和歌山市の中心駅を巡る争いが残したもの

和歌山市駅に向かっていた和歌山線の跡(昭和49(1974)年廃止)
 鉄道は重要な都市施設だ。そのルートは都市の骨格を決めるし、駅の配置は市街地の盛衰に関係する。都市にとってこれほど重要な鉄道のあり方を、鉄道事業者の企業的判断だけに委ねてもよいのであろうかと筆者はかねがね考えていたが、今回、和歌山市を訪れて改めてその念を強くした。本稿では、和歌山における鉄道網の変遷が現在の都市に残したものを考える。

阪駅から紀州路快速に乗り、終点 和歌山駅の1つ手前の紀伊中ノ島駅で降りる。客は筆者のほかには1人だけ。面白い駅で、ホームは高架上に南北方向についているのに、駅舎は長い階段を降りたところに東西方向に建っている。もとは改札口だったと思われる通路は柵で塞がれており、その脇を通り抜けた自転車置き場には廃されたホームが1面残っていた。そこから東を見たのが表題の写真である。この廃線は五条(奈良県)方面から和歌山市駅に至っていた和歌山線。駅舎の外観は瀟洒なラティス状の装飾が施されている(図1)など、凝った造りではある。
 決して繁盛しているとは言えない駅前旅館を見て西に向かう。やがて左から和歌山〜和歌山市間の高架線が寄り添ってくる。国道26号和歌山北バイパスに関連して立体化されたものだ。新しい鉄道構造物とは裏腹に沿線の町並みからは活力が感じられない。もとは商店街だったであろう大新(だいしん)通りも、実際に営業している店舗は少ない。大新通りの突き当りにある紀和駅は、2両編成の電車が止まれるだけの短いホームが1面、高架の上についている小さな駅だ(図2)。しかし、広大な敷地を有しており、高架の両側に空地が続いている(図3)。跡地が公園に活用されるということで、照明柱の建込み工事が行われていた。一部はすでに雨水ポンプ場や放置自転車保管庫に利用されていたが、日常的に人が訪れる施設ではないことから、事業中の公園においては是非とも良質な整備をして来訪者を呼び集めることが強く望まれた。
 JRの和歌山駅と南海電車の和歌山市駅という2つのターミナルを結ぶこの地域がなぜこのように疲弊してしまっているのかが、今回のテーマである。

