か    せい

河 西 橋

軽便鉄道の橋梁を再利用した歩行者・二輪車専用橋

軽便鉄道の橋梁を使用している河西橋(令和3(2021)年4月撮影)
 河西橋は、南海和歌山市駅の北方で紀ノ川を横断する、橋長478m、標準幅員2.8mの歩行者・二輪車専用上路版桁橋である。この橋、もとは「加太軽便鉄道」が架けたものを廃橋に伴って和歌山市が譲り受けたものだ。本稿では、鉄道が橋を放棄するに至った経緯と和歌山市が行っている管理の現況についてレポートする。

便鉄道とは、英語のLight Railwayあるいはドイツ語のKleinbahnに相当するもので、幹線鉄道より規格を落として敷設される鉄道を言い、わが国では明治43(1910)年に公布された「軽便鉄道法」に始まる。これを遡る4年前(39年)、「鉄道国有法」が成立して全国の大規模な鉄道会社17社が国有化され、私設鉄道はだいたいが地方の小規模なものに限られてしまうことなった。当時は、幹線鉄道が通らなかった地方の富裕地主層や実業家の間で、幹線鉄道にアクセスする小規模な鉄道を敷設したいという要望が高まっていたが、民営の鉄道を扱う「私設鉄道条例」(20年)は、国有化の対象となったような大規模な私鉄を想定して国が厳しく統制し複雑な手続きを強いるものだったので、これに基づいて地方の小路線を整備していくのは彼らにとってハードルの高いことであった。そこで、小規模な民営鉄道の建設を促進するために制定されたのが、私設鉄道条例の規定をぐっと簡便化したのが軽便鉄道法だったのである。しかも、本法と同時に軽便鉄道に対して国が補助を行う「軽便鉄道補助法」も制定されたから、これを機に各地で軽便鉄道会社
図1 (初代)和歌山口駅のあったあたりから見た和歌山市街地
が雨後の筍のごとく設立されることになった。
歌山でも状況は同じだった。明治42年10月、垣内 太郎1)は同志6名と共に海草郡野崎村(紀ノ川を挟んで和歌山市の対岸にあたる)から同郡加太町までの鉄道を出願している。垣内は地元 海草郡木本村の出身で、25年から県会議員を務めるなど大きな政治的実力を持っていた人物。軽便鉄道法の成立を見て43年8月に同法による申請に変更し、44年1月に「加太軽便鉄道」の設立にこぎつけた。筆頭発起人であった垣内が初代取締役社長に就任し、45年6月に(初代)和歌山口〜加太間を開通させている。和歌山口駅から紀ノ川の堤防を上がったところには(旧)北島橋という木橋が架かっており、これを渡って
図2 大正時代の加太軽便鉄道(出典:安藤精一「目で見る和歌山市の100年」(郷土出版社)
和歌山にアクセスするというものだった。
 大正2(1913)年4月に加太軽便鉄道は和歌山市杉ノ馬場までの免許を得、紀ノ川に鉄橋を架設して3年9月に南海和歌山市駅の北に隣接して新たに(2代目)和歌山口駅を開設した2)。和歌山で最大のターミナルに乗り入れたこの駅の需要は大きく、県内鉄道駅3位の乗降客数を数えたという。
 というのも、沿線は和歌山との経済的つながりが強く日常的に往来が盛んだったのに加えて、淡島神社・木本八幡宮・報恩講寺などの著名な寺社があって多くの参詣者を集めたからだ。夏季には磯ノ浦に向かう海水浴客が押しかけ、すし詰め状態で動かなくなった汽車を乗客が降りて押したというエピソードも伝わる。また、隠れた需要として加太の先には「由良要塞深山重砲兵連隊」があった。これは、紀淡海峡の防衛のために加太町や深山村の沿岸に明治27年から整備が進んだいくつかの砲台や保塁を運用するために深山村におかれていた、大阪の第4師団に属する連隊。
図3 南海電鉄加太線が現在の路線になるまでの経緯
一般の立ち入りは禁じられていたが、一つの街が形成されるほどの兵士が滞在していたという。
 昭和5(1930)には電化して社名を「加太電気鉄道」と変更している(後に出てくる東松江駅は電化に際して追加されたもの)。その後の営業成績も好調で、年々貨客の取扱い数量を伸ばした。加えて、太平洋戦争の近づく17年4月には、沿線で「住友金属工業和歌山製鉄所」3)が開設され、戦艦・戦闘機・魚雷などに用いるさまざまな部品を製造して軽便鉄道を使って軍に納品することになった。加太電気鉄道は、連隊への輸送に加えて製鉄所の材料・製品の搬送入や従業員の輸送という重要な使命を帯びることになったのだ。ところが、これを機に加太電気鉄道は軍の統制下におかれるようになる。工場の操業に先立つ2月に、
