エッセル堤を足掛かりに北前船で栄えた町を再興する


三国港に突出する「エッセル堤」
 江戸時代に北前船の寄港地として繁栄した三国の町は、明治に入ると湊の衰退によって活力を失いつつあった。これに危機感を抱いた三国の人たちが、私財を投じて建設したのがエッセル堤だ。その後、鉄道の発達に伴い、三国はますます厳しい状況に立たされていくが、今の三国には、エッセル堤をひとつのシンボルとして町の再興に取り組む人々の姿があった。




図1 三国の町と九頭竜川・エッセル堤
陸本線福井駅で「えちぜん鉄道1)」に乗り換えて45分。終点の1つ手前「三国」で降りる。三国は北前船2)で栄えた町だった。駅から九頭竜川に向かって緩やかに下る道を左に折れると、江戸時代の材木商 岸名家の旧邸が残されている。九頭竜川に面する裏口から引き上げた木材を表の店まで運んだという通り土間を見せていただいたが、土間を見下ろす座敷に置かれた調度類は、北前船で行き来していた船人が上方で見てきたデザインを取り入れたという、精巧な作りであった。主人は蕉門の俳人3)でもあって、地域の文化活動に貢献したそうだ。
 九頭竜川の河口に発達した三国湊は、穀倉地帯たる福井平野を背後に控え、本支流の各地との間で舟運が発達していた。近世、越前国内にある諸藩や幕府直轄領は、年貢米を川舟輸送で三国に集めて海路によって江戸や大坂へ廻送した。川舟が扱う貨物には、米のほかに反物、生蝋、漆、蜜などがあり、足羽(あすわ)山で切り出された笏谷(しゃくたに)石4)も、川舟で三国まで運ばれてここから全国の需要地へ送られた。
のような恩恵をもたらす一方で、九頭竜川は「崩れ川」が転訛したともいわれるほど氾濫の多い川であって、古くは26代継体天皇がまだ越前におられた頃、九頭竜川の河口を広げて治水を図ったと伝えられる。その河口にある三国湊は、九頭竜川が運ぶ大量の土砂による河口閉塞に悩まされて続けてきた。江戸時代には、三国湊の浅いことはよく知られていたようで、2代目 歌川 広重の浮世絵には舵を上げて入港している舟が描かれている。湊の機能を確保するため、九頭竜川の左岸から長さ百間(約180m)の水刎(みずはね)を突出させて、あえて河幅を狭めることにより水流を速くして土砂を押し流し、北前船が進入できるだけの水深約3mを保持する工法が採られた。ところが、明治元(1868)年の大洪水では、三国湊の手前で九頭竜川に合流している竹田川の流水が九頭竜川に流れ込まずに逆流し、沿川の多くの村が被害を被ってしまった。その元凶が水刎だと主張する沿川の住民の訴えにより水刎が撤去されると、たちまち湊に土砂が堆積し船舶の出入に支障をきたすようになった。
 困った県は国に助力を要請し、これに応じて派遣されたのがオランダ人工師エッセル5)(George Arnold Escher)だった。明治9年5月のことであった。エッセルはその後も2度に渡って三国を訪れて九頭竜川の上流から海岸まで踏査し、三国湊を救う最適な案を導いた。三国の人たちは、エッセルは再び水刎を整備して湊を使えるようにしてくれるかと期待していたようだが、彼の案は全く異なっていた。河口の右岸から大きく弧を描いて伸びる突堤だったのである。おそらく、九頭竜川が海に入ってからもなお左に湾曲して流れ続けるように制御することにより、河口付近で定常的に右岸側の流速を早め、湊への土砂の堆積を防止しようとしたのだろう。しかも、この突堤は、
図2 明治11年に始まった三国港改修事業の測量標(みくに龍翔館の展示による)
冬季の北西季節風に伴う風波を遮る機能をも持っていた。
 6人の豪商が発起人となって、11年5月に突堤の工事が始められた。突堤の長さは511m、幅は約9m。エッセルはオランダに帰国したため、部下のデ・レーケ(Johannis de Rijke)が引き継いだ。デ・レーケは頻繁にエッセルと書簡を交換して、彼の意見を聞きながら工事を進めた。枝をマット状に編んで海に沈めた「粗朶沈床」(そだちんしょう)を基礎とし、その上に東尋坊付近で採った巨石を乗せて安定させる工法だった。日本海の荒波に工事は難航し、沈床の破壊や機材の流出などの被害を受けること28回。早く開港して入港する船舶から港銭をとろうと、表面工を残して13年12月に開港式を挙行したが、以後も被害が続き、最終的に工費は当初見込みの10倍の約30万円(現在価格にして約40億円)にふくれあがった。発起人らがそのうち約8万円を負担した。すべて完成したのは18年11月。人々は設計者の名を冠して「エッセル堤」と呼んだ。 
ょうどこの頃、北陸では鉄道の建設が緒についていた。15年には、金ヶ崎(現在の敦賀港)〜洞道口(現存せず)間に福井県で始めての鉄道が開通し、17年には柳ケ瀬隧道が貫通して敦賀港は琵琶湖岸の長浜と結ばれた。敦賀以北では、
