中 之 島

阪神モダニズムを支えた「大大阪」の繁栄

現在の中之島、今でも大阪の“顔”であることは変わりない(阪神高速道路提供)
 明治末期から昭和初期にかけて、企業経営者などの富裕層が郊外に流出してモダンな生活を営んでいたことはすでに紹介したが、一方で、その間の大阪は空前の経済的繁栄を見ていた。これには第7代市長 關 一(せき はじめ)の功績が大きい。本稿では、中之島に残る名橋や名建築を手がかりに、この時代の社会資本整備と市街地景観の様相をとりまとめた。

図1 難波橋を特徴づけるライオン像
が国で最初の都市計画法規は明治21(1888)年に制定された「東京市区改正条例」であって、財源不足を理由に大阪は対象にならなかった。国の支援がない中で、大阪市は市電の敷設に伴って街路を拡幅することによって都市の近代化を進めるしかなく、こうして堺筋などの幹線街路と難波橋1)などの近代的橋梁が整備された。
 次いで、30年に西成郡の一部を併合(第1次市街地拡張)して海に面するようになった大阪市は、自力で築港事業に力を注ぐ。ここに投入された額は年間予算の20倍にも及ぶものだった。大阪港で展開されたのは主に原料を輸入して製品を輸出する加工貿易で、ために、商都として名を馳せてきた大阪はにわかに工都の色相を帯びることになる。急激な工場立地と従業員の増加により大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどに成長したが、一方ではさまざまな都市問題を
図2 大阪市域の変遷
引起こすことにもなった。
 これに対応すべく、大正3(1914)年、大阪市は都市政策の権威者として知られた官立東京高等商業学校(現在の一橋大学)教授 關 一(せき はじめ、明治6(1873)〜昭和10(1935))を助役に招聘した。これに応じた關は、その後20年余りに渡り、助役及び市長(12年に就任)として「住みよき都市」を目指して大阪市の近代化に力を尽くすこととなる。
 大阪市における都市問題は、「農村より大阪市への人口流入は特に激しく、これが周辺町村にあふれてその都市化を促し、実質上大都市としての「大阪」は法制上の市域を超えて膨張発展」
図3 東洋陶磁美術館の脇に建つ關 一の像、近くに顕彰碑もある
(大阪市行政局「大大阪市建設計画の概要」)していた状況では、市の力だけで課題を解決できる範囲を超えていた。關は、自らを委員長とする「都市改良計画調査会」を設置(6年)して市街地の再編に向けた本格的な検討を進めると同時に、それを実現させるための法律の制定を国に働きかけた。その結果、7年にまず市区改正条例が東京以外の5都市に準用することとされ、8年には「都市計画法」と「市街地建築物法」が制定されたのである2)。両法は、都市計画を「交通、衛生、保安、経済等」に関する「重要施設ノ計画」と定義し、都市計画区域を市外にも広げ、用途地域に応じた保護と規制を加えつつ、道路・上下水道・公園・一団地の住宅など18種の都市計画事業を実施することを盛り込んでいた。これを受けて、大阪市は都心部の再生を図る「第1次都市計画事業」を決定(10年)し、
図4 大阪市の人口の推移
街路や橋梁の整備を始めとする都市計画事業を進めていく。
 さらに大阪市は、「大正12年の関東大震災の経験は隣接町村に都市的施設を完補する必要を痛感せしめ」(前掲書)たとして、これらの地域を取り込んで市域を拡大したいと考えた。それが実現したのは14年。残りの西成郡と東成郡を合併(第2次市域拡張)して、大阪市は面積181.7km2、人口211万人と、東京を抜いてわが国最大の都市になる。人々はこれを「大(だい)大阪」と呼んだ。
