京都電気鉄道と京都市電

近代的な市街地整備に果たした路面電車の役割

梅小路公園を走るN電の車両
 わが国で初めて電車が走ったのは、琵琶湖疏水が引かれた京都の街だった。これを敷設した京都電気鉄道は、都市交通機関として華々しいスタートを切ったが、やがて市電に買収されることになる。本稿では、市電網の整備手法との対比を通じて、先駆者たる同社の限界について考える。

米の諸都市では、都市交通として馬車鉄道が使われた時代があった。しかし、これは給餌や屎尿の処理などの問題があったため、ジーメンス(Ernst Werner von Siemens, 1816〜1892年)により電気機関車が発明される(1879年)とまもなく路面電車が生まれた(1881年、ベルリン)のだが、本格的に普及するのは、スプレイグ(Frank Julian Sprague、1857〜1934年)が発明したトロリーポール式の路面電車が1888年にリッチモンド(アメリカ・バージニア州)で成功を収めてからだ。これをわが国に移入したのは、明治23(1890)年に上野公園で開かれた第3回内国勧業博覧会に出展されたのを最初とするが、一般営業用の電車が開業したのはその5年後の京都においてである。
 この時期、京都では、琵琶湖との間の舟運や水車の動力を利用した工業を興すこと等を目的として、田辺 朔郎を主任技術者とする琵琶湖疏水(18年着工)の建設事業が進んでいた。その途上にあった21年、上下京連合区会(現在の京都市会に当たる)は議員 高木 文平(天保14(1843)〜明治43(1910)年)と田辺を疏水の調査のためにアメリカに派遣することを決議する。高木は北桑田群神吉(かんき)村の富農の家に生まれ、地元で学校教育に携わった後 実業界に転じて京都で活躍し、15年には京都商工会議所を設立し初代会頭を務めていた人物。2人は直ちに渡航して各地を視察したが、コロラド州アスペンで開業した水力発電所を見て、水車動力に替えて水力発電を疏水事業に導入することを決意した。こうして、計画に修正が加えられた琵琶湖疏水は23年に通水。わが国で最初の水力発電所である蹴上発電所は翌24年から送電を開始している。
 東京奠都の沈滞を打開したい京都の政財界では「平安遷都1100年に当る明治27年を期して明治天皇の行幸を仰いで記念行事を盛大に行い、併せて第4回内国勧業博覧会を京都で開催したい」という機運が高まっていた。訪米中にリッチモンドで見た路面電車に強く心打たれていた高木は、是非ともこれを京都にも走らせたいと考えた。「博覧会を契機に」と有志と諮って電気鉄道の敷設を知事に出願(25年)し、知事の諮問を受けた市会は市内における敷設を認める答申を出た。26年、天皇から博覧会を京都の岡崎で開催するとの勅令が公布されると、高木らは内務省に電気鉄道の敷設を出願し、その事業者として資本金30万円で「京都電気鉄道」(以下「京電」という)という会社を設立(27年)し、自ら社長に就任する。そして、蹴上発電所から電気の供給を受けることとして、塩小路東洞院〜木屋町二条〜寺町二条〜寺町今出川〜出町、木屋町二条〜南禅寺橋、堀川丸太町〜堀川中立売、塩小路東洞院〜伏見下油掛について特許を受けて工事を開始した。
 最初に開通したのは伏見下油掛に至る伏見線。28年2月のことであった。わが国で最初の電車である。当日は雨にもかかわらず多くの乗客が押しかけ、民家に国旗が掲揚されるなどのお祭りムードだったという。起点は、
図1 大和街道を走る開業時の伏見線、道路の東側に片寄せて敷設されている(出典:京都市交通局「さよなら伏見・稲荷線」より転載)
官営鉄道の踏切の南に設けた七条停車場(踏切南)で、ここから軌間1,067mmの単線の路線が6.4km伸びており、途中に電車が離合できる待避所が9カ所あった。運賃は1区2銭、半区1銭で、全線を乗ると6銭になった1)。当時は、京都と伏見の市街地は連続しておらず、間には農地が広がっていた。だから、伏見線は路面電車ではあったが市内電車というよりも都市間電車の趣であったろう。京電が伏見線の開業を急いだのは、淀川の蒸気船とタイアップして大阪方面の旅客を誘引しようとする意図があったからだ。七条停車場から大阪の八軒家浜まで13銭という連絡切符で官営鉄道に対抗した。
 次いで、内国勧業博覧会の開催に合わせて4月1日に木屋町線(七条停車場(踏切北)〜木屋町二条)と鴨東線(木屋町二条〜南禅寺橋)を開通させ、会場への観客輸送の任を担った(七条停車場の踏切南と踏切北の間は徒歩で乗り換えた)。開業初日の乗客は2,370人に達したという。
図2 木屋町線開通の前日の試運転、一番前の席にいるのが高木 文平(出典:京都市交通局「さよなら京都市電」転載)
博覧会は、折からの好景気もあって約112万人の入場者を集める盛況だった。

