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寺」の地名は、正平年間(1347〜1370年)に三光国師が建立した大雄寺が、吉野山日雄寺の「山寺」に対してこちらが「浜寺」と呼ばれたことに由来する。堺市南西部から高石市にかけて広がる。この地域の古称は高師(たかし)あるいは高磯(たかし)といい、渡来氏族の高志(こし)氏が拠点を置いていたことに関連するとされる。瀬戸内海の波が打ち寄せる砂浜とそこに茂る松林が美しいところとして高名で、「沖つ浪
高師浜の 浜松の 名にこそ君を 待ち渡りつれ」(紀 貫之)、「あだ波の たかしの浜の
そなれ松 なれづばかけて 吾恋ひめや」(藤原 定家)など数々の名歌の舞台にもなった。
浜寺の松林は付近の農民が防潮林として保全していたそうだが、明治維新によって失職した武士の救済のために開墾されているのを見た大久保 利通が、「音に聞く 高師浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と嘆いて直ちに伐採を禁じて保護を命じたという逸話がある(浜寺公園にある「惜松碑」による)。こんな顛末があったので、明治6(1873)年、「古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊観ノ場所」を「永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定」とする太政官布告が出されると、大阪府はいち早く公園の設置を申請し「浜寺公園」の開設が認められた。わが国で最初の公設の公園である。
21年には海水浴場と「海浜院」という逗留施設が公園内に開設された。海水浴は、横浜居留地において慶応元年(1865)年に始まったというが、わが国においてはこれが傷病の治癒や健康の保持及び公衆衛生の増進に効果があると紹介され、上流階級を中心に健康法としての海水浴が普及しつつあった1)。海浜院は、府民の保養や英気涵養を図る“共同別荘”で、当時の大阪府知事
建野 郷三が大阪病院長 吉田 順三らの協力を得て設置したものだ(しかし、まもなく建野が更迭された後は、「海浜院」は民間に払い下げられて料理旅館に改装された)。ただし、
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図2 明治末期の浜寺公園 |
これ以外にさしたる施設はなく、浜寺公園は、健康によい閑静な保養地としてのイメージが強かった2)。
ころが、明治30(1900)年に佐野まで開通した南海鉄道が公園の正門に対峙して浜寺駅を設けたのを契機に、浜寺の優れた環境は多くの人を引きつけるようになり、この地は大阪の近郊リゾートとしての性格を強めていく。海水浴客や「羽衣松」・「白龍松」などの名松を巡る遊覧客の中には宿泊を求める者も多かったのであろう、公園には料亭・旅館がたくさん建てられた(このような公園の利用法は現代と大きく異なるところである)。「寿命館3)」・「一力楼」・「丸三楼」などの料亭・旅館では、松林の景観や大阪湾の眺望を楽しみつつ、
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図1 座敷や庭園が見える浜寺公園の光景(出典:橋爪 紳也「なにわの新名所−都市絵はがきI」東方出版) |
詩歌・謡曲・歌舞・書画などに興ずる催しが盛んに開かれた。また、これらの料亭・旅館は、大阪や堺の紳商たちの酒席の場としても大いに賑わった。
この時期、浜寺の歴史と観光を紹介する「浜寺公園誌」(圖南居士、36年)が刊行されている。これを企画したのは第11代府知事
菊池 侃二。
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図3 浜寺を高名にした「松乃浜寺」(左)と「浜寺公園誌」 |
