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阪は淀川の河口に開けた港湾都市として発展してきたと言えるが、一方では洪水にも悩まされてきた。近世に入って、「天下の台所」と呼ばれるほどの繁栄を見るようになってからも、豪商 河村 瑞賢による安治川の開削(貞享元(1684)年)や河内国の庄屋 中 甚兵衛による大和川の分離(宝永元(1704)年)などの治水事業が行われたが、
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図1 四条畷神社にある大橋 房太郎の紀功碑 |
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図2 淀川河川公園(長柄地区)にある沖野 忠雄の像 |
それでも洪水の被害から免れることはなかった。明治18(1885)年の洪水では、大阪府の約20%にあたる151.4km2が浸水し、流失または損壊した家屋が約1万6,500戸、橋の流出が天神橋や天満橋を含む31橋にのぼった。
この惨状を見て、淀川を何とかしなくてはならないと考えた人がいた。大橋 房太郎(万延元(1860)〜昭和10(1935))だ。現在の鶴見区放出(はなてん)に生まれた大橋は、東京で法律家を目指していたが、一面が泥の海になった故郷を見て法律家への夢を絶ち、大阪府会議員になって国に淀川改修の必要を訴え続けた。白いスーツ姿がトレードマークであったという。日清戦争のあおりで遅れはしたが、功成って29年に河川法をはじめ淀川の河川改修に係る法案が可決。貴族院の傍聴席にいた大橋が「淀川万歳!」と連呼して警吏に退席させられたという逸話が伝わる。
同年からはじまる「淀川改良工事」は、第4区土木監督署長であった沖野 忠雄(安政元(1854)〜大正10(1921))の指導により進められた。沖野は豊岡市大磯に生まれ、明治3年に藩の貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学してフランス語を学んだ後、8年から6年間
文部省留学生としてパリのエコール・サントラール(中央工科大学)に留学して土木建築工師の免許を得ていた。帰朝してしばらく職工学校で教えていたが、内務省に異動になって全国の河川治水に携わることとなる。
ともと淀川は長柄付近で大川と中津川に分かれ、それぞれが蛇行しつつ河口付近で多くの派流を生じていた(図3)。これを直線の河道でもって大阪湾まで導くべく新淀川が計画された。工事に要する1,146町歩の買収は困難が予想されたが、先祖伝来の土地を手放すことになる地権者の罵声を浴びながらも大橋府議らが用地職員とともに熱心に説得に当たった結果、
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図3 新淀川が開削される以前の淀川(明治18年測図、河川名の補入と水面の着色は筆者) |
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図4 新淀川の堤防の標準断面 |
全体としては円滑な取得ができたと伝えられている。 新淀川は、計画高水流量を5,560m3/秒として、水面勾配が1/3,000〜1/4,000になるように設計され、川幅は300間(約545m)から500間(約818m)に及んだ。また、堤防は天端幅3間(約5.45m)で両法(のり)の勾配は2割(1:2)とした。堤防の高さは計画高水位に3尺(約0.91m)の余裕を見込んだが、その理由について、淀川改良工事計画に「ケダシ従来大洪水ノ際ハ必ズ数カ所ノ破堤アリテ大ニ水位ヲ軽減シタル所アルニヨリ、最高水位ハ洪水ノ最大流量ニ相応セル程度ニ達シタルコト淀川ノイズレノ所ニ於テモ未ダ曽テコレナキナラン。是レ改修ノ後、河積ノ増加スルニカカワラズ水位却テ増嵩スル所以ナリ」とあって、改修の後は破堤することはないとの沖野の強い自信が垣間見える。
新淀川の開削工事は、まず、これに沿って計画されている長柄運河の開削から始まった。長柄運河は、新淀川によって分断される中津川の下流に連なる伝法川・正蓮寺川・六軒家川などに給水するとともに、新淀川以南の地域における潅漑などの利水に対応すべく計画されていたが、新淀川の工事中は、開削に伴って排出される不用土砂を河口に運ぶのに利用できると考えられたからである(実際には、不用土砂は地元の請願により