図4 大正時代の加太軽便鉄道の輸送実績(和歌山県史編さん委員会「和歌山県史 近現代1」をもとに作成)
加太電気鉄道は南海鉄道に合併されてしまう4)。決して経営が傾いたからではなく、むしろ重要な路線は大きな会社が効率的に運用した方が良いとする軍の方針によるものだった。その南海鉄道も、19年5月に「関西急行鉄道」と合併して「近畿日本鉄道」となる。ところが、いくら会社が大きくなっても加太線は所詮は軽便鉄道でしかない。重量物の運搬に紀ノ川橋梁が耐えられなかった。そこで、これを迂回するために、同年10月に本線の紀ノ川駅と加太線の東松江駅を結ぶ貨物専用の「松江支線」が非電化で建設された(住友金属への引き込み線が東松江駅から出ていた)。
 翌20年にわが国は終戦を迎える。戦後まもなく(22年)近畿日本鉄道から「南海電鉄」が分離し加太線は同社に編入されるが、加太線の歴史は戦後も変転に富む。まず、25年7月に貨物に加えて旅客も紀ノ川駅経由に変更され(前年に電化されている)、東松江〜北島〜和歌山市間は「北島支線」として単行運転の電車が往復するだけとなった。その後直後の9月に、ジェーン台風で紀ノ川橋梁が被災。北島〜和歌山市間が運休している。復旧して軽量化された車両で運行を開始したものの、28年7月の水害で同区間は再度の運休を強いられ、そのまま復旧することなく30年に廃止が決まった。残った東松江〜北島間は延長1.8kmの盲腸線として運行を続けたたが、41年に国道26号の建設に伴い廃止され、加太線は現在のように加太〜紀ノ川間だけになった。なお、住友金属の減産やトラック輸送への転換により、59年には加太線の貨物輸送が廃止されている。
て、本稿の主題である河西橋は、鉄道として使用されなくなった紀ノ川橋梁を和歌山市が譲り受けて29年から道路橋として供用しているもの。左岸側13基と右岸側4基の橋脚は今も鉄道時代のものが残っている。その間の部分は増水のために流出しコンクリート製で再構築された。転用するに当たり、市ではコンクリート床板と高欄を設置している。安全基準の改定により、平成2(1990)年に高欄の嵩上げを行い、4年に橋脚にコンクリートを増し打ちして落橋防止装置を追加するなど、怠りなく管理を行っているようだ。表題の写真を見て気づかれると思うが、石積みの橋脚1基がジェーン台風で被災して傾いたままになっている。心許ない気がするが、これまで無事に過ごしてきたのだから的確な判断だと言うべきだろう。
 架橋から100年余り。市は河西橋の架け替えを決定し、26年度から事業に着手している。新しい橋は現橋の上流側に近接して架設し、橋長473 m、幅員6.0m(歩道2m、二輪車道4m(緊急時のみ自動車が通れる))になる予定。現地では工事が着々と進んでいた。

(謝辞) 本稿の作成に当たり和歌山市建設局道路部道路建設課からご教示を賜った。

(参考文献) 亀位 匡宏「南海加太線むかしむかし」(和歌山社会経済研究所、http://www.wsk.or.jp/report/kamei/03.html)

                                            (2015.10.13)(2021.05.10)

1) 垣内は道路・交通政策に精通した政治家で、県会議長を最後に44年9月に53才で県会議員を勇退したあと、昭和3年9月に70才で死亡するまで、加太軽便鉄道と山東軽便鉄道の初代取締役社長としてそれぞれ17年8ヶ月間、14年3ヶ月間の長きにわたって和歌山の鉄道経営に精魂を傾けた。

2) もとの和歌山口駅はやや西に移設して北島駅になっている。

3) 和歌山製鉄所の用地買収は、地権者説明会が海軍士官や警察部長らの臨席のもとで行われ、5日間で131.6万坪(約4.35km2)をほぼ住友側の提示額どおりで買い切るという異常なものであった(和歌山県史編さん委員会「和歌山県史 近現代2」による)。それほど急いでも、期待された鉄鋼一貫生産は終戦まで実現しなかった。

4) 南海鉄道との合併に伴い、和歌山口駅の名は消え和歌山市駅の一部になる。