彼は公園内に自宅を構え(個人の邸宅や別荘が建っていたこともこの時期の公園の特徴である)、朝夕に散歩して浜寺の風光に魅せられており、これを広く紹介したいと考えたのだ。その翌年には吉弘
白眼が「松乃浜寺」を著している。これは、言論人たる著者が、風光明媚や文化的教養を持つ人々との交流という郊外生活の良さを啓蒙することを使命と感じて書いたというもの。これらの図書が発行されて以後、浜寺は財界人の別荘4)や著名人の居住地としてさらに高名になった5)。 |
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図4 独自の泳力別指導で評判を呼んだ浜寺水練学校、「国民皆泳」が叫ばれた 戦前には生徒数は1万人を超えた(出典:毎日新聞大阪本社「毎日新聞浜寺水練学校80年史−1906〜1986」) |
39(1906)年、南海鉄道から依頼を受けた毎日新聞は、公園の砂浜に海水浴場を開設した。その盛況ぶりを紙面に掲載するや遊泳客はますます増加し、たちまちのうちに浜がごった返すほどの人気を博した。南海も往復割引切符を売り出して乗客集めを図った。多い日には2万人を超える遊泳があったという。水面を3つに区切り、ひとつを男子海水浴場、ひとつを婦人海水浴場とし、もうひとつを「海泳練習場」として泳法の教授にあてた。爾来100年以上の歴史を誇る「浜寺水練学校」の前身である。また、毎日新聞は、気球・飛行船の実演、花火大会、盆踊り、学生相撲大会、ヨット競技会などのイベントを盛んに開催した。
公園には公会堂、運動場、庭球場、テント村などが建設されて、海浜公園としての施設の充実が図られた。600人収容の「浜寺公会堂」(41年竣工)の白亜の洋館では、活動写真の映写や浄瑠璃・琵琶などの演奏会が開かれた。また、41年に開かれた「全国中等学校庭球選手権」によって、浜寺はテニスのメッカとして名を馳せることになる。
このような旅客の増大に伴って、南海鉄道は、40年には難波〜浜寺間を電化し、同時に諏訪ノ森駅を新設し浜寺駅を建替えて(「辰野片岡建築事務所」の設計)浜寺公園駅と改称している。次いで、大正元(1912)年には、恵美須町を起点に路線を延ばしてきた阪堺電気軌道が開通し、浜寺公園駅と浜寺公園の間に割り込むような形で浜寺駅前駅を開設した(同年、約200m延伸して浜寺終点駅を公園の中に設けているが、あまり利用がなかったようで6年に廃止)。和歌山まで走る長距離列車が混在してダイヤに制約を受ける南海鉄道を尻目に、阪堺電気軌道は電車を頻発させて利便を図った。窮地に陥った南海鉄道は、逆に阪堺電気軌道を併合する作戦に出て、4年に合併を果たした。また、同社は、浜寺公園の南部にアクセスする高師浜線を8年に開通させた。海水浴客で混雑するときには、難波〜高師浜間に直通電車を走らせたという。さらに、高速運転で南海鉄道に対抗しようとした阪和電鉄(現在のJR阪和線)は、昭和4(1929)年の部分開通に際して、南海鉄道の羽衣駅に隣接する阪和浜寺駅(現在の東羽衣駅)に支線を引き、天王寺までノンストップ14分で運転するなどして旅客の争奪を繰り広げた。やや遅れて10年には阪堺電鉄(阪堺電気軌道と紛らわしいため「新阪堺」と通称された)が芦原橋から浜寺まで全通させた。
道の整備は、浜寺が大都市近郊の住宅地として発展する可能性を付与した。明治の終わりには浜寺公園に建つ別荘や邸宅は30戸ほどだったが、これが大正の半ばには130戸ほどに達し、
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図5 浜寺土地の開発地では今でも土蔵のある住宅が目立つ |
松林の景観を損なうことが問題とされるまでになっていた。
