じゅう そう
十三大橋

橋梁コンサルタントの草分け 増田 淳の作品を訪ねて

リズミカルにアーチ橋が連なる十三大橋
 「背景 天然の美に恵まれたる所薄しといえども、河幅広大、水豊かにして、一面に繁茂せる緑の蘆は浪波の名に叛かず。拱橋の荘厳雄大なる容姿、径間長大なる桁橋の直線的構造美は、近代的装飾と相俟って一大偉観を呈せり。夏季の納涼、春秋における逍遙の好適地たるを失せず。」十三大橋の設計者 増田 淳が、自らの会社の業績を紹介した「Souvenir Bridge Catalogue」において本橋について解説した文である。増田にとって、橋は単なる交通路ではなかった。この文からは、彼がいかに周辺環境との調和を考慮して設計し、人々の鑑賞に耐える構造物を目指したかが伺われる。

田 淳(明治16(1883)〜昭和22(1947)年)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した橋梁設計技術者のパイオニアだ。東京帝国大学で廣井 勇1)に橋梁工学を学び、卒業後、アメリカに渡って、いくつかの著名な橋梁設計事務所の勤務を通じて最新の設計技術を身につけた。約15年の滞米中に30橋の設計施工を担当している。大正11(1922)年に帰国して東京に「増田橋梁研究所」を立上げた。
 当時は、土木構造物の設計は発注機関のインハウスエンジニアが行うこととなっていた。しかし、大正8年に制定された(旧)道路法により道路管理者である地方自治体に大きな責務が課されることになった2)のに対し、自治体には高度な道路橋を設計できるエンジニアが少なかったので、増田のもとには多くの自治体から橋梁の設計や施工監理の依頼が舞い込んだ。設計業務を民間に委託するのが一般的ではなかったらしく、彼は多くの場合、自治体の嘱託の立場で仕事をしている。昭和6(1931)年に出された増田橋梁研究所の会社案内「Souvenir Bridge Catalogue」には、設立から10年間の実績として、北は宮城県から南は宮崎県まで10に及ぶ府県の嘱託として設計した55の橋梁が紹介されているそうである。在米中の実績と比べても驚くべき量産だ。その中には、大正12(1923)年に起こった関東大震災からの復興に当たり東京府が施行した白髭橋(隅田川、荒川区〜墨田区)や千住大橋(荒川、荒川区〜足立区)なども含まれている。だが、増田の八面六臂の活躍にも終結の時が訪れる。昭和12(1937)年に始まった日中戦争のあおりを受けて公共事業が急激に縮小し、自治体からの依頼がなくなったのだ。おそらく事務所の経営は立ちゆかなくなったと思われる。増田は戦争こそは生き抜いたが戦後の復興期を待つことなく亡くなった。享年65歳。没後、遺族の生活費を生み出すために設計図書が発注者に売り渡されたと伝えられ、彼の業績をまとまった形で見ることはできないと思われていた。
 ところが、平成14(2002)年の秋、土木研究所において構造物の設計図や計算書が無造作に保管されているのが見つ
表1 増田 淳が設計に携わった橋梁の形式別の橋数(出典:参考文献1)
構  造  形  式 橋数
鋼橋 トラス ワーレン 13
プラット 4
ゲルバー 3
ランガー 2
その他 3
アーチ ブレースドリブ・タイド 9
スパンドレル 3
ブレースドリブ・バランスド 1
3ヒンジ 1
トレッスル 1
版桁 単純・連続 6
ゲルバー 5
ラーメン 1
可動橋 11
吊橋 1
コンクリート橋 アーチ オープンスパンドレル 5
フィルドスパンドレル 1
2
SRCラーメン 1
かり、調査の結果、これらは昭和初期に設計・施工されたもので、そこに記されたサインから、ほとんどは増田の事務所が携わったものであることが判明した。サインからは、重要な部分を増田自身が設計しその他は部下に任せていたことが伺えるという。これを詳細に調べれば、彼がどのような手順で設計していたかもわかるであろう。形式別に橋数をまとめた表1を見ると、彼が採用した構造形式の多彩さが際だつ。また、発見された設計図書の中には橋梁以外の構造物(ドック、係船岸壁、水門)も含まれているが、これらの設計時期が昭和13年以降であることから、橋梁の受注の減少をこれらで補って事務所の維持を図ったのではないかと考えられている。
 架橋から100年近くが経過し、増田が手がけた橋梁には、老朽化や幅員狭小などの理由で架替えられたものも多いし、残っているものでも金属供出や拡幅・歩道添架などの改築により彼の特徴とされる吟味された橋面工を失っているものも多い。そのような中で、増田の造形をよく保っている十三大橋を訪れた。
三大橋は、大阪から池田に向かう国道176号が新淀川を渡る地点に架けられた全長681.24mの橋梁で、低水部は5連の鋼ブレースドリブ・タイドアーチ3)、両側の高水敷はそれぞれ5連のゲルバー式版桁橋4)と1連の単版桁橋から成る。