民間による鉄道計画もあったが、国による敷設が優先して行われ、木ノ芽峠の難工事を克服して福井に到達するのが29年、石川県の小松までが30年と、どんどん延伸していくのであった。すでに米原を経由して東海道線が東京から神戸まで全通(22年)、山陽鉄道が神戸から広島まで開通(27年)する等していたから、これでもって北陸は東京・京阪神・瀬戸内等の主要地と鉄道で結ばれることになった訳だ。三国の人たちは、鉄道が三国を通るようにしてほしいと再三 陳情したが聞き入れられず、
図3 福井県における鉄軌道の形成史、現在も残るのは三国線を除く国鉄とえちぜん鉄道・福井鉄道
金津(現在の芦原温泉)〜三国港間の支線が明治44(1911)年になって建設されただけだった。
 また、43年に制定された「軽便鉄道法5)」を契機として、大正から昭和初期にかけて、鉄道が通らなかった丸岡や大野などの町を中心に、さかんに私鉄が敷設された。これらは、旅客輸送を主眼としていたようだが、一部は九頭竜川を運行する川船の代替にもなった。
 鉄道網の発達を見るにつけ、内航海運の衰退が懸念された。この時期の三国の雰囲気を伝えるのが旧森田銀行本店だ。廻船業に見切りをつけた森田家が明治27年に設立した銀行で、
図4 旧森田銀行本店の外観(左)と天井の装飾(右)
本店は大正9(1920)年に完成した鉄筋コンクリート造2階建て。天井の豪華な漆喰模様や象眼の施された壁など細部へのこだわりに、繁栄を保ってきた三国の文化の厚みと商人の心意気を見る思いがする。
 やはり鉄道は三国にとって脅威であった。国内の物資輸送は徐々に海運から陸運に転換し、三国港には大陸との交易が期待された。しかし、そのような大型の船舶に制約のあった三国港は、衰退の道をたどった。大正9年、県はポンプ船を常駐させて港口維持を図り1,000t級の船舶の入港を可能としたが、第2次世界大戦とともにポンプ船の稼働が困難となり、三国港は漁船の係留地として使用されるに過ぎなくなった。
 昭和23(1948)年に襲った福井大地震6)により港湾施設は大きな被害を受けた。エッセル堤も、地盤が沈下したため嵩上げが行われている。さらに39年から45年にかけて、コンクリートブロックの設置等が行われ、新たに411mが延伸された。地図でくびれて見えるところから先が追加された部分だ。
 このような修復を重ねながら、エッセル堤は130年に渡って港の機能維持に貢献した。今、港の主要部分は九頭竜川左岸の新保地区に建設された福井新港に移っているが、エッセル堤はなお港湾計画に含まれる現役の施設であり、三国港に停泊する漁船やプレジャーボートを守り続けている。
ッセル堤は、オランダ人によりもたらされた土木技術を日本の海域に初めて具現させたもので、三国港の修築事業は、三角港(熊本県)、野蒜港(宮城県)と並ぶ「明治三大築港」と称されている。わが国近代化の過程における貢献度と土木技術史上の価値が高いという理由で、平成15(2003)年に国の重要文化財に指定され、
図5 突堤の近くにあるモニュメント、エッセルとデ・レーケのレリーフがはめ込んである
図6 エッセルの設計を復元した「みくに龍翔館」
さらに16年に土木学会選奨土木遺産に、21年には経済産業省近代化産業遺産にそれぞれ認定された。
 15年の指定が刺激となって、エッセル堤の建設に三国の商人が大きく寄与したことが市民の間で再評価され、突堤の近くに有志によりモニュメントが設けられた。17年には、「三国突堤を核としたまちづくり懇談会」が開催され、三国突堤と周辺の歴史的・文化的資源を連携させながらまちづくりに活かすための取り組みが進められている。三国の町を歩くと、かつての繁栄を伝える「港銭取立所跡」・「三国湊口留番所跡」や、三国にゆかりのある文人に関係する場所には説明板がこまめに掲げられ、主な見学地にはボランティアガイドが待機している。シビックプライドは高いと見た。
ころで、エッセルが三国に残したものがもうひとつある。「龍翔小学校」(明治12〜大正3年)だ。三国に滞在中、人々に請われて彼が設計した。キノコのような塔屋をもつ5層8角の白亜の建物は、だまし絵で有名なM.C.エッシャーの父たるエッセルでこそあり得べき奇抜なデザイン。
 この外観を忠実に復元した「みくに龍翔館」が、三国駅の背後の高台に、郷土資料館として昭和56(1981)年にオープンした。ここでもエッセルは特別のコーナーを与えられてその業績が展覧されている。最上階の展望テラスからは、波高い日本海に大きく突き出るエッセル堤の勇姿を望むことができた。
(2014.05.21)

