宝ヶ池の潅漑システムが作った強固な結束

奥に京都国際会館、遠方に比叡山を望む宝ヶ池
 今はほぼ全域が住宅地に変わっているが、京都市左京区の松ヶ崎地区はかつては「松ヶ崎浮菜かぶ」などの京野菜の産地として知られていた。しかし、その陰には定常的な生産を維持するための潅漑用水確保の労苦があったのである。今回は、松ヶ崎村の水争いの歴史を顧みつつ、その解決策として農民が自費で築いた宝ヶ池をご紹介する。

戸時代の京都では、庶民の食生活はそれまでとは格段の充実を見たようだ。副菜の消費が増えて、近郊の農村から蔬菜類が届けられるようになった(その主なものは今も「京野菜」として知られる)。水稲の栽培に多量の水が必要なことはよく知られているが、蔬菜の多くはもっと水を必要とする1)
図1 現在の井出ケ鼻井堰、水門は洪水防御のため高野川の水位が上がると自動的に閉じるようになっている
近郊農業が盛んになるとともに農業用水の需要が増大し、村々の水争いが顕著になった。
 京都の北に位置する松ヶ崎村は、高野川を挟んで対岸の一乗寺村と水争いを続けていた。もともとは、松ヶ崎村は現在の叡山電鉄宝ヶ池駅付近の右岸側に設けた「井出ケ鼻井堰」から、一乗寺村はそれより下流から取水していたが、寛文13(1673)年、一乗寺村は井出ケ鼻井堰より500mほど上流に「太田井堰」を新設してそこから取水するようになった。こうなったことについて、石川 丈山2)が関係しているというおもしろい逸話が残されている。丈山は松ヶ崎に隠遁の地を求めていたが、村人は彼が来るのを好まずそこに墓石を運び込んで墓地にしてしまった。やむなく丈山は一乗寺に居を構える。今の「詩仙堂」である。松ヶ崎村を快く思っていなかった丈山が、一乗寺村と松ヶ崎村の水争いに際して一乗寺村の訴願に助力してこれを実現させ、太田某が工事を指揮して井堰を建設することになったということだ。現在の太田川は、叡山電車三宅八幡駅付近で高野川の左岸から取水し、修学院離宮の西を南流して音羽川を越えて一乗寺に入り、その後は暗渠になるので詳細は不明ながら最後は出町柳駅付近で高野川に戻る。  
 太田井堰ができると、高野川右岸ではいっそう水不足に苦しむようになり、左岸側との争いが激しくなった。記録に残っているだけでも延宝5(1677)年、天和2(1682)年、貞享3(1688)年、元禄3(1690)年、同9年、同10年、元文4(1739)年、宝暦2(1752)年と争議が続いている(京都市「史料京都の歴史 第8巻」(平凡社)による)。その直接の原因は、太田井堰が水を取り込みすぎるのに立腹した右岸側の村が太田井堰を崩したり井堰の付近の水流を変えたりしたことがほとんどで、その都度 奉行所は、左岸側の村には下流に水を流すように、
図2 松ヶ崎にくまなく張り巡らされていた水路
右岸側の村には井堰を妨害しないようにとの裁きを下している。
のような不毛な争いを解決する方策を松ヶ崎村では考えた。松ヶ崎の農地は松ヶ崎山の南に広がるのが大部分である中で、北側の山麓にも少しの田圃があり、しかもこれは深田(ふけだ、湿田のこと)であったので、ここを農民の負担によってため池に改築することにしたのだ。宝暦13(1763)年に代官に願い出る。許しを得て建設したため池は土堤の高さが12尺(約3.6m)という小さいものだったが、安政2(1855)年に拡張して現在の大きさになった。当初は「北浦溜池」あるいは単に「溜池」とよんでいたようだが、今は「宝ヶ池」と呼ぶ。水不足に苦しんでいた農民にはこの水が宝のように思われたから、という説明をよく聞くが、宝暦年間にできたものだからという説もある。明治44(1911)年に発行された「愛宕(おたぎ)郡松ヶ崎村史」に「宝池」という名称が使われているのが初見だという。
 池で蓄えられた水は、いったん岩倉川に流して井出ケ鼻井堰で取水し、その後北東から南西にかけて緩やかに傾斜する地形を利用して、たくさんの水路に分かれて条里制3)の区画を残す田圃をくまなく潤す。松ヶ崎村では灌漑用水の利用について厳しい決まりを作っており、選任された「水役」が水を公平に分ける業務を行なった。「火小屋4)」に水を配給する順番を書いた帳面を作りおいて、それに合わせてそれぞれの田圃の取水口を操作するのだが、操作できるのは水役だけという取り決めであったから、水役は村内を巡るのに大変忙しく、2回勤めると身代(しんだい)を潰すとまで言われた。
図4 かつては各戸にあった 「使い場」
図3 松ヶ崎の集落を流れる前川
 宝ヶ池から流れ出る水は、灌漑用であることはもちろんだが、集落の中を流れる前川などでは共同利用できる水車があって各戸が精米に利用したりした。また、家々には川に面して一段低くなった「使い場」があり、洗濯・洗面や野菜洗いなどに使われた。松ヶ崎では集落の東には井戸が1本しかなく、これを飲み水として使ったので、生活のさまざまな場面で川の水が重要な役割を果たした。
図5 松ヶ崎東町にある井戸、大正2(1913)年に当地に上水道が引かれるまで地区の唯一の飲み水に使える井戸として機能した
 なお、上述のような水環境は、松ヶ崎村の強い結束をもたらした。一村を挙げての日蓮宗転向や「松ヶ崎定法5)」に基づく自治などにそれが現れている。現在では、地区の水路は潅漑としての用途のほか防火用水や環境用水としての意義が大きいので、水役(昔からの農家 約20戸が交代で務める)のほか松ヶ崎消防分団、「おやじの会6)」などが協力して管理している。地区の自治は健在である。
ヶ池は昭和6年(1931)年に松ヶ崎村が京都市に編入されると同時に市の所有となった。17年に公園計画が策定されるも戦争により中断。戦後の23年に総合公園の建設計画が出され、進駐軍に接収された動物園の移転と野球場建設が予定される。しかし、建設中の野球場は公営の宝ヶ池競輪場に変えられ、24年から34年までの間、競技が開催されていた。35年、国立京都国際会館の建設をきっかけに、宝ヶ池を中心として雑木林や草原、河川などの地形や自然を利用した公園整備が大幅に進んだ。競輪場は「子どもの楽園」になり、池の周囲には自然林を生かした「憩いの森」、「桜の森」、「野鳥の森」が次々に整備された。現在の宝ヶ池公園は、開園面積約62.7haの市内唯一の広域公園で、遊覧ボートが楽しめるほか、池畔でジョギングなどをする人も多い。ウメ・ヤマザクラ・ハナショウブなどが美しく、夏にはホタル、冬には多くの水鳥が見られる。身近に自然にふれあえる公園として市民の人気が高い。
(2015.06.22)
(参考文献) 松ヶ崎を記録する会「松ヶ崎」(松ヶ崎立正会)

