県土と人心の一体化を託した車道 (春日野道)

内側に倒れ込むような断面の金ヶ崎隧道
 福井県が近畿なのか北陸なのかというのは、場面によってさまざまだ。国の出先機関の管轄範囲を見ても福井県の扱いは見事に分かれている1)。それは恐らく福井県が明治時代に越前と若狭を統合して成立したことと関係するのだろう。本稿で紹介する春日野道は、そんな福井県において県土と人心の一体化を目指して建設されたものだ。




井県は日本のほぼ中央に位置する、面積4,190km2(全国の都道府県中34位)、人口789,900人(平成26年(推計)、同43位)を有する県。むかしの越前国と若狭国を合わせたものだが、決して大きな県ではな
表1 福井県の県域が現在のものに定まるまでの経緯
明治 4年 7月 廃藩置県により若狭国と越前国のエリアに7つの県を設置
     11月 福井県と敦賀県に統合
     12月 福井県を足羽県と改称
明治 6年 1月 足羽県を敦賀県に編入
明治 9年 8月 敦賀県を分割し、嶺南を滋賀県に 嶺北を石川県に編入
明治14年 2月 先の分割・編入を元に戻し福井県を設置
昭和33年10月 大野郡石徹白村の大半を岐阜県郡上郡白鳥町(現在の郡上市)に編入し、現在の県域となる
い。ところが、廃藩置県のあと県域と県庁所在地が決まるまでには、分割・併合や他県への編入など、およそ10年の変遷を経なければならなかった。徳川に連なる松平家の城下である福井の影響力を弱めようとした明治政府の思惑が背景にあったとも言われる。もともと若狭国と越前国がそれぞれの文化や歴史を持っていたところに、この混乱が加わって県を二分する対立感情が残ることになった。
 このような状況で県令に就任した石黒 努は、県内の人心を一体化するには交通網を整備して交流を促進する必要があると考え、明治18(1885)年3月、総工費19万3,600余円から成る新道開鑿計画を通常県会に提出した。武生(越前市)から敦賀まで幅3間(約5.5m)の車道を建設する計画だった。春日野道と呼ぶ。さらに、丹後道と称して、嶺南(敦賀市以西)地域を縦貫して山陰道に結ぶ幅2間(約3.6m)の車道も計画した。県は、内務・大蔵両省に対して「道路開築 費御補助之義ニ付稟申」書を提出して、6万6,000余円の国庫補助を求めた(その他の財源として地方費9万7000余円と寄付金3万9,000余円を見積もっている)。当時は武生から今庄を経て栃ノ木峠に至っていた国道に替えて、これらの道路を新たに国道とする考えもあって、国庫補助を求めたのだった。国では、道路幅員が基準に達しないものの特例として認めた。
 この道路は嶺南地方から県庁のある福井への交通の利便に資するものであったが、知事の考えと並行して、福井の経済界には敦賀までの幹線道路を求めるもう一つの動きがあった。国鉄東海道線から分岐する北陸線が難工事の末に敦賀の金ヶ崎駅(後に敦賀港(つるがみなと)駅と改称)まで全通したのは明治17年。しかし、そこから福井方面への延
図1 春日野道のルート
伸はなかなか実現しそうになかった。福井の実業家にとっては、既に鉄道が開通していた敦賀までの道路の敷設は産業振興に不可欠な物流網の整備を意味した。知事の稟申で見込んでいた寄付金とは、伊藤 真(まこと)が率いる福井商法会議所(商工会議所の前身)が道路の改修を目的に募ったものだったのだ。
 春日野道は、武生の南郊 畷で国道から分かれ、山に入って幾重にも曲がりながら春日野峠を目指す。峠を春日野隧道で抜けて南西に進み、急峻な海岸沿いに南下して、最後に天筒山を金ヶ崎隧道で抜ける。出たところは金ヶ崎駅のすぐ近く。物流を強く意識したルートだ。この2本のトンネルに、福井藩主 松平 春嶽による扁額が掲げられているのも、福井側の力の入れようを示すものだろう。
 春日野道は18年8月に着工した。武生側と敦賀側からの工事は互いに進捗を競ったという。そして金ヶ崎隧道は19年11月に、春日野隧道は12月にそれぞれ竣工し、武生〜敦賀間がめでたく開通した。そして、県の期待どおり、明治37(1904)年の内務省告示において、本道路は金沢第9師団と舞鶴鎮守府を結ぶ道路として、国道53号に認定されている2)。その後、大正8(1919)年に制定された道路法のもとで国道12号に改称され、昭和27(1951)
図2 春日野道を踏襲する越前市道第2056号線、勾配を抑えるために等高線に沿って著しく屈曲している
年の道路法のもとでは起点を新潟、終点を京都とする国道8号の一部になった。
日野道は“車道”として整備されたのだが、ここで言う“車”とは自動車のことではなく、当時 県内に3,000台あったとされる荷車を指している。よって、道路の線形は荷車の通行を念頭に設計された。それがどのようなものであったかは、今も供用されている越前市道第2056号線を見てもわかるように、勾配を抑えるために著しく屈曲したものだった。これではとても自動車交通に耐えられない。
 昭和27(1952)年の「道路整備特別措置法」により、有料道路制度を活用する途が開かれた。福井県は、春日野隧道の代替となる武生〜具谷間7.6kmについて有料道路事業の許可を受け(30年10月)、直ちに武生トンネルの工事にかかった。31年4月に日本道路公団が設立されるとともに事業を公団に引き継ぎ、33年10月に「武生有料道路」として供用している。続いて、大谷〜杉津(すいづ)間5.2kmは、34年に公団が「敦賀有料道路」として事業化し、37年7月に供用開始している。有料道路に挟まれた区間は、33年から国の直轄事業として改良が行われた。困難な工事を克服して39年12月に供用した。なお、2本の有料道路は計画を上回る交通量により、25年及び30年とされていた料金徴収期間を大幅に短縮して、43年1月及び47年12月にそれぞれ無料開放している。同時に春日野道はその歴史的な役割を終えた。その後は春日野道を利用する人は少なく、本格的な維持管理はなされていないようだが、廃道になった個所を含めていくつかの遺構が残っている。本稿では、そのうち、比較的アプローチしやすい春日野隧道・桜橋・金ヶ崎隧道の3つをご紹介する。
日野隧道の最寄り駅は、北陸本線王子保(おうしお)駅だ。ここから1日数本しかないバスに乗って春日野バス停まで行き、県道湯谷王子保停車場線で中津原隧道をくぐったら、春日野道に上がることができる。合計1時間ほどの徒歩で春日野隧道に着く。坑門のすぐ手前には通行止めの表示が立っているが、坑門への接近には支障がな