別荘・邸宅用地の需要に対応すべく、大正7(1918)年、周辺の地主たちが共同して「浜寺土地」という会社を設立して住宅地の開発に乗り出した6)。浜寺公園駅の東に隣接する耕地3万7,000坪(約122,300m2)が対象で、これは現在の浜寺昭和町4丁と5丁に当たる。販売期間が大正8年から昭和12年の18年間に及ぶ、ゆっくりとした開発であった。道路や水路を整備し、92〜215坪の面積を持つ約150区画を販売した。そのうちほぼ半分は会社が家屋を建築したが、同一の設計のものは全くなく、建蔽率(けんぺいりつ)7)が平均27%というゆとりある建物配置であった(参考文献2)。また、ここでの建築の特徴として、土蔵の存在を挙げることができる。富裕層向けの別荘には、趣味の書画や陶磁器・着物を収納する土蔵は不可欠のものだったらしい。
大正12年に都市計画法が堺市に適用されて同法に依拠した開発が可能になったのを受けて、昭和5(1930)年に「浜寺土地区画整理組合」が設立された。組合の事業地は浜寺諏訪森町東3丁から浜寺元町6丁までの広い範囲に及び組合員数は227人を数えたが、組合長・副組合長は浜寺土地の役員と同じ顔ぶれであり、仮換地処分の後の建築や販売は会社が行うなど、両者は緊密な関係にあった。また、事業途上の8年に、組合は「好マシイ現状ヲイツ迄モ保護シ(中略)理想的ノ住宅地ヲ建設シタイ」(都市計画大阪地方審議会議事速記録(第50回))として、前年に制定された「空地地区8)」の適用を申請している。申請において組合は、分譲する土地の最低面積を土地所有者が申し合わせていると述べて、良好な住環境を作る熱意を示した。大阪府で審議の結果、組合と浜寺土地の施行地を含む10万2,000坪についてわが国で最初の指定を見た。このようにして、浜寺は高級郊外住宅地としての歩みを確実なものにしていくのである。
なお、浜寺では、当地に縁のある人の親睦・交流団体である「清風会」が組織され、個人の邸宅を会場にして茶会・歌会などを催す「清風雅會」が開催されている。また、清風会は地域の環境整備にも熱心で、道路に桜を植えたことが知られる9)。
好な住宅地が付近で供給されるようになったことから、浜寺公園にあった別荘や邸宅は順次
移転の措置がとられ、そこに公園施設の整備が進められた。が、多分に漏れず、その後の浜寺公園は試練にさらされる。太平洋戦争の勃発とともに、燃料用の松根油を採るために松林は荒廃。戦後は米軍に接収され、住宅・チャペル・シアターなどのために2,000本近くの松が伐採された。昭和33年に接収が解除されたが、こんどは泉北臨海工業用地の造成のために37年より沖合で埋立が開始され、海岸の代替としてプールが開設された。水練学校もプールに移った。
これほどの大きな環境変化にかかわらず、現在は、周到な手入れの甲斐あって園内の松林は健全に保たれており、バラ園・交通遊園・軟式野球場・テニスコート・児童遊技場などを備えた総合公園として、
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図6 駅舎として最初10)に登録有形文化財になった浜寺公園駅の西駅舎、白い塗装が海辺のコテージを連想させる |
年間約230万人の来園者を迎えている。
んな浜寺の歴史を100年以上も見守ってきたのが浜寺公園駅。ハーフティンバーの引き締まった壁面と、軒や柱に施された優美や装飾がほどよい対照を見せている。平成10(1998)年に登録有形文化財に指定、12年に「近畿の駅百選」に選定された。付近では連続立体交差事業が進んでおり駅舎の存廃が危ぶまれたが、堺市が18年度から市民や学識経験者を交えた検討を行った結果、この駅舎は少し移動して保存されることになった。構内には、難波〜浜寺間が先行的に電化されたことに由来すると思われる4番線の配置や、米国カーネギー・スチール社の刻印が入ったレールを転用したホーム上屋など、
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図7 東改札口のモダンな壁面 |
見所が多い。