 「大大阪」という語について、その英訳がGreat OosakaとGreater Osakaの2つがあるのに注目して、都市計画的な観点から大阪市と周辺を指した「大大阪」(たとえばロンドンの旧市街と周辺の特別区をGreater Londonと呼ぶように)という言い方が、第2次市域拡張を契機に「偉大な」という意味での使い方で市民の間に浸透していったのではないか (橋爪 節也「大大阪イメージ−増殖するマンモス/モダン都市の幻像」(創元社))と指摘されているところだが、このような語義の変転は、關が自ら誘導したものであるように思える3)
正10年にスタートした第1次都市計画事業のうちでも、最大の事業は、24間(約44m)の幅員で梅田と難波を結ぶ御堂筋の建設(15年着工)だった4)。そして、市庁舎を挟んで架かる淀屋橋(L=54.5m、W=36.4m)と大江橋(L=81.8m、W=36.4m)の架橋は、
図5 中之島に架かる橋梁と架橋年(( )は改修年)、明治・大正期には市電敷設により 昭和初期には第1次都市計画事業により 多くの橋梁が架設された
とりわけ象徴的な意味を持つものだった。設計競争で入選した作品(作者 大谷 龍雄)について、大阪市の顧問に任じられこの競争の審査も担当した武田 五一(京都帝国大学教授)の指導で実施設計が行なわれた。武田は、都市美を構成する上で橋梁と建築を統合的に考慮しなければならないと指摘しており5)、当然 両橋の設計もこの観点が重視されている。地盤が軟弱なところには不向きなのは承知の上で、
図6 淀屋橋(左)と大江橋(右)、径間数は異なるが同じ形式を採用している
「特に荘厳にして雄大なる曲線美を表はすこと」(高橋 逸夫「大阪の橋梁」(「大大阪」第15巻第9号所収))をねらって鉄筋コンクリート製のアーチ橋を採用した。鉄筋コンクリート製でありながら側面は
図7 第1次都市計画事業で架けられた肥後橋、大きな飾灯が目を引く、中央径間が鋼アーチ(出典:参考文献2)
花崗岩で処理している。
 淀屋橋のひとつ下流にある肥後橋は、大阪駅へのメインストリートに当たることから、早くも明治21年に市電により鉄橋化がなされていたが、第1次都市計画事業によりL=50.5m、W=27.3mの3径間アーチ橋に架け替えられた。中央径間は鋼アーチ橋で両径間は橋台を兼ねるコンクリートアーチ橋というおもしろい形式であった。この時、同じ四つ橋筋に架かる渡辺橋(L=80.5m、W=27.3m)も中央の2径間が鋼アーチ橋、両側の2径間がコンクリートラーメン橋という、肥後橋とよく似た形式で架けられた。なお、両橋は、地盤沈下と地下鉄四つ橋線の工事に伴って、昭和41(1966)年に現在のものに架け替えられている。
 以上の例で示されるように、第1次都市計画事業においては、橋梁の形式選定に意が用いられた。1本の街路が土佐堀川側と堂島川を渡る2本橋梁は形式の統一が図られ、河川の上下流方向に連続する橋梁は異なる形式にして変化を持たせている。
 武田の起用は、關が築いていく大大阪を構造物デザインの面から表現するに当たって大いに意味があった。大阪市の土木建築事業におけるデザイン全般について指導し、壮麗な都市美を次々と創造していく。今日ではこのような装飾は過剰な景観設計だとの指摘もあろうが、当時の高揚した市民感覚はこういうのを求めていたのである6)
図8 淀屋橋の背後に建つ旧市庁舎(出典:参考文献2)
図9 正面の外観が保存されている日本銀行大阪支店、背後に高層の庁舎が建つ
豊穣な時代であった。
に、中之島の橋梁を取りまく建築を見ていこう。まず取り上げるのは、淀屋橋・大江橋の背後に建つ「旧大阪市庁舎」。設計競技で当選した小川 陽吉の作品をもとに片岡 安らが実施設計したもの。大正7年に着工して10年に竣工し、落成を記念して大阪市歌7)が制定されている。ネオ・ルネサンス様式の荘重な建物だったが、惜しまれつつも昭和57年に解体。
