ひき  た  ふな かわ
疋田舟川

外国の圧迫に備えた陸上輸送の効率化

復元整備された疋田舟川
 JR北陸線に乗り深坂トンネル(L=5,170m)を抜けると新疋田駅。無人の改札口を出て北へ800mほど行くと疋田の集落がある。疋田は、鉄道が通じるまでは、日本海と琵琶湖を結ぶ交通路の重要な拠点であった。ここで見つけた疋田舟川の遺構を手がかりに、陸上輸送の効率化としての水上輸送への転換策の歴史を紐解いてみた。

図1 敦賀と琵琶湖を結ぶ交通路
図2 「中部北陸自然歩道」になっている深坂越、路面に残る敷石に往時の殷賑が偲ばれる
文12(1672)年に河村 瑞賢が西廻り航路を開拓するまでは、日本海側の諸港から搬出される米穀などは、敦賀で荷揚げして陸路で琵琶湖岸に至り湖上の水運で大津に運び再度陸路を経て京・大坂に送られるのが通常だった。
 琵琶湖と敦賀を結ぶ道路は古くから開かれており、神亀4(727)年に笠 朝臣(あそん)金村が平城京から船に乗り継いで塩津に達し山を越えて敦賀に向かった時に詠んだ歌「塩津山 打ち越え行けば 我(あ)が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも」(「万葉集」巻3)が知られる。彼が辿ったのは、塩津と敦賀を最短距離で結ぶ深坂峠を経由する「深坂越」だとされ、歌にあるような険しい山道だったようだ。紫式部も、長徳2(996)年に越前国司に任じられた父に伴われて輿でこの峠を越えるとき「知りぬらむ 往来(ゆきき)に馴らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと」(紫式部集)と詠んだ。
 また、国が定めた「北陸道」として琵琶湖と敦賀の間には海津から山中峠を経て敦賀に至る「七里半越」1)と呼ばれるルートが整備され、こちらは深坂越ほど厳しくなかったため、物資の輸送によく用いられた。これに伴い、湖北では海津湊が賑わった。七里半越で物資の輸送に当たったのは、馬の背に荷を乗せて運ぶ「馬借」だった。平安時代に始まった頃には農閑期の副業だったが、商業が発達して輸送量が増大した室町時代に専業化したようだ。
 これとほぼ時を同じくして、敦賀と塩津を結ぶ「新道野(しんどうの)越」が深坂峠の東方に開拓された。従来の峠より130mも低いところを通るので馬匹の通行に利し、七里半越に並ぶ幹線道路として扱われた。天正17(1589)年に大阪築城の資材を運ぶために改修が加えられるなど改良が繰り返され、新道野越の優位性が高まるにつれ湖上輸送の拠点は塩津に移っていった。陸上輸送が改善されたことにより、敦賀を経由する物資輸送はますます盛んになり、最盛期の寛文年間(1661〜1673年)には、藩から許可2)を受けた馬借が保有する381匹ではとても間に合わず、三方郡などから平馬(へいま)3)や背持(せもち)3)
図3 新道野越を開いた西村 孫兵衛の名を冠する茶屋、店内に芭蕉の「奥の細道」など10代目西村 野鶴の遺品が展覧されている
動員して1日2,600〜2,700の荷駄を近江に送ったという。荷馬に課される「駄別」 (通行税)は年額340貫を数え、小浜藩4)の収入の1割以上を賄った。なお、新道野越は、明治11(1878)年に敦賀陸送会社の寄付金で荷車道に改修されて(同時に深坂越は廃道の措置がとられている)ますます貨客の往来が増加した。現在の国道8号に踏襲されている。
に、琵琶湖の水上交通に目を転じてみよう。琵琶湖では「堅田衆」と「菅浦水軍」が湖上権を争っていたが、平安末期に平氏がこれを掌握し、以後 時々の支配者は都に近い琵琶湖を征することの重要さに鑑み、
図5 享保年間(1716〜36)におけ る大丸子船の所属港別隻数、大丸子船とはおおむね100石以上の もので本図には5隻以上の所属船を有する港を表示(喜多村 俊夫 「近江経済誌論攷」より
図4 「北淡海・丸子船の館」に展示されている丸
  子船、船底が多数の鉄板で補強されている
湖上水運を組織することに力を注いだ。
 琵琶湖では、「丸子船」と呼ばれる船底の平たい独特の船が使われた。荷物をたくさん積み速力が出るように工夫されており、百石積みの丸子船が塩津から大津までおよそ4時間で航行したという(丸子船の構造と特徴についてはhttp://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/
download.php?file_id=57852が詳しい)。その全盛期は江戸時代中期で、琵琶湖全体で1,400艘が運行しており、最も多数の船を有していたのが塩津だった。西回り航路が開拓されて減少したものの、明治中期に鉄道網が整備されるまで重要な交通機関として大いに賑わった。
味深いのは、水上交通を掌握した人物が日本海と琵琶湖を結ぶ運河を構想していることだ。古くは平 清盛がそれである。久安6(1150)年、子の重盛に敦賀から塩津に達する運河の開削を命じた。
図6 深坂地蔵、地元の人により丁寧に守られていた
重盛は深坂峠付近で工事に着手したらしいが、まもなく堅固な岩盤にあたって断念を余儀なくされる。深坂峠の直下にある「深坂地蔵」がそれだと言い伝えられており、別名を「堀止地蔵」という。その時、重盛は「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」と書き残した。
