績を顕彰する碑
運送業者らが彼を顕彰する高さ2m余りの大きな石碑を建てている(42年)。
 なお、撥雲洞の余材を用いて大手橋が石造アーチ橋(めがね橋)に架けかえられた。「丹後宮津に過ぎたるものは波路トンネルとめがね橋」と謳われたという。
都市内から国道9号を西へ。老ノ坂トンネルを抜けて亀岡に向けて下ると、道路が左右に大きくカーブして「鵜ノ川」という幅は狭いが谷の深い川を渡る。この傍らにある石橋が王子橋だ。
 15年の予算で事業化され17年に工費4,104円余(京都府「京都宮津間車道開鑿工事成蹟表」による)で完成。琵琶湖疏水で著名な田辺 朔郎の設計と伝えられる。長さ15間4尺(約28.5m)というのは、九州以外では最長とのことだ。主構造たるアーチを形成する輪石には、通常は大きな石が用いられるのだが、本橋では小さな石を組み合わせて楯状の五角形に整えてあって、ここから壁石9)が立ち上がるようになっている。平成19(2007)年に
図7 王子橋の位置
土木学会選奨土木遺産に指定されたのを機に設置された現地の案内板が、土木学会の表現を引用して「輪石と壁石が夫婦天端10)で一体化した非常に珍しい構造形式」と説明しているのは、このことを指すのであろう。この輪石の形式は、大きな石を調達しないことでコストの縮減が図れる一方、丁寧な施工を要するものと思料される。工事を請負ったのは、王子村の大工 山名 乙次郎(昭和56年10月12日付け「京都新聞」による)。彼がそれだけの技量を発揮できることを見抜いた田辺の慧眼によるものかもしれない。
図8 明治期の王子橋(出典:京都府「橋梁寫眞帖」)
図9 盾状の輪石はいくつかの小さな石を組み合わせてできている
完成時の田辺は弱冠23才。北垣知事と初めて面談してから3年目のことであった。
 王子橋は昭和44(1969)年まで85年間も重交通に耐えてきたが、国道9
号の改修により隣接して新たに橋が架けられたため、本橋は歩行者用に使用されている。また、昭和8(1933)年の改修で、コンクリートを用いた欄干部の拡幅工事が行われ、親柱に照明設備が整えられている。現地の案内によれば、地元の亀岡市篠町自治会が国土交通省の「ボランティア・サポートプログラム」に参加して定期的に王子橋の美化活動に取り組んでいることや、昭和8年の改修工事で取り外された親柱を地区で保管していたことが知れる。土木学会選奨土木遺産に選定された時には、記念碑の除幕式などの式典と昭和8年の改修に係る工事写真の展覧を行ったそうだ(http://shinocho.heteml.jp/shinocho/?page_id=83)。王子橋は地元の想いに支えられて長寿を重ねている。その背後では、京都縦貫道の大きなコンクリートアーチ橋が鵜ノ川をまたいでいた。
(2015.10.27) (2018.05.24)


(参考文献) 高久 嶺之介「近代日本と地域振興―京都府の近代」(思文閣出版)


 1) 女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸・料理などを授けた学校。

 2) 理化学の講義や実験及び工業・工芸の指導を行う学校。"舎密"とはオランダ語のchemie(化学)に漢字を当てたもの。

 3) 北垣国道(天保7(1836)〜大正5(1916))は、但馬国養父郡の庄屋の家に生まれ、尊王攘夷運動を通じて知己を得た松田 正人(後に東京府知事になる)の推挙で鳥取藩士に取り立てられ、次いで明治政府に出仕するようになる。北垣が槇村の後任に抜擢されたのは、自由民権運動が盛んな高知県で県令を務めた時によく民心を掌握して統治したことが評価されたものだとされている。なお、北垣は任官にあたって、伊藤博文参議と松方正義内務卿から「赴任ノ上ハ、京都将来維持ノ目的ヲ立テ(中略)衰退ニ陥ラサル様考案ヲ興ス可シ」との施政方針を授けられていた(北垣国道の日記「塵海」明治21年7月20日の記述)。

