愛宕山鉄道

地域の繁栄の期待を込めた鉄道のその後

鳥居本側から見た清滝トンネル、愛宕山鉄道の遺構で唯一利用されている
 嵯峨から通称「清滝道」を走ること約10分。左に併走する「愛宕道」と交わった先に小さなトンネルが見える。清滝トンネルだ。バスが壁にこすりそうなほど狭いものの、何の変哲もないトンネルに見える。だが、このトンネルに地域の繁栄の期待を込めた人たちがあった。

「伊
勢へ七度(たび)、熊野へ三度、愛宕さんへは月詣り」と称されるほど信仰の厚い愛宕神社。大宝年間(701〜704)に役 小角(えんのおづぬ)が加賀白山を開いた泰澄(たいちょう)を伴って愛宕山に登ったのが開創と伝え、天応元(781)年、光仁天皇の命により慶俊僧都と和気 清麻呂が白雲寺を建立したことで修験道の聖地となった。火難を防ぐ神として有名で、京都では台所に愛宕神社のお札を貼るのがならわしだ。また、軍神としても武家に尊ばれ、明智 光秀が本能寺を攻める前に祈願したことでも知られる。神社の鎮座する愛宕山は標高924mで、京都市で最も高い。王城鎮護の守護神として「東の比叡」と並ぶ霊峰である。その比叡山にはケーブルカーやバスが山頂まで通じている一方、愛宕山へは清滝から表参道を行くかJR嵯峨野線保津峡駅から水尾経由で行くか、いずれにしても3時間近い登山が必要である。しかし、戦前は愛宕山にももっと楽に登れたのである。
和2(1927)年、参詣者の利便に資すべく、京阪電鉄と京都電燈1)の資本参加のもとに資本金200万円で「愛宕山鉄道株式会社(以下「愛電」という)」が創立され、4年4月に嵐山〜清滝間3.4kmの「平坦線」が開通した。京都電燈線(現在の京福電鉄嵐山線、以下「嵐電」という)の嵐山駅を起点に、ここを出発してすぐに大きく左に曲がり山陰本線を上越しして北西に向かい、試峠をトンネル(L=444m)で抜けて清滝に至った。峠の手前の鳥居本(とりいもと)までの2.9kmは複線、トンネルを含む鳥居本〜清滝間0.5kmは単線であった。車両は、新京阪線(現在の阪急京都線)に取り込まれることで不要となった北大阪電鉄(現在の阪急千里線)のものを借り受けた。続いて同社は同年7月に清滝川〜愛宕間2.0kmの鋼索線を開業している。これは今に至るもわが国で最長のケーブル線で、起終点間の高低差は639mあった。車両はスイスのギーセライベルン社の製造による。これらの建設費は合わせて約245万円だった。
 建設費が資本金を大きく超えてしまった上、出資申込みのうち実際に入金したのは120万円ほどしかなかったから、会社の金利負担は大きかった。
図1 愛電の平坦線及び鋼索線と周辺の施設(明治42年測量、昭和4年部分修正測量)
開業当初こそ黒字を出したものの、次期からは折からの不況も加わって欠損を出す始末だった。しかし、いっそうの乗客誘致、省線2)や保津川遊船などとの連携、大幅な人員削減、所有地の売却、利息負担の軽減交渉などをいち早く(昭和5年)断行して、苦しいながらも経営の安定を図った。
 同社が採った旅客誘致策はおおむね次のようなものだった。まず、開業と併せて、平坦線の清滝駅と鋼索線の清滝川駅の周辺にテニスコート、ローラースケート場などのある「清滝遊園地」を開設し、山上の愛宕駅の2階に見晴らしのよい「愛宕食堂」を、周辺に「愛宕遊園地」を併設して「テント村」などを営業した。京都第二中学(現在の鳥羽高校)校長でスキー指導に尽力した中山 再次郎氏の指導を受けて愛宕山の北斜面に整備していた「愛宕スキー場」を12月に開設した。当時は関西で最大の規模を有し
図2 第6橋梁を渡るケーブルカー、太い下部工が印象的(出典:参考文献1)
図3 当時は関西で有数のスキー場として賑わった愛宕山スキー場(出典:右京区制70周年記念事業実行委員会「うきょう−右京区制70周年記念誌」)
雪質・雪量もよかったことから、京阪神から日帰りスキー客がたくさん訪れた。翌5年には、いっそうの旅客誘致のため「愛宕山ホテル」を開設している。これは山上にありながら水洗便所を設備しており、小さくとも快適なホテルだったようだ。参拝客やスキーヤーの人気を得た。さらに、愛宕遊園地に飛行塔を設置し、その雄大な眺望が評判になった。