図3 春日野隧道及び桜橋の位置

い。坑門はすべて石でできており、向かって左側の壁柱付近で翼壁が断裂し坑口の直上の帯石が落ちそうになっている。恐らく翼壁が背後の土圧により変位したのであろう。内部はレンガ積みで、側壁部はイギリス積み、上半部は長手積みという一般的な方式である。
 トンネルを通り抜けるのはやめ、いったん戻って次は具谷バス停でバスを降りる。少し南に歩いたところから春日野道に上がることができ、40分ほどの徒歩で坑口に至る。トンネルの手前は広場のようになっているが、かつてはここに旅館や茶店があったという(南越前町「伝えたいまちの遺産」(https:
//www.town.minamiechizen.lg.jp/kurasi/103/128/
p001090_d/fil/machinoisan4.pdf))。河野村から弁当を持ってここまで遠足に来たともいう。明治19年12月の日付が刻まれた扁額には、源 慶永(松平 春嶽のこと)の筆になる「賛化阜財」の文字。トンネルの開通で人々が経済的に豊かになるようにという意味らしい。翼壁が左右に極めて長い、特徴ある坑門である。筆者が訪れたときは倒木が掛かっていたが、坑門工に特段の損傷は無いように見えた。ただし、入口から少し入ったところでトンネルのほぼ
 図4 春日野隧道の越前市側坑口の全景(左)と翼壁に見られる亀裂(右)
全周にわたって煉瓦の損傷が見られた。坑門が全体として変位しているのかもしれない。
 現状の春日野隧道は特段の管理がされていないようだ。が、これを土木遺産として保存していくためには、変位を抑止する対策が必要だと思われる。ともあれ、福井県にとって大きな意味を持っていたこれらの遺構にもっと陽が当たってもよい。