 古くは「能勢街道」と呼ばれた国道176号は、米・酒・薪炭などの輸送や妙見山への参詣に利用されていたが、新淀川の開削に伴い、明治42(1909)年に「十三橋」という幅員18尺(約5.5m)、延長385間(約700m)の鋼版桁橋が架けられた。次いで、大正14(1925)年の大阪市域拡張を契機に計画された、大阪市と府下の各地を結ぶ「十大放射路線」の1つとして本道路が知事施行に係る都市計画道路事業により改良され、今見る十三大橋が架けられたのである。昭和5(1930)年1月に着工し7年1月に竣工した。同時に、新淀川に並流する長柄運河に十三小橋(L=25.134m)も架けられている。
 十三大橋は、上流に近接する阪急電車の橋梁を考慮し、径間はその2倍として低水部で約64m、高水敷で約33mとしている。幅員は20mであり、中央に軌道敷5.69mをとり、その両側に4.405mずつの車道、さらにその外側に2.75mの歩道が確保されている。ただし、軌道は直ちに整備されることがなかったので、暫定的にアスファルト乳剤で表面処理し、
図1 ニューマチック・ケーソンでの掘削の様子(出典:参考文献2)
車道はアスファルトブロックで舗装した。
 その施工方法は、まず、橋脚については、高水敷では1基につき末口25.4cm、長さ18.4mの松杭176本を基礎とする鉄筋コンクリート構造で築造し、低水部では鉄筋コンクリートまたは鉄骨鉄筋コンクリート製の潜函(ニューマチック・ケーソン)5)を採用した。上部工については、八幡製鉄から調達した鋼材を、タイドアーチは横河橋梁と汽車製造、版桁は大阪鉄工所と日本橋梁の工場で部材に加工し、架設は大阪鉄工所が行った。
図2 低水部でのアーチの架設、支保工が簡素である(出典:同上)
架設順序は、まず中央部のタイドアーチを中津側より順次 構築し、両側の版桁橋は同時に並行して組み立てている。タイドアーチの部材は舟から直接つり上げ、デリック6)を使用して組み上げた。版桁橋の部材は水際に設置したデリックでトロッコに積み替えて架設地点まで運んだ。
 工事は特段の支障なく進行した。これについては、設計者の増田が橋梁の製作や架設についても熟知しており、かつ、橋梁本体に加えて高欄・親柱・照明などの付属物までトータルに関与していたという指摘があり(参考文献3)、その背景として、
図5 十三大橋主構詳細図(部分)、部材の寸法・数量などの参考情報を近傍の余白に書き込むなどの巧みな表現は在米中の勤務経験で習得したものと考えられている(出典:参考文献3)
図3 舟から部材を吊り上げる(出典:同上) 図4 高水敷における架設状況(出典:同上)
当時の設計者は発注者の代理人として発注から施工までのすべてを担当していたことが挙げられて いる。今で言うコンストラクション・マネジメント(CM)であろう。よって、設計図についても、契約図書の一部ともなり、工事のための情報も提供する多目的な文書として作成されていたという。また、増田の図面は施工者にも好評で、「施工するのが楽であった。必要なことがくっきり書いてある」、「ほんとうに知って書いている」という感想を述べている(「座談会 わが国のれい明における鉄橋(続)」(JSSC, 鋼構造協会、 Vol.18, No.189))ことが紹介されている。
図6 アーチの主構は小さな部材をたくさんのリベットで集成して作られている
目には低水部の5連のアーチは商都大阪の躍動感をリズミカルに表現しているように筆者には思える。一方、近づいてみると、アーチの主構は、おそらく施工上の都合もあって小さな部材を無数のリベットで集成して作られており、力強くも無骨な印象だ。橋梁のそこかしこに歯車のような機械部品を思わせる意匠が施されて、工業都市としての大阪を表現しているのも、増田の造形へのこだわりを示すものだろう。
 阪神大震災にも耐え80年の寿命を誇る要因のひとつに、路面電車の導入を設
図7 歯車のような機械部品をモチーフにした意匠があちこちに配置されている、左からアーチのポータル7)部、高欄にはめられた鉄柵、親柱の袖壁
計の前提としていたことが挙げられる。今、20mの幅員は、北行きが1車線、南行きが3車線という変則な車線構成で運用されているが、
図8 梅田の高層ビル街を背にする十三大橋のアーチ部、圧倒的な存在感を有する、なお ケーソン基礎のアーチ橋に比べて松杭を基礎とする版桁橋の沈下が大きいことが路面の形状から推測できる
北行きは約300m下流に架けられた新十三大橋(4車線)が補っている。路面電車は運行されず、昭和28年に大阪駅前〜神崎川間をトロリーバスが走ったが、44年に廃止された。