だし、京電は、技術的な未熟さからしばしばトラブルを起こした。琵琶湖疏水の藻刈り日(毎月1日と15日)は定期休業日としていたが、それ以外にも機械の故障や水位の上昇によりたびたび停電した2)。運転手の技量不足や電圧の不安定さによる立ち往生や暴走も発生した。車両は15馬力のモーターが1機ついているだけで、夏にはオーバーヒートに悩まされた。また、停留所以外でも任意に旅客を取り扱ったため、遅延も常態化していた。さらには、単線であるにもかかわらず「線路閉塞3)」の仕組みがなかったため、
図3 北野天満宮千年祭の人混みの中を走る京電、告知人の少年が電車の前を走る(出典:前掲書)
2台が線路上で鉢合わせしてどちらがバックするかで乗客まで巻き込む喧嘩もよく起こった。見通しの悪い曲線部では電車が正面衝突する事態もあったという。また、電車の直前を横断した人が轢死するという事故も起こった。
 このような危険を回避するため、電車の開業から半年ほど後の8月に「府令第67号電気鉄道取締規則」が発せられ、赤旗または赤提灯を持った告知人を乗せて雑踏などでは電車の前方5間(約9m)以内を先行させることが定められた。会社は12〜15歳の少年を調達してこれに当たらせたが、電車から飛び降りるときにけがをしたり電車に轢かれたりする痛ましい事故が相次いだ4)。そのほか、この規則では、線路に信号人を配備し、見通しの悪いカーブでは信号所を置くことを求めている。
 トラブルも多かったが利用客は順調に増加し、会社は1割の配当を行えるまでの業績を上げた。それとともに、会社は、28年9月に木屋町二条〜寺町丸太町〜堀川中立売間を開通させるなど市内線の拡充を図り、38年12月には堀川下立売〜四条西洞院〜七条停車場前間を全通させて循環運転を開始している。また、北野、出町、二条停車場に至る支線も建設して、市内をカバーする路線網を築きあげた。伏見線においては、34年4月に官営鉄道をまたぐ跨線橋が開通して木屋町線との連続運転が開始され、38年8月には稲荷線(勧進橋〜稲荷間)、大正3年3月には京橋(伏見下油掛)〜中書島間の延伸が完成している。
治維新から30年を経て、京都では琵琶湖疏水などの産業振興策が奏功して人口の増加5)や物流の増大が急速に進んでいた。京都市参事会名誉職員として無報酬で市政に参画していた内貴(ないき)甚三郎は、これに対応するために市域の拡大と都市基盤の抜本的な近代化の必要を説いていたが、31年に初代の民選市長に推挙されて自らこの事業に乗り出した。これは日露戦争に伴う経済悪化のため見送られることとなったが、戦争終結後、彼の施策は第2代市長 西郷 菊次郎に引継がれ、いわゆる京都の「三大事業」として実現への途が開かれる。「三大事業」とは、第二疏水の建設、上水道の整備、市営電気鉄道6)の敷設と道路拡築をいう。41年、平安神宮で三大事業の起工式を挙行してまず第二疏水に着手し、42年には上水道の建設、43年に道路拡築、44年に市電敷設と次々に事業を開始していった。なお、市は、道路拡築の一部7)はすでに京電が走っている区間を利用する計画であった。そこ走らせる市電について、市は軌道の共用を京電に申し入れるも、憤慨する京電は即座に拒否。困った市は、政府の裁定を申し出るという作戦に出た。内務大臣の決定とあれば京電も共用を認めざるを得なかった。
 三大事業は滞りなく進み、45年4月には蹴上浄水場から市内への給水が実現し、6月には最初の市電として4路線7.7kmが開通したのを始め、同年のうちに烏丸線(七条停車場〜烏丸丸太町)、丸太町線(千本丸太町〜烏丸丸太町)、千本大宮線(千本今出川〜七条大宮)、七条線(七条大宮〜七条烏丸)、四条線(四条大宮〜祇園石段下)、今出川線(千本今出川〜烏丸今出川)、東山線(三条東四丁〜廣道馬町)が一挙に開通した。三大事業には、第一疏水の13倍、市税収入の34倍に当たる1,716万円が見込まれていた。建設資金は国内だけでは調達できず、市は、フランスで外債を発行8)してこれを確保し、短期間で完成させたのである。京電が3間(約5.4m)〜5間(約9.0m、待避所のあるところ)
