だい せん

大仙古墳

世界最大級の陵墓、世界遺産に登録される

南側から見た大仙古墳
 堺のシンボルのひとつ、大仙古墳。現在は宮内庁が仁徳天皇陵として管理しており、一般の立ち入りも研究者の調査も認められていないため、実情はほとんど知られていない。本稿では、この古墳を巡る論考のいくつかをご紹介するとともに、これを世界遺産に登録を成し遂げた動きについてもご紹介する。

稿で取り上げる土木構造物を「大仙古墳」と呼ぶことにする。教科書などで「仁徳天皇陵」と習われた方もおられようが、被葬者が仁徳天皇だと特定できる史料はなさそうだし、そもそも仁徳天皇なる人物が存在したのかさえ疑問視する研究者もあるくらいだから、この名称は採用しないこととする。5世紀半ばに築造された前方後円墳1)で、クフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵と並ぶ世界最大級の陵墓である。墳丘の高さ30m、長軸486m、面積47万m2、体積140万m3
 これだけの盛土をするのにどれほどの人力と費用、工期がかかるのか、大林組が試算している。140万m3といえば、10tダンプトラックにして25万台に及ぶ土量だ。墳丘の周囲の濠の深さを5mと考え、土量の半分ほどは濠を掘削することにより調達し、残りの74.2万m3を陵の近くで採取することとして、土工にのべ537万人を要すると試算している。採土・運搬・土盛りは鉄製及び木製の鍬・鋤・モッコ及びコロを使用するという想定だ。また、
上石津ミサンザイ古墳2) 大 仙 古 墳
図1 整然とした等高線を持つ上石津ミサンザイ古墳(左)と比べれば大仙古墳(右)の等高線の乱れは明らか、なお 大仙古墳の前方部の南面だけが整っているのは明治時代に 整形したものといわれている(出典:参考文献2)
表面を覆う葺石は石津川で採取し、水路を掘削して筏を使用して運搬すると仮定して、のべ20万人が必要としている。これに施工管理などに要する人員を加えて、総勢のべ680万人の動員が必要であり、総工費が796億円、工期が15年8ケ月という結果を得た(参考文献1)。
 一方で、この古墳が自然の地形を利用したものではないかという考えもある。明治時代に大仙古墳の管理を行っていた「陵掌」が、「陵墓は一面に松、杉、檜等によつて覆はれ、外見端正な丘状を示してゐるが、其実起伏多く俗に四十八谷と称し、尾張谷を以て最大なものとしてゐる。又陵墓の東方には御井戸と称して清水の湧出する所もあれば・・・」(「堺市史第7巻」)と述べているが、人工的に盛り上げた墳丘から果たして水が湧くであろうか。また、網干 善教関西大学名誉教授は、大仙古墳の等高線の乱れが尋常ではないとして未完成説を提唱3)したが、この等高線の乱れについても、自然の丘陵に手を加えて墳墓にしたからだという見方もあるかもしれない。
ずれにせよ、古墳は生産の向上や生活の利便に寄与することは期待できず、権力者の威勢を示すためだけに投じられた浪費である。だから、できるだけ規模を誇示できるように築造するだろう。
図2 百舌鳥地区における主な古墳の分布と周辺の地形(国土地理院治水地形分類図(更新版)及び都市圏活断層図を基に作成)
 大仙古墳、上石津ミサンザイ古墳、田出井山古墳4)などの大型古墳が長軸を海岸と平行に揃えていることは早くから注目されていた。当時のわが国の政権は中国と密接な関係を築いていたようで、史書に見える「倭の五王5)」とはこれら古墳の被葬者に比定されている天皇を指すとするのが一般的である。彼らが、外国からの使節に自らの権威を誇示することを目的として、古墳を築造したと考えられるのだ。古代においては堺市付近の大阪湾の海岸線は上町台地の西縁を限る段丘崖の直下にあり、その沖には沿岸砂州が発達していた。 これらの位置は現在の地形(図2)からでもおおよそ推定することができる。この時代の港湾は砂州と海岸線の間にできる潟湖(かたこ)6)を利用していたと考えられているので、入港する船は間近にこれらの古墳を見上げることになる。
 上陸した使節は、朝廷の拠点である大和まで陸路をとったであろう。飛鳥時代に存在が確認されている大津道7)の原形が既にあったとすれば、現在のJR阪和線より内陸部にあるイタスケ古墳8)、御廟山古墳9)、ニサンザイ古墳10)などが長軸をほぼ東西に向けているのは、これを行く使節からの見栄えを考慮したのではないかと考えられる。
葬者の威勢を示すものだったはずなのに、築造されてから2〜300年後には誰の陵墓であるのかわからなくなって盗掘されたり破壊されたりしている11)古墳もあるので、大仙古墳の被葬者を特定するのは非常に心許ないのだが、江戸時代の堺ではこれを仁徳陵だとする伝承が広く共有され、「仁徳さん」と呼ばれて親しまれていた。標高50mの墳丘には誰でも登れて、大阪湾の眺望を楽しみつつ観桜の酒宴を催したりしたようだ。
図3 古墳の南側(前方部に面した側)に設けられた拝所、これが設けられるまでは北側からアプローチするのが通常だった
付近の農民は、ワラビや柴を採取して生活の一助にしていたし、濠の水は農地の潅漑にも使われた。古墳は庶衆に近いところにあったのだ。
 とこらが、江戸時代の末期から天皇の権威が重視され、前方部に面したところに「拝所」が設けられて墳丘への立入りは禁止された。明治に入ると、仁徳天皇は庶民の竈から立つ煙が少ないことを憂いて3年間徴税を免除し宮殿の改修も取りやめた聖帝として教科書に取り上げられたが、同時に陵墓の管理も厳格さを増していった。
 しかし、今でも大仙古墳は堺のシンボルである。法隆寺・姫路城(平成15(1993)年)、京都の文化財(16年)などが世界遺産12)に登録されるのを見た堺市は、大仙古墳をはじめとする百舌鳥古墳群の世界遺 産登録に向けた諸課題の検討を行うため、18年4月に「堺市歴史文化都市有識者会議」を設置し、翌年6月に、「歴史的経緯から百舌鳥古墳群と古市古墳群は一体的に世界文化遺産登録をめざすべき」との意見を受けた。これに基づき、同年9月に大阪府、羽曳野市、藤井寺市と共同で、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産暫定リスト記載資産候補提案書を文化庁へ提出し、20年9月に「暫定リストへの記載が適当」と評価され、22年6月に開催された国の「文化審議会世界文化遺産特別委員会」で百舌鳥・古市古墳群の暫定リストへの記載が了承された。そして、25年8月に開催された委員会においてユネスコへの推薦候補について審議が行われたところ、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・熊本県)の推薦が適当とされ、「百舌鳥・古市古墳群」の同年度の推薦は見送られるという残念な結果となった。「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」(平成23年5月、大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市を構成員として設立)では、29年度の登録に向けて活動を続けた。
 そして、平成29年 7月 6日、アゼルバイジャンの首都バクーから朗報が届いた。第43回世界遺産委員会において、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されることが決定したのだ。今後、「人類が共有すべき顕著な普遍的価値」を掲げる世界遺産としてふさわしい管理のためには、周辺の建物・屋外広告等のあり方や陵墓への観光客の受け入れ態勢を検討していく必要があろう。これからの動きに注目したい。