1) 作物の要水量(乾重量1gの作物を生産するために植物が吸収する水の量(g))は、水稲(296)よりも、煮物や漬物に多用されるハクサイ(329)、ナス(423)、キュウリ(765)などが大きく、豆腐や湯葉の原料なるダイズ(584)も遙かに大きい。(加藤一郎ほか「作物の水分消費特性に関する研究−各種作物の要水量について」(日本作物協会「日本作物學會紀事 38(別号1)」所収))

2) 石川 丈山(天正11(1583)〜 寛文12(1672)年)は、もとは徳川家康に仕えた武士であったが、「大坂夏の陣」の後 京都北郊の一乗寺に構えた「詩仙堂」に隠棲して丈山と号した。漢詩に優れ、書道、茶道、作庭も得意とした。

3) 松ヶ崎周辺では条里制の痕跡が見られるといい(京都市「史料京都の歴史 第8巻」(平凡社))、現在も「六ノ坪町」という地名が残る。

4) 6月15日から9月15日の間だけ、現在の京都工芸繊維大学の北西の角に当たる土地に建てられた組立式の小屋。水役の詰所で、田植えの規則や水を配給する順番を書いた帳面を備え、田植えの終了時刻に火を焚いて狼煙を上げて知らせた。

5) 松ヶ崎村に伝えられていた約定文書で、庄屋・一番尚・役前・中老・宮座などの村役の人数・任期・役割・報酬などを定めたもの。

6) 小学生の父親を中心としたPTA活動またはそれに準じた活動のための地域組織。全国に4,000団体ほどあると言われる。