雲雀丘住宅地

今も「私地公景」の理念が息づく街並み

犬走りや石垣を備え道路に面して“みどり”豊かな庭園を配した邸宅
 住宅地の景観を守る施策としては、都市計画に基づく地区計画などにより一定の基準を設けるという手法に頼らざるを得ないが、その制定には土地所有者の全員同意が必要であるため、開発から一定の時間が経過している住宅地については制定が難しいのが現実だ。本稿では、この困難を克服して、地区計画と景観条例により街並みを守ることに成功した雲雀丘住宅地をご紹介する。

成14(2002)年4月に雲雀丘山手地区、8月に雲雀丘地区について、都市計画法に基づく地区計画と景観条例に基づく都市景観形成地域の指定がなされ、景観形成基準が定められた。


図1雲雀丘地区の景観形成基準、青字は地区計画、緑字は景観条例にもとづくもの(宝塚市雲雀丘山手緑化推進委員会「わがまちの緑と歴史を守り隊!伝え隊!」より作成)
その内容は大きく8つある(図1)が、特徴的なのは、道路からの景観を重視し“みどり”に関する規定をふんだんに盛り込んでいること。敷地内の既存樹木はできるだけ保全することとしているのに加え、敷地内の道路に面した部分に樹木を植栽するよう努めること(緑化の推進)、垣や柵には生垣や植栽を併設すること(垣又は柵の構造)、道路面からの高さが2m以上の擁壁については道路境界との間に植栽帯を設けること(擁壁の構造・位置)、物干場やエアコンの室外機が道路から見えないようにすること(建築物・工作物・建築設備の意匠や形態)などだ。
 この、緑地の保全と道路からの景観に対するこだわりには、雲雀丘の開発者である阿部 元太郎が掲げた「私地公景」の理念が色濃くにじみ出ている。
部 元太郎は、近代の大阪経済界をリードした実業家で、近江段通や近江製油の経営にタッチしていたが、朝日新聞の創業者 村山 龍平や住友銀行の初代支配人 田辺 貞吉らが御影や住吉に邸宅を構えるのを見て高級住宅地の開発を志し、住吉村から住吉川右岸の反高林(たんたかばやし)1)・観音林の土地を安く入手し(地上権を取得したと言われている)、明治40年頃から分譲を開始した。その後も名だたる富豪が競うように住吉村に移転してきた2)。このような富裕層の転居の背景には、ひとつには、銀行条例(明治23(1890)年)や商法(26年)などの制定によって株式会社制度が発展し、経営者が自分の店に従業員と一緒に住んで事業に従事するというスタイルから解放されたことがあったが、もうひとつには大阪における生活環境の悪化があった。工業生産額が33年から44年の間に3倍に増加するなど、大阪市は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどの工業都市に急速に変貌していたが、これに伴う大気汚染や騒音の悪化は深刻だったのである。
 重要な点は、これらの実業家たちが単にこの地域に邸宅を構えただけでなく、新しいコミュニティづくりを模索したことだろう。彼らには子女教育のための適切な学校がないという共通の悩みがあったが、関西に転勤してきた東京海上保険の平生 釟三郎(後に文部大臣になる)が中心となり阿部を含む11人の発起によりまず甲南幼稚園(43年)が創設され、次第に充実して小学校から高等学校まで一貫した教育を実践するようになった。また、医療機関も必要だとして、山麓に甲南病院が開設された。このようなコミュニティの中核施設として「観音林倶楽部」を設立。
図2 阿部 元太郎の取得した土地と大正5年及び8年に申請した開発区域、昭和4年修正測図の旧版地図に記入(中島 節子「近代における宝塚市雲雀丘住宅地の開発経緯とその性格-阿部元太郎による開発を中心に-」(大阪市立大学生活科学部紀要第46巻所収)より作成)
図3 ロータリーから見た雲雀ケ丘駅、右の建物が待合室(出典:参考文献)
クラブサロン活動の先駆けとなった。なお、倶楽部の活動が現在の神戸生協のルーツになっている。
 これらの経験をもとに、阿部は自ら理想的な住宅地を造りたいと考えたようだ。大正4(1915)年頃、阿部は西谷村字桐畑長尾山の果樹園10万坪を購入し、西を流れる滝ノ谷川にある「雲雀の滝」から当該地を「雲雀丘」と名付けて開発を開始した。ここを選んだ理由として、阿部は、郊外生活の利点を活かすには1,000坪以上の敷地が望ましいとの考えから地価が安いことを主たる要因であるとし、併せて健康で文化的な生活を送るために交通の便が良く気候・水質・風景の良い南向きの斜面であることを挙げている3)。ただし、ここは5〜20%の勾配を持つ急傾斜地で(明治31年に砂防指定地となっている)、これがいろいろな意味で雲雀丘の開発を特徴づけることになる。
 土地取得の翌年から始まる開発の最初は、雲雀ケ丘駅の新設であった。この駅は阿部が設置した私駅の扱いであり、駅員がおらず、客が手を挙げると電車が止まるというものであった。駅舎は阿部の好みにより、赤い屋根と彫刻を施した柱、ステンドグラスをはめた窓、モザイクの床を有する瀟洒な姿であり、待合室の隣には玉突き場があるなど、一般の駅とは全く異なる趣であった。駅前にはロータリーが設けられ、そこから100mほどの直線道路が北に延び、両側の歩道にはシュロが植えられた。また、ロータリーの中央には阿部の彫像が建ち、阿部が所有するオースチン製の車が待機して1回5銭でタクシーのようなこともしていた(参考文献による)。隣接する花屋敷駅と350mしか離れていないところにこのような駅を設けたのは、駅をまちのシンボルに据えこれを中心にまちを作ろうとする阿部の意図によることは明らかだ。