  図5 春日野隧道の南越前町側の全景(左)とトンネル内部に発生している亀裂(右)
図6 河野川から見上げる桜橋
道を後にして春日野道を下る。どんな人が通るのかわからないが、道路は一定の手入れがなされている。やがて春日野道は国道8号に合流し、トンネルの箇所を除いてそのルートは国道にのみ込まれている。
 桜橋の交差点から運動公園に降り、さらに階段で河野川に降りると春日野道にあった桜橋の下に出る。ここから見ると、両岸から巨岩が張り出して川幅が最も狭くなったところをねらって架橋されていることがよくわかる。やや小さめの石を積み上げた端正な趣の石造アーチ橋で、要石も目立つほどの大きさはない。アーチのすぐ上に帯石があって、その上1mくらいも谷積みの石積みになっており、かなり重厚な印象を与える。
 川から上がって路面を見るが、泥が堆積してよくわからない。通行は可能である。傍らの掲示によれば、石造アーチ橋は北陸方面ではたいへん珍しいということだが、本稿で紹介した構造物は大阪の藤田組が施工したもので、同社が参画した
図7 金ヶ崎隧道の位置
鉄道事業の経験が生かされているのではなかろうか。南越前町の指定文化財になっている。河野から40貫(約150kg)もあるセメント樽や石を背負って運んだとある。
んどは敦賀駅へ行き、駅から北へ約2km、金ヶ崎城趾などのある丘陵地の麓にある金前寺に向かう。寺の前の道路が春日野道であった。ここから、アスファルト舗装を突き破って夏草が伸びる道を5分ほど歩けば金ヶ崎隧道だ。坑門は重厚な石造りで、帯石、笠石、壁柱(ピラスター)、扁額をすべて備えている。扁額には「吉祥洞 明治十九年 山縣有朋書」とある(松平 春嶽による扁額は反対側の坑口にある)。山懸は内務卿として地方の指導に当たる立場だった。嶺北と嶺南の一体化を進めようとする福井県を言祝いでのことだろうか。
 高さ幅ともおよそ4.5m、長さ約290mのトンネルは、特に壊れているようには見えない。4段の石を積んだ側壁の上に長手積みのレンガでできたアーチ部が立ち上がる。おもしろいのはその断面形だ。多くのトンネルは側壁からそのまま直上に立
図8 夏草に覆われてはいるが目立った損傷の見られない金ヶ崎隧道の坑口
ち上がってからアーチを描く逆U型か、外側に孕み出すように立ち上がってからアーチを描く馬蹄形が採用されるのだが、このトンネルの場合はやや倒れ込むように立ち上がっている。おむすび型とでも呼んでおこう。上方の建築限界3)に制約の少ない荷車を対象にしたからかもしれない。
 トンネルの反対側の春日野道の敷地はセメント工場に払い下げられているので、トンネルの通行はできない。ただし、全く使われていないわけではなく、セメント工場に向かって送水管と電話線が敷設されている。その意味では、建設されて130年近くになるトンネルが未だ役割を果たし続けていると言ってよい。驚くべきことだ。 
 見学を終えて金前寺まで戻る。廃線になった踏切から北を見れば、春日野道が目指した敦賀港駅4)はすぐそこだ。枝分かれしたレールが撤去されないまま残されていた。