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図6 ドイツ製の浚渫船、掘削機と同じバケットラダー式で、浚渫土は傍らに位置したドイツ製の土運船に排出された(出典:参考文献1) |
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図7 土運船は日本製の蒸気船で曳航された、土運船が着岸すると掘削機と同様の仕組みを持つドイツ製土揚機にて陸揚げし、所定の箇所に運搬されて築堤の用土となった(出典:大阪市立博物館「歴史のなかの淀川」) |
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図5 フランス製のバケットラダー式掘削機(ベルトコンベアのようなものにバケットを取り付けたもの)、掘削土は背後の吐出口からイギリス製機関車で牽引される土運車(トロッコ)に落とす仕組みになっていたが、掘削位置の変更の都度
掘削機と土運車が移動するレールを付け替えるのに労を要したという(出典:参考文献1) |
周辺の低湿地の盤上げに転用され、捨土は少なかった)。
新淀川の本流の工事には31年度から着手した。沖野のフランスでの知見を踏まえ、わが国で初めて大規模な機械施工が取り入れられた。当時、建設機械は国内では製造されておらず、3名の技師を各国に派遣して視察・購入させた。
淀川と在来の河川との分合流部には樋門や閘門が設けられたが、そのうち最大のものは大川との分岐点にある毛馬洗堰と毛馬閘門であった。洗堰は、幅3.64mの水通しを10門有する総幅52.72mの規模で、両側壁と9本の堰柱に縦溝を設けここに角材を落とし込んで流水を調節するものであった。閘門は、水位差のある新淀川と大川の間を船が往来するのに用いる施設で、有効長81.81m、
幅10.91m。前後に1対の鉄製の扉をつけた(標題の写真)。洗堰と閘門はいずれも煉瓦積みとし、要所に石材を配した。地質調査から計画地には細砂が堆積していることが判明したので、遮水のために煉瓦積みの角井戸を並列して沈下させ
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図8 毛馬洗堰・閘門の全景、現在の洗堰と閘門が新淀川の上流方向と大川を連絡している(図12)のに対し、当時のものは下流方向に向いていた、新淀川に沿って長柄運河も見える(大阪市立図書館所蔵) |
コンクリートを詰める形式の基礎工が採用された。
工事が活況を呈する明治37(1904)年、日露戦争が始まった。多額の軍事費を捻出するため、淀川改良工事も可能な限り後年度に送ることを余儀なくされた。作業員の90%が解雇され曳舟も軍用に徴発された。この事態は大橋ら工事の推進を期待する人たちを心配させたが、その中でも、すでに基礎の沈下に着手していた毛馬閘門は施工の中断はできないとして継続が許され、洗堰の工事も休止からまぬがれた。幸い、戦争は短期にわが国の勝利に帰したので、翌年からは事業緊縮が解除され、曳舟も還付されて再び淀川で活躍することになった。なお、この中断と付帯工事等の増加のため、淀川改良工事は工事費の増額と工期の延伸(3年)を行っている。 |
図9 新淀川の開削によりその右岸の中津川は廃され下流の正蓮寺川等には長柄運河がつながることになった(大正13年測図、昭和4年修正測図) |
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図10 新淀川下流方向から見た毛馬洗堰(左)と毛馬閘門(右)、新淀川はここから大きく左に曲がっている(出典:大阪市歴史博物館「歴史のなかの淀川」) |
図11 大川から見た毛馬閘門(右)と長柄運河(左)(出典:「大阪市の100年」刊行会「目で見る大阪市の100年」(郷土出版社) |
治42年6月、淀川改良工事の主要な施設が完成し盛大な竣工式が毛馬で開かれた。時の大阪府知事
高崎 親章が委員長となり、関係官庁の代表者や沿川の住民ら1,000人が参集した。知事の式辞に続いて各界の来賓から祝辞が述べられたが、
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図12 木立の中に屹立する「淀川改修紀功碑」 |