(参考文献)
1. 福井 次郎「橋梁設計技術者・増田淳の足跡」(土木学会「土木史研究講演集」vol.23)
2. 「十三大橋竣功記念写真帖」(大阪府)
3. 五十畑 弘「土木図面の史料性に関する調査研究−主に増田淳の鋼橋図面を対象として−」(土木史研究論文集Vol.25)


 (2014.05.02)
                                        

1) 文久2(1862)に高知県に生まれ、内村鑑三や新渡戸稲造と共に札幌農学校に学び、工部省に奉職。その後アメリカ合衆国に留学し、明治22(1889)年に帰国して札幌農学校教授を経て小樽築港事務所長に就任し、わが国初のコンクリート製長大防波堤建設に従事した。32年には東京帝国大学教授となっている。昭和3(1928)年没。

2) 旧道路法(大正8年4月14日法律第58号)においては、国道と府県道の道路管理者は府県知事であって、これら道路の新設、改築、修繕、維持は知事が行うこととされ、大臣が必要と認めるときに限り国道の新設または改築を大臣が行うことができるとされた。

3) ブレースドリブ(braced-rib)アーチとは、アーチ橋の主構部分をトラス構造にして強度を増したもの。タイド(tied)アーチとはアーチ橋の支点部同士を引張部材で結んだもの。自定式アーチとも呼ぶ。この形式では、水平力は橋内部に閉じこめられるため、支点部に水平力が発生しない。

4) 版桁の中央部を左右から張り出した桁で受ける形式。1867年、ドイツのゲルバー(Heinrich Gerber、(1827〜1890 年))が創案した。経済性に優れ、支点の不同沈下に追随できるという利点がある反面、継目が構造上の弱点となる。英語ではカンチレバー (cantilever) 橋と呼ぶ。

5) 掘削しながら大型の箱を支持層まで沈めていって基礎とするものをケーソンというが、水中や地下水位の高いところで施工する際に、浸水を防ぐために作業スペースを加圧して掘削を行う方法をニューマチック・ケーソン(pneumatic caisson)工法と呼ぶ。作業員の安全衛生管理に配慮を要する。

6) 資材や貨物の吊上げに使用される装置。支柱と腕木から成り、支柱の下に置かれた2機の巻上機からワイヤを通じて腕木の操作と吊荷の上下移動を行う。なお、デリック(derrick)の名はイギリスの死刑執行人に由来するといわれる 。

7) 門やトンネルなどの入口(portal)