 4)工事の途上で、軍事上の理由から4間(約7.2)の幅員が必要だという意見が出され、北垣も一時はこれに理解を示したが、工事費の増高を危惧する議会から3間を維持することを求められ、北垣が第4師団司令長官と面談して了承を得たという逸話がある(「塵海」明治19年6月12日の記述)。

 5)本事業に投じられた国庫補助金について、京都府立資料館(http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/documents/
kaisetu.pdf)や土木学会(http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/30)では、「山形県と並んでわが国で初めて」のものと説明している。明治期の道路に対する国庫負担は、6年に大蔵省が「道路規則」を発した時には等級に応じて国が「官費下渡金」を支給することとなっていたのを、国の財政を圧迫するという理由で13年に廃されているので、上記の文献は補助が再開されて初めてという意味に解すべきかも知れない。なお、府が残している「京都宮津間車道開鑿工事成蹟表」によれば、当事業の国庫補助金は「明治14年稟伺、翌15年再伺 竟(つい)ニ特別ノ譯ヲ以テ金3万円ヲ5ケ年ニ割リ1ケ年6千円宛支給アリ。又 18年5月ニ至リ當初ノ豫算ニ倍スルノ巨額ニ達スル事情ヲ陳シ尚金5万円ヲ稟伺シ 20年1月再伺ニ対シ金5万円ヲ3ケ年ニ分ケテ下附アリ」ということだったようで、制度として廃止されていた間にも特別に国庫補助金が支出されていたことが知れる。これは、松方内務卿が来京した際に車道への補助金を要望して卿の了諾を得る(「塵海」明治15年7月11日の記述)など、北垣が個人的なつながりを利用して補助金獲得に努めたことによるものと考えられる。

 6) 明治20年8月19日付けの日出新聞に、京都宮津間車道開鑿事業に5万円の国庫補助が決定したことに歓喜した16名が、費用の一部として3,500円を府に献金したという記事が見える。

 7)明治24年7月、宮津の澤田 宇兵衛により京都〜宮津間の乗合馬車が開始された。午前5時に宮津を出て正午に福知山に着き、同時刻に出る車に乗換えて午後6時に園部着。翌日5時に同地を出発して11時に京都の七条大宮に到着するというもので、毎日1往復ずつの運行であった。運賃は1円26銭。乗合馬車には小荷物も乗せており、園部以西には即日配達、以東には翌日配達であった。さらに、26年には即日発着の馬車の営業を開始している。午前4時に京都を出て午後7時30分に宮津に着いた(客室の狭さと激しい揺れのために乗客の疲労が著しく、現実にはどこかで休憩しなければ持たなかったらしい)。運賃は1円48銭であった。

 8)売間が考案した水力による峠の切り下げは無理であることが既に明らかであったので、彼の事業は無償で府に譲渡され府からの工事費の補填はなかったようだ。輪石から路面までの間に充てんされる土砂が崩れないように橋の両側面に積む石。スパンドレル(spandrel)ともいう。

 9) 輪石から路面までの間に充てんされる土砂が崩れないように橋の両側面に積む石。スパンドレル(spandrel)ともいう。

10) 石の積み方における天端処理の手法のひとつ。2つの石を使って楯状の五角形にする。なお、複数の石を組み合わせる本橋とは異なるが、盾状の輪石は田辺が多用した形式であったようで、宮津市内の神子(みこ)川に架かる4mほどの無名橋(下図左)や、舞鶴市岡田由里の岡田川に架かっていた旧岡田橋(L=16.7m)(下図右)でも類似のものが見られる。旧岡田橋は、国道175号と岡田川の改修のためにいったんは撤去されることとなったが、地元から保存の要望が高まり、平成8(1996)年に「旧岡田橋河川水辺公園」として整備されたものだ。