 豊臣 秀吉に仕えて敦賀城主に任じられていた蜂屋 頼隆と大谷 吉継・吉隆も運河計画を構想した。それは大浦川を利用するものであったらしいが、これも大岩石に遭遇して工事をあきらめたと伝えられる。大浦川は「太閤のけつわり堀」とも呼ばれるそうだ(http://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000073413.html)。
図7 秀吉が運河として利用しようと試みたといわれる大浦川
 江戸時代に入ると、京都の豪商 田中 四郎左右衛門が寛文9(1669)年から元禄9(1696)年にかけて3度にわたり幕府に許可を願い出、幕府も興味を示して実地検分に乗り出したが、敦賀側の反対で頓挫している。この時のルートは、塩津〜沓掛間約6kmの水路を掘削し、新道野〜敦賀間の約16kmは笙の川・疋田川を利用するというものであったようだ。
の後、幕府は米穀の効率的輸送のために河村 瑞賢に西回り航路を開設させ、敦賀と湖北の諸港との間の陸運は大きな打撃を受ける。しかし、幕府には、この区間の輸送を考え直さなければならない状況が生じたのである。それは、ロシア船の近海への出没だ。山越えする水路を整備して効率的な輸送を実現しようと、瑞賢に調査させる。が、日本海から琵琶湖まですべて水路で結ぶのは現実的でないと思ったようで、敦賀〜疋田間約6.5kmに舟が通る水路を開削するよう小浜藩に指示した。大坂の豪商 飾屋 六兵衛を金主にして文化13(1816)年に完成。これが疋田舟川である。途中、笙の川と交差するところでは長さ14間半(約23.4m)の筧を渡した。8月に、長さ3間(約5.5m)、幅7尺(約2.1m)の川舟8艘に米23俵を乗せ60人が曳いて試験運送を行ったとある。急流のため水位が上がらず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしたのが特徴だ。舟川と併せて、山中峠までの七里半越を改修し峠から大浦に出るルートを整備して、牛車を使用して輸送するようにした。川舟と陸送を組合せたのである。
 これはかなり賑わったようだが、馬借たちが反発して天保4(1833)年に廃され馬借座が復活している。既得権益の整理はむつかしいものだ。しかし、やはり西回り航路への不安は大きく、再び敦賀と琵琶湖の間が重視されるようになった。安政4(1857)年、疋田舟川を修復して運用が再開された。だが、慶応2(1866)年にこの地方を襲った豪雨5)により被災し、復旧されることなくそのまま廃止に至った。
田舟川は一定の効率性はあったであろうが、荷物の積替えの手間もかかったことから、敦賀と琵琶湖の間に本格的な運河の必要性が改めて認識されたようだ。疋田舟川が被災した翌年、加賀藩は幕府の命を受けて精確な測量図を作成したが、建設に着手する前に大政奉還があって実現することはなかった。明治5(1873)年には吉田 源之助が敦賀〜琵琶湖間の運河開削と宇治川の通船化を目指した「阪敦運河」を提唱し、38年に貴族院で採択されたが、折からの日露戦争で事業化されなかった。大正12(1923)年には源之助の遺志を継いだ幸三郎が4,000t級の軍艦が通航できる「阪敦大運河計画」を提案、昭和8(1933)年には琵琶湖疏水を建設した田辺 朔郎が閘門水路方式で敦賀〜塩津間に幅員85m、水深10mの運河を掘削して10,000t級の汽船を通すアイデアを披瀝したが、いずれも日の目を見ることはなかった。10年には、谷口 嘉六と宮部 義男が、艀(はしけ)を列車に乗せて3kmのトンネルで深坂峠を抜けるとする「はしけ鉄道計画」を提示して注目された。現在のコンテナ輸送にも通ずるユニークな発想だったが、これも太平洋戦争の戦局悪化により立ち消えになった。戦後では、37年に大野 伴睦自民党副総裁や平田 佐矩四日市市長らが公表した、敦賀〜塩津間と姉川〜揖斐川間に運河を建設して日本海と伊勢湾を結ぶ「日本横断運河計画」について、調査に国費が充てられたが、主唱者の相次ぐ死去と経済効果に対する疑問などから実現しなかった。
 平 重盛の予言は今日に至るも覆えされていないのである。
在の疋田舟川は、平成9(1997)年度から県の「地域用水環境整備事業」により整備されたもの。廃絶した後の舟川は部分的に農業用水として使用されていたのだ。老朽化した護岸の機能改善とともに江戸時代の面影を復元する整備を行い、16年に完成した。道路の拡幅により元の幅員の9尺(約2.7m)は保たれていないが、右岸側の石積みは当時のままのものということだ。2箇所のポケットパークが整備されて、歴史を紹介する展示が行われている。舟川に沿う旧街道に面する家々は特別な修景がなされているわけではないが、全体として宿場町の面影はよく保たれている。
(2015.04.21)

(参考文献) 「福井県史 通史編3 近世一」(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-02-05.htm)

1) 敦賀と海津の間の距離が七里半(約30km)であったことによるという。実際の距離は25kmくらいと思われる。

2) 馬借は「座」を結成して諸荷物を独占的に運送する特権が与えられる一方、幕藩の使者などを無償で送達する「伝馬の義務」が課されていた。

3) いずれも馬借の補助的な役割を担ったもので、平馬は臨時に課役に応じる馬、背持は人が背負って運ぶもの。

4) 寛永元(1624)年に若狭国主 京極 忠高に敦賀郡が加増され、以後敦賀郡は小浜藩に属した。

5) 幕末の不穏な情勢にあって藩は警戒を厳しくしていたところ、慶応2年8月7日に、折からの豪雨で鳩原にあった屯所が裏山の土砂崩れで崩壊し農兵17名が死亡するという事件があった。これにちなんでこの豪雨水害を鳩原水害と呼ぶ。