図9 扁額の文字は「吉祥洞 明治十九年」

図10 錆びたレールがもう走ることのない
貨物列車を待っていた

(補遺) 春日野峠を越えるもうひとつのもうひとつの車道「春日野新道」
治政府が殖産興業を図るためには道路の整備が必要であったが、政府の財政的基盤は極めて弱体で、その費用の捻出は困難であった。このような状況のもとで、明治4(1871)年に政府は太政官布告第648号を発し、有料道路のはしりといえる「有償道路」の制度を創設した。一定の期間を限って料金の徴収を可能とするもので、これまで費用負担の面で着手できなかった道路改良に道が開かれることになった。
 7年6月に武生(四郎丸)〜河野間約13.5kmの「春日野新道」が開通している。上記の制度に基づき通行者から「通道銭」を徴したという。道路を整備したのは、河野を拠点に北前船を経営していた10代目右近 権左衛門ら。右近家は17隻の回船を保有しその積石数の合計は18,000石を超える(12年)という豪商だった。しかし、時代は電信などの情報の近代化が進み、商品価格の地域差も次第に縮まりつつあった。買積み商いによる北前船の経営に将来性がないことを悟った彼は、いち早く蒸気船を導入し、大量の商品を運んでその運賃を稼ぐ経営に転換した。その彼の構想は、敦賀と河野を船で結び、河野から武生までの道路を開削することによって、河野を北陸の物流ターミナルに育てようとするものだった。春日野新道は、河野から赤萩を経て春日野峠に至り、春日野隧道で峠を抜けて春日野を経て四郎丸に至る。当初は順調に利用されたようだが、結果的には、荷主は河野を経由するよりも陸路で敦賀まで行く経路を選択した。14年10月、春日野新道は県へ移譲されている。
 河野の集落に残る右近家の主屋(明治34(1901)年建築)は、北前船が産地から直接運んできたケヤキやヒノキを使い、上方風の豪勢なたたずまいの中に繊細な造作が施されている。海に向かって開く門は、海への敬虔な心を表す河野独特の構えと言う。平成2(1990)年、管理を河野村(現在の南越前町)に委ね、「北前船主の館右近家」として一般に公開。右近家の持ち船だった「八幡丸」の模型や航海用具の和磁石、遠眼鏡、貴重品を保管しておく船箪笥や商取引に使われた印鑑、道中秤などの道具類が展示されている。


 (2014.09.09) (2019.10.03)
(参考文献)
1. 福井県「福井県史通史編」(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-3-01-04-01-04.htm)
2. 奥山 秀範「特集 国道8号の源流−明治〜昭和の大動脈春日野道」(「福井商工会議所報Chamber」2006年7月号所収)

1) 右表は福井県に係る国の出先機関の管轄をまとめたものだが、福井県を近畿とするか中部あるいは北陸とするかで、扱いが見事に分かれている。福井県を分割して管轄している例もある。

2) 明治9年の「太政官達第60号」により初めて国道の制度が設けられ、@東京から各開港場に達するもの、A東京から伊勢の皇太神宮及び各府・各鎮台に達するもの、B東京から各県庁に達するもの及び各府・各鎮台を連絡するものが国道とされた。18年に44路線の国道が告示されている。続いて、20年には東京から鎮守府に達する路線及び鎮守府と鎮台を連絡する路線も国道に編入することとなり、44年末までに16路線が追加告示されて合計60路線になった。

3) 人や車両が通る空間を確保するために、この中に構築物や設備を入れてはならないとして設定された範囲。

4) 平成21(2009)年4月に廃され、現在は「敦賀港オフレールステーション」としてトラック便の運行を担当している。

省  庁 出 先 機 関 名 所在地
総務省 北陸総合通信局 金沢市
法務省 名古屋法務局 名古屋市
厚生労働省 近畿厚生局 大阪市
中央労働委員会中部地方事務所 名古屋市
農林水産省 北陸農政局 金沢市
近畿中国森林管理局 大阪市
経済産業省 近畿経済産業局 大阪市
国土交通省 近畿地方整備局 大阪市
中部運輸局 名古屋市
大阪航空局 大阪市
環境省 中部地方環境事務所 名古屋市
 ※経済産業局の電気に関する事務については、福井県の
 一部は中部経済産業局(名古屋市)が、地方整備局の港湾、
 空港、航路等に関する事務については、福井県は北陸地
 方整備局(新潟市)が管轄