中でも一貫して淀川改修運動を続けてきた大橋の弁は参会者の胸を打ったという。このとき建てられた碑は今も淀川河川公園(長柄河畔地区)にそびえる1)。
新淀川の開削により、洪水の危険が軽減(それまでの淀川は約10年に1回の頻度で洪水を起こしていた)されたのはもとより、従前の中津川より流速が速くなり、新淀川右岸の地域では低湿地の排水がよくなった2)。左岸においても大川の水位が下がったことから、寝屋川流域などの排水がよくなり、良好な農地が形成されるようになった。
談ではあるが、同時代に進められた湊川のつけ替え事業と比べたとき、両事業における官民の役割の相違が顕著である。すなわち、湊川のつけ替えでは、事業によって利益を受ける者が官の許可を受け、
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図13 長柄運河に架かっていた眼鏡橋 |
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図14 毛馬洗堰・毛馬閘門付近の現況 |
自ら費用を負担して事業を行ったのに対し、新淀川では、事業は税を原資として国が行い、民の活動は官への要望・協力が中心になり民意を届ける政治家の存在も重視される。国民から集めた税を再配分することで、受益者が薄く広く分布する事業や、受益者に負担能力がない事業でも実施できるようになったのだが、その反面、利益と負担の関係が直接には見えづらくなり、これを調整する官の説明責任は格段に大きくなったといえるだろう。
野らの手による毛馬洗堰と毛馬閘門が、淀川改良工事の代表的遺構として、平成20(2008)年に国の重要文化財に指定された。そこに行くには、市道中津太子線の毛馬橋西詰めから5分ほど北西に進み、「眼鏡橋」をわたる。図11に本橋の往時の姿が見えるが、後述する経緯により長柄運河は埋め立てられている。
当時の洗堰と閘門は昭和49(1974)年に完成した現在の洗堰と閘門に役割を譲り、遺構としてのみ存している。
旧毛馬閘門は、明治40年8月に完成し昭和51年1月まで使用された。前扉と後扉との間で1mほど河床の差がある。旧毛馬閘門は大正7(1918)年に毛馬第二閘門3)が
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図15 マイターゲート形式(左)とストニーゲート形式(右、扉溝にローラーがついている)の鉄扉の駆動装置 |
できてからは毛馬第一閘門と呼ばれ、船の通行のための水位調整機能は第二閘門に譲って、高水時に閉扉して洪水を防ぐ役割を担うことになった。閘門の鉄扉は観音開きのマイターゲート形式であったが、扉の開閉の迅速のため(マイターゲート形式は水圧に抗して扉を開閉するため時間がかかる)、昭和4年に上下に開閉するストーニーゲート形式の制水扉が追加されている。
旧毛馬洗堰は、操作に要する労働力の軽減と急激な水位変化への対応のため、昭和36年に鋼鉄製電動扉に変えられ、39年には自動制御ができるよう改良が加えられた後、49年に廃止された。
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図16 3門が保存されている旧毛馬洗堰 |
56年に設置された毛馬排水機場4)に支障したため、10門のうち3門だけが保存されている。
こからは、新淀川と同時に整備された長柄運河のその後について述べることにしよう。長柄運河については、
下流の正蓮寺川等に河川水を供給する機能が従前の中津川と共通しているためこの運河を中津川と呼ぶこともあるし、下流の正蓮寺川と併せて当該部分も正蓮寺川と呼ぶこともあるが、
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図17 正蓮寺川利水事業開始前の長柄運河、幅員は約20mだった(出典参考文献2) |
本稿では一貫して長柄運河と呼ぶことにする。
長柄運河の計画目的はすでに述べたとおりであったが、次第に潅漑や舟運の需要が減退する一方、産業・経済の発展、人口の都市集中、生活水準の向上、地盤沈下対策による工業用水の供給増大等が著しく、新たな水資源の開発が課題となっていった。昭和42年、長柄運河を流れる約11m3/秒の流水のうち舟運のための水深維持、河川の浄化及び雑用水、潅漑用水である8.5m3/秒を需要の増大する都市用水に転用し、併せて舟運に替わる輸送手段として街路を当該地に整備することが企画された。「正蓮寺川利水事業」である。