1) 京福電鉄から譲渡を受けた路線を運営する第3セクター方式の会社。もともと京福電鉄は収支状況が悪かった上に、平成12(2000)年12月と13年6月に相次いで列車衝突事故を起こし、全線で運行を停止したため事業継続が困難になり、事業廃止届を国に提出した。福井県は、地域の足として路線の存続が必要と判断し、14年に同社を設立、翌年に永平寺線(永平寺口〜永平寺)を除いて開業した。なお、同社の三国芦原線は、三国芦原電鉄が昭和3(1928)年に芦原まで、4年に三国まで、7年に東尋坊口まで開業したもの。その後、京福電鉄に合併された。19年に三国〜東尋坊口を不要不急路線として休止し、同年に廃された国鉄三国線の三国〜三国港間を継承して現在の路線としている。

2) 江戸時代から明治時代にかけて活躍した買積み廻船の呼び名。買積み廻船とは、船が諸港を回航しながら自ら商品を売買する業態を言う。主に日本海沿岸から下関を経由して大坂までの間を行き来した。

3) 芭蕉が元禄2 (1689) 年に東北から北陸の各地を巡った後、その高弟 各務 支考(かがみ しこう)が14年に北陸を訪れ、多くの門人を獲得していった。岸名 昨嚢(きしな さくのう)もそのひとりで、彼を代表として愛好家が名を連ねる「日和山吟社」が結成されて大いに俳諧が流行した。なお、旧岸名家は平成16年に改修工事を施し大正の頃の状態に復元したもの。妻入り屋根の正面に平入り下屋が付く「かぐら建て」と呼ばれる三国独特の建築方法の町家である。

4) 福井市の足羽山の周辺に分布している凝灰岩。青緑色で、水に濡れると深い青色に変化する。柔らかく加工に適するので屋根瓦を始め建築物の装飾によく用いられる。

5) 明治20(1887)年に制定された「私鉄条例」は国鉄と類似の規格での建設を求めていたが、地方における小規模な私鉄の敷設を促進するために、軽量なレールの使用や急曲線・急勾配が可能な低い規格で建設できる鉄道について定めた法。通常の鉄道と比べるとスピードが出ず輸送力も小さい。

6) 昭和23年6月28日に発生した、丸岡町付近を震源とするM7.1の地震。丸岡城や国鉄金津駅・九頭竜川鉄橋が倒壊した。福井市では震度6を記録し、建物の全壊率が79%、出火件数が24件になるなど、都市直下型地震の様相を呈した。これを契機に気象庁は震度階に7(激震)を追加した。