 阿部は、駅に近いところから順次北に売却地を広げていくつもりであったようで4)
図4 駅前から真っ直ぐ伸びる道路、正面に見えるのは雲雀丘に最初に転居した林 龍太郎の邸宅、林は東京帝国大学を卒業後大阪で弁護士を開業し、阿部の開発に法的な支持を与えた、昭和60年頃に解体撤去(出典:参考文献)
現在の雲雀丘1、2丁目にあたる約7万坪の開発から始めたが、その方針は、前年の開発許可申請にもあるように「止ムヲ得ザルモノノ外 原形ヲ変ズルコトナク天然ヲ尊重」することだった。先述の直線道路から山麓に向かっては、地形に沿って曲線道路を自動車の通行が可能な規格で築造し、水道・ガス・下水5)を埋設し、排水のための側溝を設けた。宅地の形状は地形に応じた自由な区画とし、200〜500坪程度の区画が山林のまま売買された。また、販売にあたっては、@建築のために敷地の一部を平坦にするほかは傾斜地のまま庭園として利用し既存の樹木を保存すること、A道路に沿って60〜90cmほどの犬走りを設けて樹木を植え、電柱はここに建てること、B敷地を生け垣か樹木で囲むこと、などを買主に要請した。
 これほどに自然の保全と景観の形成を重視するのは、雲雀丘が砂防指定地になっていることも影響しているが、多くは阿部の「私地公景」の理念によるところが大きい。商業目的が強く出る一般の宅地開発と比べれば、自然の地形に応じた最小限の伐開にとどめるなど、極めて理想主義的であったといえる。一方、主な顧客になった会社役員や知識人層は、自らも洋行した経験をもつなど、一般的な住宅のレベルをはるかに超えた理想的な住宅を建てたい意欲を持っていた。双方の想いが相まって、良質で個性的な住宅地が形成されたといえる。阿部自身も住吉から移転して、赤い屋根のハーフティンバー6)の洋館で室内でも靴を履いて過ごすほどの洋風生活を楽しんだ。
 雲雀丘の土地購入後は自治会7)がまちの管理方針を決めることになっており、阿部を始めとする住民の協働も盛んであった。また、「白鳳倶楽部」という住民交流組織もでき、駅の北西に会館を開設してビリヤードや茶会などを催した。ここは村の出張所も兼ねていて、予防接種や投票所に使われた。駅の東には請願派出所(住民が費用を負担する派出所)がおかれた。教育施設も次第に充実し、自治会の誘致により大正11(1922)年に私立小学校「雲雀丘学園」が、13年に「雲雀丘家なき自然幼稚園」が開設された。
のように、雲雀丘では、阿部の開発方針に共感した住民による自治的な協力が奏功して高級住宅地としての認知を高めてきた。しかし、理念の共有や自治会の統治は地権者に対して強制力を持つものではないから、表題の写真のように犬走りや生け垣を保存する“お屋敷”が残る一方、土地が転売されたり世代が変わったりしてマンションに建替わる例や区画を分割してそれぞれの敷地いっぱいに建築する例が出てきた。このような開発は、鉄砲水の発生や交通量の増加など住民の安全を脅かす影響を与えた。折しも当地に住む学生が雲雀丘住宅地の歴史をまとめる調査8)に取組んだのを契機に、住民の間で住宅地の歴史的背景を見直そうという動きが生じ、その成果が「宝塚市雲雀丘・花屋敷物語」としてとりまとめられた(平成12(2000)年)。さらに、当初の理念をまちづくりのルールとして現在に呼び醒ます方向に運動は発展し、自治会のなかに設置された「地区計画等推進委員会」(12年)が図1の8つのルールに法的拘束力を持たせることを目指して9)、すべての住民と地区外地権者に対して2回のアンケート調査、3回の説明会・意見交換会、7回のニュースレター発行を行い、圧倒的多数の同意を得て市長に要望書を提出し、都市計画法に基づく地区計画の指定と景観条例に基づく地区指定に至った10)(19年1月には、地区計画や景観条例の規定に加えて、自治会と行政の協働により「まちづくりルール」が補足的に定められている)。また、緑化に関する住民の自治活動として「雲雀丘山手緑化推進委員会」に「このまちに新たな緑を育て隊!伝え隊!」(13年)が組織され、公園の清掃・維持、苗木配布による空地への植樹、子どもを対象とした「みどりの勉強会」の開催、地区の自然環境に関する自主調査などを続けている。
 本件は、住宅地の歴史を知ることにより住民のシビックプライドに火が付き、地域のアイデンティティが共有されてまちづくりのルール策定に至った希有な例と言うべきかも知れない。しかし、個性のある美しい街並みを作っていくためには、それぞれの住宅地で同様の取組みが期待されるのである。
駅前道路 KT邸 旧安田邸 TJ邸 OT邸 KN邸
MM邸 MK邸 YK邸 高崎記念館 SJ邸 OZ邸
TM邸 TN邸 KT邸 HM邸 TZ邸 KJ邸
図5 雲雀丘で見られる開発当初を偲ばせる邸宅等