 ほかにも中之島にはモダンな建築が集中している。市庁舎の対面にあるのは、明治36年に建った「日本銀行大阪支店」。銅葺きのドームを持つレンガ・石造り2階(地下1)建ての建築で、設計者は工部大学校(現在の東京大学工学部)でイギリス人教師ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852〜1920)に学んだ辰野 金吾ら。銀行らしい荘厳さを感じさせるネオ・ルネサンス様式だ。昭和57(1982)年の建替えの際に外壁保存工法によって外観を保存した。旧館内部の「記念室」などは事前予約しておけば見学できる。
 次いで紹介するのは
図10 耐震補強された大阪府立図書館
図11 保存再生された「大阪市中央公会堂」、地下の資料室は公開されている
明治37年に建った「大阪府立図書館」。レンガ・石造り3階建てで、古代ローマ建築を思わせるコリント式の柱が大胆に用いられている正面玄関は、耐震補強工事の完了を機に平成27年4月から一般の利用に供せられている。この図書館は住友 吉左衛門が大阪府に寄付したもので、設計者の野口 孫市は住友家の奨学金で工部大学校に進み辰野の教えを受けた後 住友建築部で働いていた人物。アメリカの図書館をいくつか視察してこの造形を学んだそうだ。大正11(1922)年に日高 胖の設計になる左右の両翼を増築して現在の形となった。昭和49(1974)年に、本館・両翼とも国の重要文化財に指定されている。
 その隣にあるのが「大阪市中央公会堂」。米国の多くの実業家が慈善事業や公共事業に私財を投じているのを見た北浜の株仲買人 岩本 栄之助の寄付8)によるもので、大正7(1918)に完成した。鉄骨レンガ造り3階(地下1)建ての建築で、基本設計は設計競技で入選した岡田 信一郎が行い、辰野片岡建築事務所が実施設計を担当した。大胆なアーチ状の屋根が特徴で、レンガと石と青銅の対比が美しい。平成14年に保存再生工事を終え、同年12月に国の重要文化財に指定された。
共建築に限らず、北浜や船場にはモダンな民間ビルがいくつも残っており、この時代の民間の蓄積の大きさを知らされる。大阪には大きなビジネスチャンスがあったので多くの実業家の参入と台頭が見られた9)。紡績を中心に毛織・モスリン・メリヤスなどの繊維工業、鉄工・発動機などの機械工業、セルロイド・製薬などの化学工業が繁栄を見せた。また、このころ急速に浸透しつつあった生活の洋風化にうまく対応した、パン、キャラメル、ワイン・ウィスキーの製造業や呉服商から発展した百貨店が成功を収めた。
 ただし、大大阪と呼ばれた大正から昭和初期、経済は右肩上がりを続けたわけではない。昭和4(1929)年10月のウォール街に始まる世界恐慌の波と折からのデフレ政策が重なって未曾有の恐慌に見舞われ、その後の2年間で大阪の工業生産額は32%も減少して街には失業者があふれ労働争議が激化したが、このような不況のどん底で勃発した満州事変で大阪の経済は急カーブを描いて上昇するというように、大きく浮沈を繰り返した。しかし、ビジネス環境の備わった大阪では、このような経済変動もが一つのビジネスチャンスとなって、新たな実業家を生んでいった。ここに大阪の活力の源泉があったのである。
 關は、御堂筋を始めとする街路・橋梁や地下鉄の整備、大阪港の整備などの社会基盤施設の拡充を進めるとともに、本稿では触れなかったが、市営住宅・公設市場・「市民館」の建設など日本一と評された社会事業にも力を注ぎ、義務教育の機会均等を図り、煤煙防止などの公害対策にも取り組んだ。それだけの深刻な問題を孕んでいたからである。とは言え、大規模な社会資本整備を行って民間の経済活動を活性化させ、その余剰を環流させて良質な社会資本を充実させるという好循環を形成した手法は、今 改めて注目されるべきではなかろうか。
 關の業績をもう一つ紹介しよう。大阪城天守閣の再建(昭和6年)である。彼の発案は熱狂的な賛同をもって市民に迎えられ、目標とした寄付額150万円(現在価格で約30億円)は半年ほどで達成して、当時としては最新の鉄筋鉄骨コンクリート造、地上55mの高層建築を完成させた。その内部を歴史博物館として利用して、文化都市の面目を整えることにも成功している。