図4 拡築後の烏丸通の断面(田中尚人ほか「電気事業に着目した近代京都の街路景観デザイン」(景観・デザイン研究講演集No.1所収)により作成)
という街路を軌間1,067mmの狭軌で折れ曲がりながら走っていたのに対し、市電は原則として12間(約21.6m)以上に拡築された街路に軌間1,435mmの標準軌を敷設したので、京電の経営への影響は甚大であった。
 京都市は積極的だった。引き続いて河原町線(河原町今出川〜七条内浜)の建設や烏丸線の延伸(烏丸今出川〜植物園前)などを含む2期事業を起こして、さらなる路線の拡大を目指した。
図6 京都市電に買収される時点での京電の路線網
図5 明治・大正期における乗客数の推移
大正天皇の即位大典が大正4(1915)年に御所で行われることも追い風となった。2期事業の目玉であった河原町線は京電との競合が著しいため、市では、この機会に経営不振に陥っていた京電を買収した上で、京電の路線と置き換える形で建設を進めることを考えた。京電と市電のネットワークが併存する状態では、両路線を乗継ぐときには乗客はそれぞれに運賃を支払わなければならなかったので、これを一元化したいという思いもあった。
図7 京都駅前(左)と伏見中油掛町(右)に建つ京電の記念碑
厳しい価格交渉が続けられ一時は破綻するかとも思われたが、結局は知事の斡旋を双方が受け入れて、7年7月に京電の軌道21.1kmと車両136両はすべて市電に承継されて京電は姿を消す。
 3箇月後に開かれた統一記念宴会で関係者は京電の業績を偲んだ。会の最後で万歳の音頭をとったのは田辺 朔郎だったが、既に他界していた高木 文平の姿を見ることはできなかった。今では、伏見線の起終点に建つ2本の記念碑が、わが国で最初の電車を走らせた同社の偉業を伝えている。豊臣 秀吉の町割りをほぼそのまま残す当時の京都に路面電車を敷いた京電は、都市の発展の中で主要な交通機関としての役割を担うには限界があったということであろうか。
営化の後は、競合する路線の整理が進むとともに、
図8 京都区画整理事業の範囲と最盛期の市電網、区画整理が市電路線の外郭形成に大いに寄与した
伏見線・稲荷線は標準軌への拡幅が行われて河原町線との直通運転も開始された。なお、西洞院通・堀川通を経て北野に向かう北野線は、狭軌のまま残り古い車両が使用されたので、京電の名残を残す区間として「N電」と呼ばれて親しまれた(Nとは狭軌(narrow gauge)の意味とされる)。その後、市街地の外延化に伴って施行されたわが国で最初の区画整理事業(大正15(1926)年)に併せて、市電は白川線・北大路線・西大路線・九条線などを整備し、延長76.8kmとその最盛期を迎える。年間乗客数は2億2,000万人を越えた(昭和36(1961)年)。
 しかし、折からの自動車交通の増大により定時性の確保が難しくなった市電は次第に都市の厄介者と見られるようになり、廃止に向けた動きが加速した9)。京電が建設した路線についていうと、北野線は36年8月、伏見・稲荷線は45年4月に廃止されてバスに転換し、河原町線に組込まれて最後まで残った区間も市電全廃と同時(53年10月)に廃線となっている。
  廃止された車両は、大宮交通公園などの公園で展示されたり希望する幼稚園・自治会などに払い下がられたりしたほか、他都市の路面電車として活躍しているものも多い。
図9 市電に組み入れられた京電の路線、民家の軒すれすれに電車が走る西洞院通の北野線(左、出典:京都市交通局「さよなら京都市電」)とマウンドアップされた安全地帯のない伏見線(右、出典:参考文献2)、いずれも安全面の問題が指摘されていた
梅小路公園や明治村ではリフォームされたN電の車両が動態保存されている。
(参考文献)
1. 上京区民ふれあい事業実行委員会「上京−史跡と文化第11号」
2. 京都新聞社「思い出のアルバム−京都市電物語」
                             