図1 都会にありながら無人駅の紀伊中之島 図2 2両編成の電車が止まる長さしかない紀和駅、これも無人駅 図3 紀和駅周辺では高架の両側に広い空地が残っている

治時代、わが国の鉄道建設をリードした井上 勝は一貫して国有鉄道の必要を唱えていたが、私設鉄道条例(20年)に基づく私鉄がどんどん拡大していく現状にあって、24年7月に「鉄道政略ニ関スル議」を建議した。そのおおまかな内容は、@政府は国策として必要な幹線鉄道の路線を決定しなければならない、Aその建設を着実に進めるための法律と資金を得るための公債発行の法律を制定しなければならない、B幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を政府が買収しなければならない、というものだった。
 これを受けた政府は「鉄道公債法」と「私設鉄道買収法」を提出したが、私設鉄道の株主である実業家や地方の富裕層らを支持基盤とする議会の同意を取ることはできず、結局は全国の幹線鉄道網の将来あるべき姿を法定した「鉄道敷設法」1)が25年に制定されることとなった。ここには建設すべき鉄道として33路線を指定し、そのうちでも特に重要な9路線を第一期線として12年以内に建設に着手することを規定している。
の法で和歌山への鉄道は第一期線に挙げられていたが、その路線は「大阪府下大阪若ハ奈良縣下八木又ハ高田ヨリ五條ヲ經テ和歌山縣下和歌山ニ至ル鐵道」という書き方で、異なる2本のルートが併記されていたのだった。今なら大阪から和歌山に至るルート(以下「紀泉線」という)と八木または高田から和歌山に至るルート(以下「大和線」という)では、比較するまでもなく前者が優位だと思えるが、当時の事情は簡単ではなかったらしい。大和線を希望する紀北の有力者は陸奥派2)と結びつき、紀泉線を希望する和歌山市の商工業者は自由党と結ぶという具合に、鉄道路線の対立が政党の争いと一体化していたから、政府も和歌山への鉄道敷設は重要とする姿勢を示しながらもルートは決めかねていたのである3)
 このような鉄道誘致運動に応じて、鉄道会社の設立が活発であった。「大和線」を推進するグループは、26年に五條4)と和歌山とを結ぶ「紀和鉄道」を出願した。将来は官営鉄道による買収もありうることを条件に免許が認められ、30年から五條方・和歌山方の双方から工事を進めた。しかし、五條付近で「南和鉄道」の線路を使用する交渉が円満にいかなかったり、建設途上で資本金の不足が判明するなど会社の経営はダッチロール状態だったようで、数か月ごとに社長が交代するという混乱ぶりであった。
図4 明治末期の和歌山駅、ホームは長いが長閑な雰囲気が漂う(出典:神坂 次郎「保存版 ふるさと和歌山市」(郷土出版社))
このような中で31年5月に和歌山〜船戸間を開業。和歌山に初めて鉄道が通じたのだった。なお、この時の和歌山駅とは現在の紀和駅のこと(和歌山が紀和に改称するのは昭和43(1968)年2月)。
 和歌山への鉄道敷設は遅かった。神戸・大阪(7年)、京都(9年)と比較にならないのは当然としても、私設鉄道条例以後に設立された鉄道会社により敷設された姫路(21年、山陽鉄道)、奈良(23年、大阪鉄道)に比べても10年近い開きがある。
 一方、大阪から路線を伸ばしてきた「南海鉄道」も31年10月に紀ノ川北岸までたどり着いたが、紀ノ川を渡るのに時間を要し、和歌山に到達するのは36年3月までずれ込んだ。南海鉄道のターミナルは「ぶらくり丁」のある繁華街から北西に800mほどの
南海鉄道が設置した和歌山市駅に紀和鉄道が乗り入れ、駅前から和歌山電気軌道が市内を縦貫する。加太軽便鉄道が紀ノ川北岸に和歌山口駅を設ける。(※関西鉄道を経て国有化) 加太軽便鉄道が和歌山市駅に隣接して新たに和歌山口駅を設ける。山東軽便鉄道が和歌山駅に隣接して中之島駅を設ける。 和歌山駅から南に紀勢西線が路線を伸ばす。紀勢西線に分断された山東軽便鉄道は秋月〜東和歌山間に路線を変更する。