(参考文献)
1.芝村 篤樹「都市の近代・大阪の20世紀」(思文閣出版)
2.松村 博「大阪の橋」(松籟社) 
(2015.03.20) (2015.04.12)


1) 難波橋(L=187.15m、W=21.8m)は、大正4年に堺筋を走っていた市電が天六まで延伸されるのに際して、難波橋筋から堺筋に位置を変えて架橋された。この橋は、市章を埋め込んだ高欄や華麗な照明灯を有し、親柱には阿吽の口型をしたライオンの彫像を置くという、きわめて装飾的なデザインとなっている。さらに上流側の歩道から公園に降りる石造りの階段が設けられており、中之島公園との関連を強く意識して設計されたことが伺える。

2) 關は、都市問題の調査・研究期間として「大阪都市協会」を設立し、同協会が主催して「第1回全国都市問題会議」(昭和2年)を開くなど、都市政策について全国に向けて情報発信する立場にあった。法の制定に至ったのは關の影響力が大きいといわれる。なお、大阪都市協会は、月刊誌「大大阪」、「大阪人」などの刊行物の発行や文化活動の支援を行っていたが、外郭団体統合の対象になって平成19(2007)年に解散している。

3) 第2次市域拡張に際して、關は「編入によって成立した大大阪の面積の広きことや、人口の多きことを誇るべきでない。この自由なる進取的の企業精神を活動せしむる根拠地として大大阪を完成すべきである」(「大阪の現在及将来」(大阪毎日新聞社「大阪文化史」所収)と述べており、大阪市の活力あるさまを指して「大大阪」という語を用いているようである。

4) 併せてその路下には地下鉄が建設(昭和5(1930)年着工)された。心斎橋駅・淀屋橋駅・梅田駅では高い天井と柱のない広い空間に豪華な見栄えの照明を設置しているが、この設計も武田 五一が指導した。

5) 武田は、橋梁のデザインと周囲の建築物の関係について、「橋の計畫には先ず以て都市の他の建造物等との調和と云うことを考えなければならない」(「橋梁の外観」(「土木学会誌」第15巻第5号所収)とし、具体的には「橋の方が建築物より先に出来た(中略)際には橋の形の意匠を附近建築物の標準として将来役立たしめると云う程の信念を持って計畫(中略)、橋の附近に大建築が壓倒的に存在してゐる場合には(中略)橋と建築物とを一と調子に溶和する」(「大阪の橋の美」(「大大阪」第6巻第5号所収)と述べている。

6) 武田の指導を受けて大阪市の橋梁に携わった元吉 勲は、大江橋の意匠について述べる中で「公の建造物をやるときには、それだけ社会の通念を尊重する態度が絶対に必要」(「橋梁意匠五十年」(「大大阪」第15巻第9号所収))としつつ、原案から橋頭堡を削除したことを指摘して、これが必要最小限の装飾だったという認識を示している。

7) 森 鴎外や幸田 露伴を審査員に招いて歌詞を公募し、入選した堀沢周安の作品に、東京音楽大学の中田 章が作曲したもの。「1.高津(たかつ)の宮の昔より よよの栄えを 重ねきて 民のかまどにたつ煙 にぎわいまさる大阪市 にぎわいまさる大阪市 2.なにわの春の朝ぼらけ 生気ちまたにみなぎりて 物みな動くなりわいの 力ぞ強き大阪市 力ぞ強き大阪市 3.東洋一の商工地 咲くやこの花さきがけて よもに香を送るべき 務めぞ重き大阪市 務めぞ重き大阪市」

8) 昭和5年の株価大暴落に失意してピストル自殺を図り、公会堂の完成を待たずに亡くなったという岩本の逸話は著名である。

9) 明治から大正にかけての主な起業家として、山辺 丈夫・菊池 恭三(紡績)、嘉門 長蔵(メリヤス)、岡島 千代蔵(モスリン)、久保田 権四郎(鉄工)、山岡 孫吉(発動機)、広瀬 高治(セルロイド)、森下 博(製薬)、中山 太一(化粧品)、松下 幸之助・早川 徳次(家電)、鳥井 信治郎(酒造)、桐山 政太郎(製パン)、小林 一三(電鉄)、大林 芳五郎(建設)、伊藤 忠兵衛・金子 直吉(商社)、安宅 弥吉(貿易)、野村 徳七(証券)、山口 吉郎兵衛(銀行)など、著名な人物は枚挙にいとまがない。