(参考文献)
1 大林組広報室「季刊大林NO.20  特集MAUSOLEUM−王陵」
2 中井正弘「仁徳陵−この巨大な謎」(創元社)
3 森 浩一・穂積和夫「巨大古墳−前方後円墳の謎を解く」(草思社)
(2014.10.30)(2017.10.31)

 1) 江戸時代の国学者 蒲生 君平(明和5(1768)〜 文化10(1813)年)が著した「山陵志」で初めて使われた用語。わが国独特の形式とされ、後円部が埋葬のための墳丘で、前方部は祭壇(後円部に至る墓道とする説もある)であると考えられている。

 2) 石津ケ丘古墳とも呼ばれる。宮内庁は履中天皇陵に比定しているが、天皇の即位歴代順に反して、大仙古墳より古い5世紀前半の築造と考えられている。

 3) 堺の最も古い地誌とされる「堺鑑(さかいかがみ)」(貞亨元(1684)年)に、「諸国より来たりてこの陵を築きしに、尾州より人 歩き遅れて来たり、故にその築き残しはそのまま谷となれり。今に尾張谷と言えり。この俗説、未だ実否を考えず」という興味深い記事があって、未完成説を紹介している。一方で、代々庄屋を務めてきた南家に残る「大仙陵由緒并間数絵図写」には「山の腰、段々に素焼きの水瓶を並ぶ。今の土俵の類、土持たせなり」とあって、崩土を防ぐために斜面に埴輪が並べられていたと理解できる記述がある。これはむしろ墳墓として完成していたことを意味するように思える。

 4) 宮内庁は反正天皇陵に比定している。大仙古墳より少し新しい5世紀後半の築造とされる。

 5) 「宋書夷蛮伝」などに出てくる、倭国の「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」という5人の王。「讃」を履中天皇、「珍」を反正天皇、「済」を允恭天皇、「興」を安康天皇、「武」を雄略天皇とする説のほか、「讃」が仁徳天皇であるとする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。一方、わが国に残る「古事記」や「日本書紀」には中国への朝貢の記事が見られないことから、これらの王は当時の政権に係る人物ではないとする説も古くからある。

 6) 沿岸に発達する砂州や砂嘴(さし)により遮られてできた海岸の湖。水深が浅く、波が静かであるが、土砂の堆積によって次第に浅くなる。従って、古代の港湾は比較的短い期間に機能を失って廃棄されたと思われる。潟湖の例として、干拓事業が行われる前の河北潟(石川県)を示しておく。

 7) 記紀にみられる道路名で、本稿では、田出井山古墳の北辺を通って大和川・石川合流点(河内国府がおかれた)に至る東西の直線状の道路を指すとしている。近世の長尾街道に相当する。

 8) 5世紀半ばに築造された。天皇陵には比定されていない。土砂の採取と住宅建設のため破壊されそうになったが市民運動により保存され、昭和31(1956)年に国の史跡に指定された。

 9) 宮内庁が応神天皇の陵墓参考地として管理している。5世紀前半の築造である。

10) 宮内庁が反正天皇の陵墓参考地として管理している。田出井山古墳の約4倍の大きさがあり築造時期が似ている。

11)和銅2(709)年に著された「続(しょく)日本紀」には、大きな古墳が被葬者がわからないまま暴かれているとの記述があり、平城京(和銅3年)の造営に際して2基の古墳が破壊されていたことが発掘調査からわかっている。

12) 1972年にユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づいて、人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つとして世界遺産リストに登録された遺跡、景観、自然など。これに登録されるためには、まず「世界遺産条約関係省庁連絡会議」の決定を経て暫定リストに提出されることが必要であり、その中から「文化審議会世界文化遺産特別委員会」の議を受けて政府が推薦したものを「ユネスコ世界遺産センター」が「国際記念物遺跡会議 (ICOMOS)」や「国際自然保護連合 (IUCN)」に評価を依頼し、その勧告を受けて「世界遺産委員会」の最終審議で決定される必要がある。