かい    づ

海 津

湖上交通の拠点として栄えた町に残された景観

「橋板」を渡すなど伝統的な水辺景観を保っている海津の湖岸
 わが国最大の湖である琵琶湖は、50種類もの魚類が生息するほどの豊かな自然を保っているほか、京阪神の水がめとしての機能も担っている。また、古くから水上交通が盛んで、湖岸の町は物資輸送の中継地として栄えた。そんな湊町のひとつ 海津は、かつての喧噪を余所に今 静かな時を刻んでいた。

西線マキノ駅を降りて東に1kmほども行くと海津の集落である。海津は、琵琶湖の舟運で栄えた町だった。開港の時期は明確でないが平安時代にはすでにあったらしい。港は湖岸にあったのではなく、琵琶湖に注ぐ中ノ川のほとりにあったという。今では小さい川だが、もとは両岸に船を繋いでもその間を通ることができる幅があったというこ とだ。
図1 海津・西浜の石積み、中央のケヤキの木は入港の目印として植えたもの
豊臣 秀吉の時代に大谷 吉隆が「西内沼」と中ノ川を結ぶ水路を掘って船溜まりとしてからは、琵琶湖では大津に次ぐ大きな港になった。海津が最も栄えたのは江戸時代初期のことで、奥州・北陸からの藩米が大量に到着し、蔵や旅館・商店が建ち並び活気のある様相を呈したと考えられる1)
 地区を貫いて走る道路に沿って落ち着いた町並みが形成されている。道路から分かれて、家々の間を抜ける「辻子(ずし)」と呼ばれる狭い通路を通って湖岸に出ると、大きな石積みが目に入る。これが有名な「海津・西浜の石積み」だ。元禄14(1701)年に甲府藩から派遣されて2)海津西浜の代官に着任した西 与一左衛門が、
図2 海津漁港のすぐ前にある蓮光寺の西 与一左衛門の碑
度重なる大波により宅地の被害が甚だしいのを見て、海津東浜の金丸 又衛門と協議して幕府に普請を誓願し、普請費用の下付を受けて西浜に272間(約495m)、東浜に367間(約668m)の波よけの石垣を築いたもの(16年完成)。以来 水害から免れたといい、その功績をたたえて西浜の「蓮光寺」に碑を建立し毎年3月15日に法会(ほうえ)が営まれる。積まれた石を見ると、矢穴3)の直径が9cmほどであって、これは16世紀末から17世紀にかけての加工技術と考えられていることから、文献と矛盾することはないが、箇所によって石の加工度や積み方4)が異なることから、数度に渡る補修が行われたことが推察される。
者には、石積みに沿って湖岸を散歩されることをお勧めする。洗濯をするための「橋板」(図3 @)が水際に設けてあったり、沖に目を転ずれば伝統漁法である「えり」5)(A)が仕掛けてあったりと、海津の人々が琵琶湖に寄り添いその恵みを受けて暮らしていることが
図3 海津の景観を構成する要素
強く感じ取れる。石積みが西浜地区では湖岸からやや離れて低く、海津(東浜)地区では湖岸に接して高く積まれているようであるのは集落の立地と関係しているのであろうか。
 海津は湧水の多いところでもある。集落の中に「イケ」(B)と呼ばれる湧水を利用した水場が設けられており、洗い場として利用されていた。社が祀られているのは人々がこれを大切にしてきた証である。コイが飼ってあるのは残滓を食べさせて水質を保つためであろう。海津には3箇所のイケがあり、それぞれを利用するエリアが共同体を作ってきたという経緯もある。
 海津の町並みにも見るべきものがある。地区の中心となっている道路を歩くと、醤油の醸造元(C)、日本酒の蔵元(D)、鮒寿司の老舗(E)が目につく。Fは、「海津迎賓館」という表札が懸かっているが「旧井花御殿」のこと。明治3年(1870)に磯野 源兵衛と共同で郡山藩の許可を受け「湖上丸」という蒸気船を購入し、翌4年大津〜海津間の航路を開いた井花 伊兵衛に関わるもの。この航路は後の太湖汽船や琵琶湖汽船の母胎となる。その桟橋は今は杭柱を湖中に残すのみだ。また、海津漁港入口に位置する「海津漁業協同組合旧倉庫」(G)は、昭和13年に建てられた2階建ての土蔵で、漁港で水揚げされたアユを出荷するまでの貯蔵倉庫として利用され、冷蔵設備を備えていた。
成16(2004)年の「文化財保護法」の改正により「文化的景観」という文化財が新たに誕生した。「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地」(法第2条第1項第5号)であって、自然的・歴史的風土そのものだけでなくその風景を形成する人々の生活や生業を重視しているところに大きな特徴がある。従って、従来のような現状を変えずに保存するという文化財とは違い、それぞれの地域の生活や生業を活性化させることにより保存していくという動態保存が目指されていると言える。同時に新たに制定された「景観法」に規定される「景観計画区域」又は「景観地区内」にある文化的景観のうち「文化的景観保存計画」の策定や条例による保護措置等の条件を整えたものの中から、特に重要なものを、都道府県又は市町村の申出に基づき「重要文化的景観」6)に選定することとしており、本稿でご紹介した海津の景観は、平成20(2008)年に「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」として選定されている。
(2015.06.05)

(参考文献) 高島市教育委員会事務局文化財課「重要文化的景観「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」」( http://www.city.
takashima.shiga.jp/www/contents/1207300859383/index. html)

1) 寛永の初め(1620年代)ころには、海津を経由して大津方面へ運ばれる諸大名の藩米は年間30万石(75万俵)もあったが、西廻り航路が寛文12(1672)年に開拓されて直接大坂へ送られるようになると、海津を通過する米は、延宝期(1673〜81)には平均年6万石(15万俵)、貞享期(1684〜88)のころになると、年間わずかに1万石(2.5万俵)と急激に減少した。その後の海津は、近江・美濃の物産(陶磁器・茶・みかんなど)の北国への輸送拠点として利用されることとなる。

2) 江戸時代の海津は幕府の直轄である期間が長かったが、甲府藩・加賀藩・大和郡山藩の所領となったこともあった。

3) 石材を切り出す時にくさびを打ち込むためにあける穴。

4) 石垣は、石の加工度と積み方により次のように分類するのが一般的である。
<石の加工度による分類>
野面(のづら)積み 自然のままの石または粗削りした石をそのまま積む方法。石と石の隙間が大きくなる。
打込み接(はぎ) 接合面を大きくするため平面が出るように石を打ち割って積む方法。どうしてもできてしまう隙間に間石(あいいし)を詰める場合もある。
切込み接 打込み接よりもさらに石を加工し、隙間なく積み上げる方法。
<石の積み方による分類>
乱積み 大きさの不均一な石を積み上げる方法。
布積み 高さのほぼそろった石を用いて水平方向に列をなすように積む方法。
亀甲積み 六角形に整形した石を積み上げる方法。
谷積み(落し積み) 石材を斜めにずらしながら積む方法。

5) 矢印のような形に竿と簾を湖中に建て並べ、魚の習性を利用して「つぼ」と呼ばれる部分に魚を集める漁法。琵琶湖一円で見られる。アユ、モロコ、ワカサギなどが獲れる。

6) 平成17(2005)年の文化財保護法の改正により人々の生活や風土に深く結びついた地域特有の景観が文化財の一領域として加えられたことに伴い、同法第134条の規定に基づいて選定されるもの。条例で必要な規制を定めて文化的景観の保存を図っている市町村・都道府県の申し出により文部科学大臣が定める。