防賀川隧道・馬坂川水路橋

天井川をくぐる鉄道構造物の現状を見る

JR片町線にある防賀川隧道、今は隧道の上に川は流れていない
 山城盆地の木津川流域は天井川の多いところだ。天井川とは、河床が周囲の平地より高い川のこと。天井川と交差する箇所では、鉄道や道路が河川の下をくぐるという特異な光景を見ることができる。今回は、京田辺市を訪れ、JR片町線の防賀川隧道と馬坂川水路橋をレポートし、併せて天井川の治水対策に向けた府の取り組みをご紹介する。

表1 木津川流域の天井川
記号 河川名 天井川である区間の延長(km)
A 長谷川 1.0
B 青谷川 1.1
C 南谷川 1.1
D 玉川 0.6
E 渋川 1.0
F 天神川 1.0
G 不動川 1.8
H 鳴子川 1.1
I 新川 1.2
J 井関川 0.5
K 防賀川 0.3
L 馬坂川 0.6
M 天津神川 1.4
N 手原川 0.4
(京都府「第4回天井川に関する技術検討会」資料より作成)
が国の最初の鉄道トンネルが天井川であった石屋川・住吉川・芦屋川をくぐるトンネル(明治 7(1874)年開通)であったことは著名だが、これらはその後の複々線化・電化・高架化などにより当初の姿を留めていない。一方、片町線(明治31年、関西鉄道として開通)では、トンネルは余裕を持った断面で作られていた1)ので、電化に当たっても改築を免れ、建設当時の姿をよく残している。
 今回 訪れたのは「防賀川隧道」。同志社前駅から北へ約300mのところにある。鉄道が開業したときからある構造物で、延長は15.3mと短いながら、
坑門は壁柱(ピラスター(pilaster))2)まで備えた本格的な造りだ。全周が4層のレンガで巻かれている。橋梁の設計が早くから基準化されていたのに対し、トンネルは経験にもとづいて設計されていたのが実情だが、本件のような土被りが少ないトンネルでは十分な巻き厚だろう。
 防賀川は、京奈和道田辺西ICに近い京田辺市興戸(こうど)石峠から東流し、近鉄京都線興戸駅付近で北に転じ、以降は木津川左岸を北西に流れて、八幡市八幡春日部で大谷川右岸に注いでいる。山手幹線と交差する
図1 防賀川隧道(A )・馬坂川水路
  橋(B )の位置
興戸宮ノ前付近で平野に出て、すぐに天井川になる。もとは京田辺市河原外島で木津川に合流するまで著しい天井川であったが、昭和54(1979)年度から京都府により切り下げ工事が進んでいる。筆者が訪れたときは、八幡木津線との交差部西側から近鉄交差部付近までが事業中であって、それより下流は切り下げが完了して、除去した堤防の跡地の整備が進んでいた。河川管理者が権原(けんばら)3)を持っているのは基本的には流水部だけであり、堤防はもともとは村の共有地であった。よって、新しい河川は原則として既存河川の直下に切り下げを行う4)。その工事手順は、堤防の法尻(のりじり)に仮の河川を設けてから、堤防を切り崩していくというもの。仮河川を新設河川と同等の断面積で設けるため、堤防の除却は通年施工が可能なのだという。なお、JRと近鉄を越える区間では、従前の急な屈曲を緩和する意味も含めて、民地を買収して川を付け替えている。
図3 八幡木津線の東側で民地を買収して進められている工事、小高い部分がもとの堤防でここに防賀川隧道がある
図2 天井川切り下げ事業の概要
防賀川隧道は河川改修から取り残された形となったが、JR は不要となった隧道をことさらに撤去する考えはなく、現状のまま存置しておくこととしているそうだ。
う一つ天井川が鉄道を超える例として、防賀川隧道から1kmあまり北にある「馬坂川水路橋」を見ておこう。馬坂川水路橋は、レンガ造りの3連アーチ橋で、地元では「みつまんぼ」と呼ばれている。アーチ部のレンガはは5層巻きで、水路の側壁を兼ねる欄干部もレンガ製である。笠石のほか橋脚部分に石材を配し、シンプルながらも
図5 天井川になっている区間の馬坂川
図6 両岸に桜が植えられている市街中心部の馬坂川
図4 馬坂川がJR線を横断する馬坂川水路橋
心地よい装飾が施されている。
 水路橋を流れる馬坂川は、田辺奥ノ城の山中に発し、京田辺市役所付近で平野に出て天井川になり、河原一ノ坪で北転して川原東久保田で防賀川に合流する。現在は、近鉄交差部のやや東に当たる川原里ノ内から下流では切り下げが終わっており、両岸に桜が植えられた落ち着いた景観を呈している。残る 約600mの天井川区間について、京都府では平成24(2012)年度から改修の検討に着手した。当該区間には、府道、JR線、市道、近鉄線を越える4つの水路橋があるが、このうちJR線を越える馬坂川水路橋は、土木学会選奨土木遺産に登録されていることも考慮して取り扱いを考えていきたいと、府は言っている。
井川は、山城盆地のほか、甲府盆地・近江盆地の南部・養老山地の東麓・六甲山地の南麓・岡山平野などで観察される。風化した花崗岩が露出しているなど土砂流出量の多い河川が平地に出たところで、周囲で集約的な農業が営まれていて河道が厳しく固定されている場合に天井川が発生するとされおり、一般には、その形成過程は、耕地を守るために河川に堤防を築くと流出した砂礫がたまって川底が高くなるため堤防を更に高くするということを繰り返した結果、天井川になったと説明されている。しかしながら、河床に砂礫が堆積した場合、それに応じて堤防を嵩上げするより砂礫を除去した方がよいのは明らかだ。なぜ天井川ができてしまったのだろうか。
 木津川流域に天井川が出現するのは江戸時代のようだ。安東 尚美氏が沿川の市史などを調査したところによると5)、木津川への土砂の流入が問題であることを認識した幕府は貞亨元(1684)年に土砂留奉行をおいて山に苗木を植えたり堰を設けたりさせたが、その甲斐なく、それから50年の間に木津川の河床が5〜8尺(約1.5〜2.4m)も上昇する現象が見られた。そのため支流から木津川に水が流れにくくなり、南谷川や天津神川などでは平野部を流れる区間の河床を上げてやる必要が生じ、村々が堤防の嵩上げを行ったそうだ。また、煤谷川では、木津川への合流点を下流の方に延ばすよう要望を出した。ただし、合流点を下流の方に延ばすと天井川の形成に向かう場合があるので、このような改修は注意が必要である(図7)。
図7 合流点を下流方向に延ばしたときの河床の変化
木津川本流の河床を下げるコストの大きさや、流域で一貫した施策を打つ困難さによるのであろうか、江戸時代までに生じた木津川の河床上昇に応じて支流の村々がそれぞれ対応した結果 天井川が形成されたと総ずることができよう。その後、木津川の河床は元に復し、支流だけが天井川として残ったのが現在の姿であると思われる。明治から現在まで続けられてきた治山治水事業が現状のような木津川の河床安定に寄与したのは事実6)としても、江戸時代における木津川の河床上昇がこの時期の山地の荒廃だけに起因するものなのかどうかは、実はよくわかっていない7)
 天井川は治水上の問題が大きい。破堤すれば河川の水が一挙に堤内に流れ込むので大きな被害が生じ、あふれた水が川に戻らないから被害が長期化する。府では、天井川の解消を目指しているものの、鉄道や道路との交差部の処理など直ちに実施できないものもあることから、当面は天井川の強化策と並行して事業を行っていくこととしている。

