こ     や
昆 陽 池

「生き菩薩」行基の開発事業を探る

マガモやユリカモメが群れる冬の昆陽池
 大阪空港を飛び立った飛行機が大きく旋回するとき、左の窓外に日本列島の形の島を浮かべる池が見える。昆陽池だ。これが奈良時代に行基によって作られたことは広く知られているところ。今回は、昆陽池をはじめとする行基の土木事業について見てみよう。

図1 行基による主な公共事業
基は、天智天皇7(668)年に河内国(後に和泉国になる)の大鳥郡に生まれ、15歳で出家し飛鳥寺で道昭に師事した。道昭は、長安に留学して玄奘に学び、帰国後は後進の養成に努めるとともに、民間で井戸や橋の整備を進めた人物。独立した行基は、生家を改めて家原(えばら)寺とし、ここを拠点に教団を形成していった。その後、活動範囲を近畿一円に広げ、民衆を教化して橋6カ所、舟息2箇所、布施屋1)9箇所、直道1箇所、堀4箇所、池15箇所、溝7箇所、樋3箇所を造作するに至っている(「行基年譜」(安元元(1175)年)に登載の「天平十三年辛巳記」2)による)。主なものを図1に示した。
 養老7(723)年に「三世一身法」が発せられるまでは、国民は国から口分田(くぶんでん)3)を貸与されこれを耕作して納税するという、公地公民制が原則となっていた。この例外を許しさらには天平15(743)年に「墾田永代私財法」を発して農民の自主開墾を促したのは、おそらく人口の著しい増加または天候不順による不作が背景にあったものと思われる。最初はその布教活動を弾圧していた行基を寛恕して(天平3(731)年)狭山池の修築に当たらせたのは、彼がそれまで民衆の要望に応じて潅漑施設の修築などを行ってきた実績が無視できなくなり、彼の技術力や組織力を利用して自ら営農の安定・拡大を進めるしかなかった朝廷の事情によるものであろう。
 墾田の自由化により富農はますます田圃を増やし生産を拡大していけたであろうが、前記の社会背景は、条件の悪い口分田を割当てられた者や傷病者・高齢者・乳幼児などを抱える者にはとりわけ厳しく作用したに違いない。耕作を放棄して逃亡することや生産に従事できない成員を遺棄するようなことも横行したのではなかろうか。天平13年、行基は山城国泉橋院で聖武天皇に謁見し、「為奈野(いなの)」の地に「給孤独園(ぎっこどくおん)」を開設することを願い出て許された。
図2 猪名野の地勢、行基の開発範囲の参考として現在の地名を付した
「給孤独園」とは身よりのない子どもや老人を収容し教化する施設であったようで、釈迦がインドに設けた「祇樹(ぎじゅ)給孤独園精舎(しょうじゃ)」(「祇園精舎」の通称で知られる)をモデルにしたものだとされる。この時行基は、東は伊丹坂、西は武庫川、北は鴻池五通の辻、南は富松笠池堤に至る方50町(約5.5km)の土地を下賜され、昆陽上池・昆陽下池など5つの池と昆陽上池溝・昆陽下池溝を整備して開耕したと伝えられる。あわせて昆陽布施屋も建てている。
こで、行基が着目した猪名野について見ておこう。猪名野は、猪名川と武庫川に挟まれた台地で、古来、笹原が広がる寂しいところとして知られていた4)。この中央を東西に小野寺断層帯が通っており、
図3 伊丹台地における潅漑設備の概要、昆陽上池溝・昆陽下池溝の特定は参考文献2による、ただし 昆陽下池の規模や形状は想定に過ぎない
これに沿って土地が低くなっているようで、背後の長尾山系に源を発する天神川と天王寺川はいずれもここで西折して流れる。行基は、ここにため池を作り両河川の水を台地の東南方向に流して大規模な開墾を行ったように思える。行基は開発地の運営のために「昆陽施院」を建て、150町(約1.49km2)の水田を施入してその運営の経済的基盤とした。
 なお、「給孤独園」を猪名野に設けたもうひとつの理由に有馬温泉との関係も指摘されている。有馬温泉は、舒明天皇や孝謙天皇の度重なる御幸により著名となったが、その後は衰退していた。これを再興したのが行基である。薬師堂を建立し、万病に効くと名高い有馬温泉を庶民の湯治の場として活用しようとした(「行基菩薩、もろもろの病人を助けむがために有馬温泉に向かひ給ふ」(「古今著聞集」(建長6年(1254)年))。猪名野は難波から有馬温泉に向かう「有馬道」の上にある。 
期は明確ではないが、中世に昆陽井(ゆ)が整備されている。西野村(現在の伊丹市西野)で武庫川から取水し、昆陽・池尻・寺本・山田・野間・御願塚(ごがづか)・堀池・南野の8村が利水するという大規模な潅漑施設だ。井水は関係する村で共同管理され、用水が分かれる「洽」(こう)ではそれぞれの幅や深さが詳しく取り決められ、所定の割合で導水するようになっていた。
 昆陽井のルートはよく考えられていて、昆陽下池溝の起点を通ってこれに水を補給するとともに、昆陽上池溝の終点に達して、ここからさらに台地の東南方向に開墾地を広げることを企図していたと思われる。昆陽井の水量は豊富であったようで、
図4 昆陽上池溝の現況(住宅の間を流れる開水路(左)と暗渠化された道路並行箇所(右))
昆陽井の水を下池溝に落とすことを条件に、昆陽下池を埋めて田地にすることを認める文書(慶長13(1608)年)が地元に伝わっているそうだ。こうして行基が先鞭を付けた猪名野の開墾は、多くの無名の人々の努力により継続され、江戸時代の初期に至って台地の全体が耕地に開発されたのである。昆陽上池溝や昆陽下池溝は、台地の潅漑体系に組み込まれて重要な役割を果たし続けた。
 近代化の波が押し寄せると、平坦な伊丹台地の田畑は宅地に造成され、溝や井水などの潅漑水路はコンクリート張りになり、さらに暗渠化されて、
図5 昆陽井に合流する昆陽上池溝
その存在が忘れられようとしている。それとともに、昆陽池の機能も減退して、昭和36(1951)年にはその東部の約1/3が埋め立てられて企業の社宅・グランドや「県立こやの里養護学校」などが建設された。一方、都市部の自然環境を残そうとの観点から、47年からは池を総合公園と浄水用貯水池とする整備が進められた。現在は野鳥の飛来地として知られる。

(参考文献)
1. 「昆陽池・昆陽井−絵図にみる村のすがたII」(伊丹市立博物館)
2. 田原 孝平「摂津国川辺郡山本里における行基の造池・造溝等について」(「地域研究いたみ第23号」(伊丹市立博物館)所収)        
                                                (2014.03.12)

1) 困窮した旅人を救護する施設であったとされる。

2) 朝廷の求めに応じて行基がそれまでの実績を報告した文書であると考えられ、信憑性が高いとされている。

3) 養老令(天平宝字元(757)年)によると、6歳以上の男に2反(2,400m2)、女にその2/3の口分田を支給し、その収穫から徴税された。口分田を支給は6年ごとに見直された。

4) 猪名野はしばしば歌枕(その土地のイメージでもって詠み人の心情を象徴させるために用いる地名)に取り上げられ、「しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿りはなくて(「万葉集」)」、「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする(大弐三位「後拾遺集」)」などが有名である。