(2015.01.26)

1) 明治27年には粳米1石(約150kg)7円40銭、清酒1升11銭 (http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/
rekisi/naiyou/nenpyou/nenpyou2/hitokuti/hi01/hi04.htm)というデータがあるから、6銭は1,000円余りの額に相当するかと思われる。

2) 京電は、「臨時ニ営業ヲ休止セサル可ラサルノ不幸ニ遭遇シ為ニ得ラルヘキ多額ノ利益ヲ失イタル、誠ニ遺憾トス」として京都府に火力発電所の設置を申請し、明治32(1899)年に東九条に出力75kWの火力発電所を建設した。その4年後には蹴上発電所からの電力購入を打ち切っている。

3) 線路をいくつかの区間(「閉塞区間」という)に区切り、1つの閉塞区間に2本以上の電車を進入させないように管理すること。単線の鉄道では、待避所と待避所の間を1つの閉塞区間とする。現在では信号機により閉塞するのが一般的であるが、1つの区間に1つしか発行しないスタフまたはタブレットを持つ電車だけが進行できるというルールで閉塞を確保する例もある。

4) 告知人の仕事は重労働であった上に危険でもあったので、31年9月にまず夜間の告知人が免除となり、37年11月の規則改正で告知人の設置はなくなった。

5) 明治6(1873)年には江戸後期に比べ10万人少ない23万8,000人だったのが、32年には36万人近くまで増加している。

6) 当初は、街路拡築費用の一部負担などを条件に、電車網の整備は民間に行わせる予定であったが、参入を希望する者が京電のほか多数に上ったため、路線網の一元的な運営の観点から、市営の方針に転じたという。この時点で将来の京電の買収を決意していたともいわれる。なお、京電は、旅客の増大への対応と市電の進出に備える意味で、出町線を除く全路線の複線化(明治41・43年)と、車両の大型化・馬力強化(明治38〜大正2年頃)を行っている。

7) 図6に示された四条通(四条堀川〜四条西洞院)、七条通(七条東洞院〜七条内浜)、丸太町通(烏丸丸太町〜寺町丸太町)、烏丸通(烏丸丸太町〜烏丸下立売)のほか、今出川通(寺町今出川〜河原町今出川)、河原町通(平居町〜七条内浜)の6区間。共用区間では、市電と京電の軌間が異なるので三線軌条とした。右図は四条西洞院付近の三線軌条(出典:参考文献2)。

8) 外債の返済資金として市電の収入が見込まれていた。市電は、営業開始の明治45年には年間利用者は1,139万人にすぎなかったが、翌年には倍増するなど次第に乗客数を伸ばし、その結果、外債は償還期間の30年を繰り上げて返済することができた。

9) 昭和37年3月の参議院予算委員会で、時の運輸大臣は「できるだけ路面電車はなくしていきたい。しまいには皆無にいたしたい」と答弁している。