電が、会社の規模に比べてこれほど大きな旅客誘致策を採ったのは、最大出資者である京阪電鉄の意向とは無関係ではあるまい。当時、阪神間では電鉄会社が自社沿線にサラリーマン層向けの住宅地を販売していたが、さらにそこに住んだ彼らの行楽需要を引き出すべく遊園地やリゾートホテルなどをさかんに展開していた。とりわけ六甲山では阪神電車と阪急電車が華やかに開発を競っていた。大正14(1925)年に「摩耶ケーブル」が設置され山頂に「摩耶テント村」が開設、翌年には「摩耶東遊園地」が開業している。昭和4年には「六甲山ホテル」と「摩耶山温泉ホテル」(後の「摩耶観光ホテル」)が相次いで開業した。その後も開発は続き、7年には「六甲ケーブル」、8年には「摩耶山遊園地」と「野田山遊園地」、9年には「六甲オリエンタルホテル」という具合である。これを見た京阪は、自社線のエリアにおいて同様の行楽需要を満たす施設が必要と感じたのではなかろうか。新京阪線では、京都電燈から権利を譲り受けた「洛西電鉄」(嵐山〜桂)を自社の嵐山線として開業し、愛電との連絡切符を廉売したり、スキーシーズンに天神橋(現在の天神橋筋六丁目)から嵐山まで直通電車を走らせりしたそうだが、新京阪線と愛電との連絡輸送は、むしろ京阪の側に積極的な動機があったように思える。
 ただ、阪神と阪急の2社が投資を続けられるキャパシティを持つ六甲山に比べて、愛宕山にはおのずから限界があったのかもしれない。愛電の平坦線と鋼索線で愛宕駅に達するとは言え、その終点から貴庶の信仰を集める愛宕神社までは1.7km、そこからスキー場まではさらに1.3kmも山道を歩かなければならなかった。鋼索線の終点から愛宕神社黒門までロープウェイを架設する構想もあったようだが、これは実現しなかった。愛電はもとより、京阪も新京阪線の過大な債務に苦しんでいたからである。愛宕山のリゾート開発は中途半端に終わったと言えよう。 
図4 清滝に残る愛電の遺構と遊興施設の現況
がて時代は戦争に移っていく。太平洋戦争の激化に伴い、昭和18(1943)年12月、不要不急路線として軍から廃止命令が下り、翌1月には資材供出のため平坦線が単線化された。鋼索線は2月に廃止になり、沿線にあった清滝遊園地、愛宕遊園地、愛宕山ホテル、愛宕スキー場も同時に閉鎖された3)。単線化された平坦線も12月には廃止に追い込まれた。廃止された施設のうち清滝トンネルは、
図5 道路になった愛電の跡地、ゆるやかなカーブが鉄道の線形を伝える
わずかな期間だが、三菱重工業の航空機部品工場になって排気弁を製造していたそうだ。
 供出されたレールなどは武器弾薬になることなく野積みされたまま終戦を迎えた。戦時公債4)で対価が支払われたことになっていたため、それを再度敷設するためには国から買い戻す必要があった。戦後、六甲山の諸施設が曲がりなりにも再開を遂げるのに対し、愛電はついに復活しなかった。愛宕山のリゾート施設も同様だ。その最大の要因は新京阪線が阪急に渡ったことだろう。阪急としては、阪神と競合する六甲山の観光施設の再生に資源を集中したかったはずで、愛宕山に投資する必然性はなかった。資金が調達できないまま、鋼索線のレールなどは屋島登山鉄道線(香川県、25年再開)や天橋立鋼索線(京都府、26年再開)に、平坦線のレールは京都市電梅津線(20年新設)に払い下げられたと伝わる。愛電は阪急や嵐電との合併を模索したが、34年に断念して会社を解散した。35年に平坦線の跡地は道路に転用され、現在まで残っている唯一の施設が清滝トンネル5)。単線で建設されたため、1車線の交互通行となっている。
図6 7合目付近にある愛宕駅舎、地下は巻上室、1階がロビー、2階が食堂だった 図7 廃墟になった愛宕山ホテル、1階がコンクリートで2階は木造だったようだ 図8 愛宕山の北斜面に残るスキー場の跡、この部分だけが草原になったままだ
滝は、愛宕山に参詣するのに先立って水垢離(みずごり)するところとして発展したが、室町時代から続く「ますや」、「かぎや」を始め何軒もの料理旅館や茶屋が建ち並び、夏には河鹿を聞きながら鮎を、冬には雪見をしな
図9 スキー場跡に残る中山 再次郎氏の胸像の台座、像は供出された
がらぼたんを食するなど、四季折々の遊興が楽しめる山峡の地として知られていた。俳聖 芭蕉も幾度と清滝に遊んだ。清滝の人たちはさらなる繁盛を愛電に期待したのだが6)、それが廃止された後、地域はかえって以前より寂れる結果となっている。20年後には地域が存続できないかもしれないと危機感を募らせる清滝の人々にとって、愛電は一時の幻だったとあきらめきれるものなのだろうか。
(2013.10.31)
                                            