(謝辞) 本稿の作成に当たり、京都府山城北土木事務所河川砂防室からご教示を賜った。
(2014.07.22)


1) 関西鉄道は、当時の法令により官営鉄道と同じ 狭軌(軌間 1,067mm)での建設しか認められなかったが、学者から転向して社長になった白石 直治は将来の標準軌(軌間=1,435mm)化を視野に入れており、柘植〜片町間の建設に際してはトンネルは標準軌の断面が採用されたと言われる。

2) 壁面より突出して作られる柱形の造形。ローマ時代及びルネサンス時代の建築に多用される。多くの場合、構造的意味は乏しく壁面を引き締めるために装飾的に用いられるとされる。なお、坑門工については右図を参照。

3) 土地を使用して事業を行う場合、その使用を正当なものにするために事業者が保有する権利。所有権を持つのが一般的であるが、区分所有権、地上権、借地権などを持つこともある。他の事業者が使用している土地と重複する場合は、当該他の事業者との協議をもって権原とすることもある。

4) 切り下げ後の旧堤防敷きの整備は市が行うこととなっている。

5) 安東 尚美「京都山城の天井川形成史と環境評価」(土木学会「土木史研究講演集 vol.23」所収)

6) 最近の50年間において2〜5mの河床低下が認められている。支川における砂防事業の進捗に加えて、木津川上流のダム建造により流域面積の47%がいったんダムに流入するようになったこと及び木津川の河床掘削を続けたことなどによるものと考えられている。

7) 一般論として考えると、上流からの流出土砂量が増えなくても河床が上昇する場合として、堤防の強化により溢水しなくなる場合、河口付近における砂州の堆積や河川改修などにより河川延長が伸びる場合、架橋などが障害となって流下速度が低下する場合が挙げられる。木津川においては、江戸時代初期に連続した堤防が完成したことで砂礫が河川内に堆積するようになったことが河床上昇の要因と考えられるが、豊臣 秀吉が行った伏見〜大坂間の淀川の整備により木津川からの流入が難しくなっていたことも関係しているのではないかとする意見もある。