横断地下道をくぐると、浜寺土地の開発地に面した東改札口。ここにある駅名のフォントは、この地にも寄せた阪神モダニズムの波を留めているように見える。駅から続く住宅地は、適度に狭い道路に生垣や板塀をめぐらせた住居が並ぶ落ち着いた町並みであった。マンションなどが建てられない第1種低層住居専用地域に指定されていて、浜寺公園の開設から続く歴史の中で育まれた独特の高級感は未だ失われていない。しかし、一部で敷地が分割されている例があり、分譲当初の組合の意志の継承は完全ではないように思えた。 |
(参考文献)
1. 多治見 左近ほか「堺市浜寺地区の郊外住宅地形成−浜寺土地株式会社による住宅地開発を中心として−」(「日本建築学会計画系論文報告集第436号」所収)
2. 吉田 高子「堺・浜寺別荘住宅地開発−住宅地とその屋敷地構成」(日本生活文化史学会「生活文化史第52巻」所収) |
(2015.02.09) |
1) 大阪においては、浜寺での開設と同時に大浜や天保山でも開設されている。
2) 浜寺公園の南端には「石神病院」が開設されている(明治35年)。結核専門の病院で、多くの独立家屋の病室に患者が滞在療養していた。院長の石神
亮(安政4(1857)〜大正8(1919)年)は、医学者の立場から患者の療養環境に関心を持ち、浜寺の気候を観測するため独自に測候所を開き、データを「浜寺之気候」にとりまとめている
3) 公園に立地する料亭・旅館のうちでもとりわけ風趣のある施設として文人に重用されていた。なお、明治33年8月、堺市出身の歌人 鳳(ほう) 晶子は、来阪した与謝野 鉄幹を北浜の平井旅館に訪ね、翌日に寿命館で開かれた歌会に出席したことがきっかけで、鉄幹との関係を深めたとされる。
4) 浜寺に別荘を持つことは富裕のシンボルであったらしく、谷崎 潤一郎の「細雪」にも全盛期の蒔岡家が浜寺に別荘を所有していたという設定がある。なお、谷崎は、いわゆる「細君譲渡事件」のあと密かに「一力楼」に逗留しており、浜寺の地をよく知っていた。
5) 明治39年に大阪上本町から浜寺に居を移した片岡 安(やすし)(明治9(1876)〜昭和21(1946)年)は、「余の住居について」の中で「住居を都会の真ん中に選ぶ事は、今日では時代遅れとなっているが(中略)浜寺はその時代の地相が健康に適し光線、通風、井水ともに清浄を極め海水浴に便であった」と述べており、浜寺が健康によい土地として好まれていることがわかる。一方、「その頃電灯もなく電話も開通していない純然たる田舎の生活だった」とも記しており、住宅地としての基盤が未整備であったことも知れる。片岡は、東京帝国大学造家学科を卒業後、辰野金吾と組んで「辰野片岡建築事務所」を設立し、北國銀行京都支店、大阪中央公会堂、旧大阪市庁舎などの設計に携わった。関西建築協会の初代理事長を務め、大阪市都市改良計画調査会委員として都市計画に関与したほか大阪商工会議所会頭にも任じられている。また、「清風会」(後述)にも名を連ね、地域の要人として遇せられている。
6) 当地に工場が進出する動きがあり、清浄な環境の保持を希望する地主らがこれを憂いて、郊外住宅地の実現を期すために設立した。
7) 敷地面積に対する建築面積の割合のこと。
8) 7年2月に改正された市街地建築物法施行令により都市計画に定めることとなっていた制度で、建築物の敷地に存すべき空地の最少限度を定めるもの。本件では最少空地率を60%としている。組合がこのように都市計画法制度に敏感に対応しているのは、都市計画に詳しい片岡の関与が想像されている。なお、土地の用途に応じて敷地に適切に空地を確保するという考え方は、現在の都市計画において、用途地域別に建蔽率を定める制度に踏襲されている。
9) この桜は現在ではみられないが、「桜道」の呼び方が残る。
10) 隣接する諏訪ノ森駅の西駅舎も同時に登録されている。
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