(参考文献)
1. 京都電燈瓦京都電燈株式会社五十年史」
2. 飯田 公「愛宕山が一番賑わった頃−愛宕電車の16年−」(京都学園中学高校論集第36号所収)
3. 「幻の鉄道「愛宕山鉄道」を訪ねて」(http://www.geocities.jp/sawa_history/index.html)


1) 明治21(1888)年に創立したわが国4番目の電燈会社。当初は高瀬川西岸の自社敷地で火力発電をして近隣に配電していたが、25年に琵琶湖疏水の蹴上発電所(京都市営)から電力供給を受けるようになる。次第に各地に発電所を建設して配電区域を京都府北部から滋賀・福井県に拡張するとともに、安定した供給先を確保するために自ら電気鉄道事業を営んだ。戦時統制により、昭和17(1942)年に発送電事業を日本発送電に、配電事業を関西配電と北陸配電に、鉄道事業を京福電気鉄道にそれぞれ譲渡して解散。

2) 大正9(1920)年に「鉄道院」から業務を引き継いだ「鉄道省」が運営していた路線。国鉄のこと。省線と連携できると全国の省線の駅で愛電との連絡切符が販売されるので、愛電としては大いに期待していたが、実現するのは昭和16年まで待たなければならなかった。省線との交差部に嵯峨西駅を新設しここと嵯峨駅と徒歩連絡することにより可能となった。

3) 愛電の直営施設以外にも、愛宕駅から愛宕神社に至る参道には、同社と提携して旅館 水口屋、京見茶屋、藤古写真館など9軒の民間施設が立地していた(参考文献2による)。これらも愛電の廃止とともに廃業している。

4) 戦争中に軍事費に充てるために発行された国債。戦後、物価が約350倍にも高騰する急激なインフレが起こり、結果的に償還金の価値は著しく低いものになった。

5) 現在の清滝トンネルは清滝側坑口が延長・改築されており、往時を伝えるのは鳥居本側だけである。

6) 清滝の人たちは、愛電が当初 清滝を通らずに愛宕山に向かう案を公表したときはこれに反対し、平坦線と鋼索線の駅を隣接させようとしたときも歩く人がなければ寂れるとしてこれにも反対した。愛電が開業した昭和4年から廃止される前年の17年までの乗客数は、右図のとおりで(参考文献2による)その合計は平坦線671万人、鋼索線314万人。愛宕神社参詣の人よりも清滝で逗留する人の方が多かった。与謝野鉄幹・晶子、吉井 勇が訪れるなど文人墨客に愛され、三高の学生がしばしば来遊し、愛電が清滝に及ぼした効果は大きかった。