阪和電鉄が東和歌山駅に乗り入れ和歌山線との交点に紀伊中ノ島駅を設ける 東和歌山駅は和歌山駅と改称し、JR線はすべて和歌山」駅の発着となる
図5 和歌山市における鉄軌道網の変遷
ところに開設した和歌山市駅(以下、「市駅」という)。同時に、紀和鉄道は和歌山から南海鉄道の市駅までを延長している5)。大阪方面への連絡が図られる市駅が紀和鉄道の実質的なターミナルになったのであろう。
 これにより紀和鉄道の経営は安定するかに思われたが、同年7月に受けた洪水により全線に大きな被害を受けた。25日で仮復旧を遂げたものの、本格復旧には多額の費用を要することが見込まれた。今後とも公共交通機関としての役割を果たすためには大きな会社に合併するのが良いとの考えが社内に広まり、まず南海鉄道への売却を模索したがこれは失敗に終わり、次いで「関西鉄道」と交渉してこれに成功し、37年に同社に営業譲渡して紀和鉄道は解散した。その後、関西鉄道が40年に「鉄道国有化法」により国有化されたことによって、和歌山に国有鉄道が通じることになった6)。井上 勝が企図した国有鉄道による全国ネットワークは、和歌山においては大和線案の成就でもって決着したことになる。
うして国有鉄道網が充実したわけだが、大正時代に入ると鉄道敷設法で定めた路線は概ねの完成を見るようになる。そこで大正11(1922)年に新たな「鉄道敷設法」が制定された。本法には予定線として150もの路線が掲げられ、各地における鉄道建設の法的根拠とされた。しかし、制定にあたって路線ごとの必要性や採算性が深く検討された痕跡はなく、優先順位や財源も示されていないなど、立憲政友会の集票の道具に利用されたという酷評も聞かれる。とまれ、和歌山においては、本法に基づき和歌山駅から東和歌山駅7)を経て南進する紀勢西線の建設が進められ、13年に簑島まで、14年に紀伊宮原まで、15年に藤並までと、次第に路線を伸ばしていった。県下の国有鉄道が伸びるに従って、大阪に行くには市駅で南海鉄道に乗り換えなければならないことが国鉄には不合理と感じられたようだ。何度か買収を持ちかけたが南海に拒否されたと伝わっている。この局面で登場したのが「阪和電鉄」だった。
 当時、立憲政友会との政治的関係を背景に、「京阪電鉄」は版図を近畿一円に広げようとしていた。その一環として、和歌山県内の有力な電力会社であった「和歌山水力電気」を買収して自社の和歌山支店としている(大正11年)8)。そして、さらなる鉄道を求めていた泉州・紀州の資本家や紀伊半島を就航圏域としていた大阪商船らが出願(8年)していた阪和電鉄に加わったのである。国は、鉄道経営を本業とする京阪が参画したことで、阪和間の路線の欠落を補う格好の材料として阪和電鉄を歓迎したのだろう。国有鉄道との連絡を条件に12年に鉄道敷設免許を与えた。これに応じて起点を天王寺、終点を東和歌山に変更した阪和電鉄は、昭和5(1930)年6月に全線開通を果たしている。
 東和歌山に乗り入れる阪和電鉄が、市駅方面との乗換駅として設置したのが紀伊中ノ島。当然のことながら、国鉄もこれに同調して和歌山線に駅を設置している。昭和6年の「和歌山県統計書」によれば、阪和電鉄の開通により新たにターミナル性を帯びた東和歌山の年間乗降客数は77万人に増加したが、市駅は171万人とかなりの水が開いており、依然として市駅が和歌山の中心駅であったことが伺える。よって、紀伊中ノ島にもそれなりの重要性があって利用客が見込めたのであろう。