(参考文献)  宝塚雲雀丘・花屋敷物語編集委員会「宝塚雲雀丘・花屋敷物語」 
(2013.09.24) 

 
1) 反高とは収穫が少なくて石高が付けられないことに由来する地名らしい。

 
2) 東洋紡績社長 阿部 房次郎が元太郎の分譲地の一部を取得したほか、近隣に東洋紡社長 小寺 源吾、鐘ヶ淵紡績社長 武藤 山治、日本生命社長 弘世 助三郎、大林組社長 大林 良男、野村銀行社長 野村 元五郎、武田薬品工業社長 武田 長兵衛らが邸宅を構え、住吉村は「日本一の長者村」と呼ばれたという。

 
3) 有馬箕面電気鉄道「山容水態」第3巻第7号。なお、同誌は、郊外生活の魅力を紹介する雑誌で、大正2(1913)年に創刊されたもの。

 
4) 実際には販売は順調ではなかったようで、大正11年頃の時点で売却できていたのは13,659.8坪であったという記録がある(安田 孝ほか「日本住宅株式会社の郊外住宅地」(「平成6年度日本建築学会近畿支部研究報告集」所収)。図2を見ても、駅から離れ傾斜のきついところはかなり売れ残っていることがわかる。こういう不振も手伝ってか、阿部が始めた開発は次第に土地会社に委ねられるようになり、大正12からは阿部が社長を務める「日本住宅株式会社」が販売を受託し、昭和11年頃からは売れ残った土地は阪急の手に渡って同社が開発・販売を継承している。

 
5) 水道は開発地の中に2箇所の水源と配水池を持ち、阿部の使用人が管理していた。ただし、井戸を使用する戸も多かったようだ。ガス供給事業は当時では珍しく、住人であった大阪ガス元社長 片岡 直方が経営していたという。このガスタンクは後に爆発事故を起こしており、その後どのように供給されたかは不明。また、各戸に水洗便所が整備され、数軒ずつ共同の浄化槽を敷地内に設置し、下水に放流していた。(参考文献による)

 
6) 柱・梁・筋交いなどの軸組を隠さないでその間を漆喰・レンガなどで充填した建築様式。英・独・仏国の木造建築に多く見られる。

 
7) 自治会名簿には、東洋製罐社長 高碕 達之助(後に経済企画庁長官になる)、大倉土木取締役 籠田 定憲、東洋加工綿業社長 堀 文平、大阪毎日新聞常務取締役 河野 三通士(みつし)、大同洋紙店社長 谷野 弥吉、大阪鋼材代表 阿部 政次郎、建築家 日高 胖などの名が見えるという。(参考文献による)

 
8) 甲田 拓「宝塚市雲雀丘地区の住宅地開発に関する史的研究」(平成8年度京都大学卒業論文)

 
9) すでに当初の景観が失われている住宅についても適用できるものにするため、一律のルールとはせず、例えば緑化の推進のためには、敷地の20%以上を緑地にするよう努めることを原則としつつ、それができない場合は緑被率(樹冠(屋上緑化を含む)の投影面積の敷地に対する割合)や緑視率(樹木の立面積の建物の立面積に対する割合)を一定以上にする規定を設けるなどの工夫をした。

10) 市は、当初、景観条例について、これは小浜宿など歴史的景観を有する地区に適用するものとの理解していたが、あらゆる手段を駆使したいとする住民との話し合いの中で雲雀丘への適用を決断したと明かしている(http://www.kkj.or.jp/
contents/check_publication/symbiotic/10_37/SH37_h%202.pdf)。