 阪和電鉄は、市街地から離れた内陸に直線的にルートをとり、大阪市内の2.7kmを高架構造とし、直流1,500Vを採用するなどして、ノンストップで天王寺〜東和歌山間を48分で走る特急を投入し、難波〜和歌山市間60分の南海鉄道を圧倒する高速運転を誇った。国は、過度のスピード競争は望ましくないとしていったんは「陸上交通事業調整法」(昭和13年4月公布)に基づき阪和電鉄と南海鉄道との合併9)を進めたが、戦争が激しくなった19年5月に阪和電鉄の区間を「戦時買収」して国有化するのである。戦時買収とは、「地方鉄道法」第30条にある「政府カ公益上ノ必要ニ因リ地方鉄道ノ全部又ハ一部及其ノ付属物件ヲ買収セムトキハ地方鉄道業者ハ之ヲ拒ムコトヲ得ス」を適用して、軍が戦時陸運体制の確立のために必要とした私鉄路線を強制的に国有化するもの。こうして「国鉄阪和線」が生まれた。
後、市駅をターミナルとする南海電鉄と東和歌山駅をターミナルとする国鉄が競うことになるが、徐々に東和歌山が優位になってくる。まず、昭和38(1963)年に和歌山線五条方面から東和歌山駅に入る連絡線を整備。和歌山線の列車の多くは市駅に行かずに東和歌山に行くようになった(和歌山線から市駅方面に向かう区間は49年に廃止)。そして、43年に和歌山を紀和、東和歌山を和歌山(以下、2代目和歌山駅を「和駅」という)とする駅名改称が実施され、名実ともに和歌山市における国鉄のターミナルが成立することになる。
 また、国鉄は紀勢本線の複線電化に努め、長距離旅客の獲得を図った。53年に新宮までの電化が完成すると、天王寺〜新宮間に新鋭の振り子式特急電車を投入。難波から市駅を経て紀勢本線に向かう旅客は著しく減少した(南海電車の紀勢本線への乗り入れは60年に廃止)。民営化後の平成元(1989)年には、天王寺付近で阪和線と関西線をつなぐ連絡線を建設し、阪和線・紀勢本線から大阪・新大阪・京都に直通する列車を走らせている。平成25年度の乗降客数は、市駅64万人、和駅143万人と、戦前のバランスと完全に逆転している。
駅と和駅の間は、現在はJR西日本の2両編成の電車が昼間は1時間に1本くらいの頻度で走るほどの閑散路線の扱いを受けている。同社にしてみれば、この区間の運行は社の収益に寄与する訳でもないから、こうなるのは当然なのかも知れない。しかし、県都 和歌山の都市交通という視点に立てば、市駅と和駅の2つのターミナルの往来
図6 昭和45年頃には賑わっていた(左、出典:神坂 次郎「和歌山市今昔写真帖」(郷土出版社)が近年は休日の午後でも半数近い商店がシャッターを下ろし人通りのまばらなぶらくり丁商店街
が不便だという現状は大いに問題視されて良い。
 いま、和歌山市内の商業地図を概観するに、市内にはぶらくり丁付近・市駅周辺・和駅周辺の3つの商業核があるように思えるが、ぶらくり丁はかつての「人の頭しか見えない」と言われた雑踏は見る影もないシャッター街になっている10)し、市駅周辺も駅ビルから高島屋が撤退したことに象徴されるように衰凋は隠せない。近鉄百貨店が立地する和駅周辺だけがかろうじて郊外の大規模ショッピングモールに対抗して生き残っているというのは言い過ぎだろうか。
 このような状況で、市駅〜和駅間のJR線を使って南海電車(本線・加太線)と和歌山電鉄をそれぞれ乗り入れさせようというアイデアが披露された(26年9月16日県議会での企画部長答弁)。県では「鉄道の相互乗り入れは利便性の向上や、まち全体の活性化などに効果がある。実現に向けて積極的に取り組んでいく」としているが、このような交通施策は南海とJRのシェアに影響するだけでなく、上記3つの商業核とショッピングモールの盛衰にもつながる。市域の機能配置のあり方を整理した上でそれと整合のある交通施策を考える時ではなかろうか。"選択と集中"に関係者が合意できるかどうかが成否を決めるであろう。
(2015.09.24)(2021.05.10)


 1) この法律の原案を作った鉄道庁長官 井上 勝は全国の主要鉄道は国営であるべきと考えていたが、民営鉄道の株主であった資産家らが多数を占める帝国議会ではそのままでは認められずに、将来の国有化を匂わしつつも民営による予定線建設を進める内容に修正して可決された。

 2) 陸奥 宗光(天保15(1844)〜明治30(1897)年)を中心とする政治集団。紀州藩士の家に生まれた陸奥は、勝 海舟や坂本龍馬の知遇を得て維新後の政府にあって地租改正などに腕をふるうが、藩閥政治に反発して投獄の憂き目を見る。伊藤博文の手回しにより特赦を受けて出獄した後はヨーロッパに留学して政治学を猛修し、帰国して農商務大臣を務めるとともに和歌山第1区から第1回衆議院議員総選挙に出馬して当選。その後、第2次伊藤内閣の外務大臣に迎えられ不平等条約の改正に成功したことは著名。なお、陸奥の死後、同士であった原 敬や西園寺公望らが起こした立憲政友会は、わが国で最初の本格的な政党として、地方の地主らの支持を得て帝国議会の多数を占めるに至った。

 3) この鉄道誘致運動について徳竹 剛氏は、和歌山市への鉄道延伸が和歌山県の全県的な課題とならずに直接的な利害を受ける沿線地域に限られた課題として扱われていると指摘し、その原因に、運動の担い手の政治的力量や広範囲にわたる政治的基盤の不足及び鉄道敷設が全県的課題と認識されるだけの経済活動の活発化の不足を挙げている(http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/
bitstream/10097/50622/1/1343-0939-2010-52-65.pdf)。鉄道庁はルート案を絞り込むための委員会を設置し、近畿地区を担当した仙石 貢の調査に基づいて大和線を採択したいとして26年2月の帝国議会に諮ったが、議会では選定に漏れた路線に関係する議員が合同して決定を先送りする行動が生じて、本路線についても再調査の扱いを受けて決定は持ち越された。なお、仙石 貢(安政4(1857)〜昭和6(1931)年)は、東京帝国大学土木工学科を卒業して工部省に勤務して日本鉄道や甲武鉄道の工事に従事した後、退官して筑豊鉄道や九州鉄道の社長を歴任。鉄道院総裁に任じられた後、衆議院議員に当選して鉄道大臣も務めた。土木学会第7代会長でもある。

 4) 既に明治24年に大阪鉄道が通じていた高田(奈良県)と五條を結ぶ鉄道の免許が26年に「南和鉄道」に下付されていた。

 5) 和歌山市〜和歌山間の西寄りの2/3を南海鉄道、東寄りの1/3を紀和鉄道が敷設することになり、路線の途中に分界点ができた。この分界点は国鉄に引き継がれたが、民営化時に南海はJR西日本に自社区間を貸与しており、現在はJR西日本の第1種鉄道事業区間となっている。

 6) この時、南海鉄道が同法により国有化されなかった経緯は複雑だ。鉄道国有化法案が閣議に付議された時には買収対象は17社で買収総額は4億1290万円余。関西に関係する社は山陽鉄道、関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道、西成鉄道、参宮鉄道であって南海鉄道は含まれていなかった。閣議において、原 敬首相の提案で、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、近江鉄道など15社を加えた32社、4億7098万円余に変更決定して、39年3月の第22回帝国議会に提出した。衆議院では原案通り可決されたが、貴族院で対象を17社に戻す修正がなされ、再び衆議院に送られた。衆議院では反対する議員が退場するという混乱の中で与党 立憲政友会の単独採決で修正案が可決された。

 7) 大正5年に開通した山東軽便鉄道(現在の和歌山電鉄)は大橋を和歌山市街地への最寄駅としていたが、紀勢西線により路線を分断されターミナルを東和歌山に変更している。ただし、当時の東和歌山は人家のない田圃の中にあるような駅だったようだ。紀勢西線により旅客を奪われた形の同社としては、建設の容易な東和歌山への接続を選択したといわれている。

 8) 和歌山水力電気が経営していた市内電車(和歌山市駅前〜海南駅前、和歌浦口〜新和歌浦)も京阪電鉄の経営に移っている。

 9) 南海鉄道は関西急行鉄道と合併させられ、近畿日本鉄道になった。しかし、このような資本系列も営業区域も異なる会社の合併がうまくいくはずもなく、戦後は、南海鉄道は分離して「南海電鉄」となり、もとの関西急行鉄道の区間を近畿日本鉄道が継承している。

10) 当然、和歌山県も和歌山市も中心部の商業活性化には取り組んでおり、「丸正百貨店」(平成13年倒産)と「大丸」(10年撤退)の跡地に複合施設「フォルテワジマ」と「ドン・キホーテぶらくり丁店」の開設に成功している。しかし、これら百貨店と共にあったぶらくり丁商店街については、なお活性化に向けた支援が必要な状況が続いており、イベント拠点の設置・レンタサイクル事業・商店主らへの個別相談・空き店舗活用事業への補助などを始めとして、「中心市街地活性化法」に基づく支援事業を行っている。徐々に効果が出ていると見える点もあるようだ。公共駐車場の整備などのハードを伴う提案は市民の同意を得られていない。