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図18 埋立てられた長柄運河、毛馬閘門のやや下流に工業用水の取水樋門が見える(出典:参考文献2) |
その内容は、@毛馬から海老江にかけての長柄運河を埋立て8.5m3/秒の水資源を確保 A下流の正蓮寺川及び六軒屋川の河川浄化のために淀川感潮部から最大22m3/秒を取水 B従前の長柄運河に依存していた2.4m3/秒と追加の0.6m3/秒の工業用水に対して新たに取水樋門と導水路を設けて対応 C埋立てた土地に大阪都市計画道路淀川南岸線を整備
Dその下に大阪市下水道北部排水区中津川幹線を建設 E高潮対策事業の一環として必要となる内水排除の施設をAの分水施設と兼用させるという、きわめて複雑な構成となっていた。事業は水資源開発公団が行い、全体の事業規模は69.1億円。その内訳は、利水事業が41億円、街路事業が17億円を負担し、高潮事業から2.5億円、下水道事業から8.6億円を受託するというものであった。このような共同事業や共同施行は、4つの事業の目的をそれぞれ達成するとともに、地盤沈下によってしばしば溢水に悩まされていた長柄運河沿川住民を水魔から解放することもでき、「一石五鳥」の効果と称された。
らに、淀川南岸線の上には阪神高速道路大阪高槻線の導入も予定されていた。これは、大阪都心を走る阪神高速道路環状線の外側に「第二環状線」を整備する構想の一環として都市計画の手続きが進められていたものであったが、反対する住民らが都市計画審議会5)の会場で消火器の薬剤を噴射するなどして抵抗したため、計画決定は見送られた。
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図19 活用が待たれる長柄運河の跡地 |
そのため、大阪高槻線と一体的に整備されることとなっていた淀川南岸線の工事も着手されず、46年に完成した長柄運河の埋立地は図19に示すような空地となっている期間が続いた。
大阪高槻線の都市計画決定は断念したが、大阪市は都心の北部を東西に走る環状路線は必要と認識しており、住民に受け入れられる高速道路計画の立案に努めた。そして平成8(1996)年に「淀川左岸線(2期)」を都市計画決定。長柄運河の跡地を利用しつつ、高速道路の躯体を新淀川の堤防と一体となった地下構造とするという
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図20 淀川左岸線(2期)の標準的な計画断面 |
ユニークな計画だ。高速道路の上部は歩行者専用道や緑地として整備される。広域的なネットワークの形成や周辺道路の混雑緩和など高速道路に求められる機能を果たしつつ、新淀川の堤防の強化や親水性の向上など、都市と河川の新たな関係作りの役割も担う。淀川左岸線(2期)は、25年5月に開通した阪神高速道路2号淀川左岸線から東に延びる部分で、阪神高速道路として運用されることが決まっているが、当面は大阪市が街路事業として行う(本道路のように有料道路事業と他の事業を組み合わせて整備する手法を「合併施行」という)。2号淀川左岸線やその2期区間は、都心に集中する交通を分散させ、都心の周辺に新たな都市拠点を形成することが期待される「大阪都市再生環状道路6)」を形成する。長柄運河の跡地が活用される日も近い。 |
(2013.08.20) (2013.12.24) |
(参考文献)
1. 淀川百年史編集委員会「淀川百年史」(建設省近畿地方建設局)
2. 水資源開発公団中津川建設所「正蓮寺川利水工事誌」
1) それでも淀川の猛威はおさまらなかった。大正6(1917)年には大塚堤防が決壊して再び洪水に見舞われる。くじけない大橋は「淀川再改修期成同盟会」を結成して運動を続け、大阪府議会は、ここで決壊しなければ他の箇所で「決壊を見るべきは、火を見るよりも明らか」として全川の再改修を求める意見書を内務大臣に提出した。政府も淀川改良工事の大要を踏襲しつつも部分的な再改修の必要は認め、翌7年から「淀川改修増補工事」として堤防の拡築や補強が行われた。これが現在の淀川堤防になっている。
2) 新淀川が開削されるまで、現在の東淀川区・淀川区付近の排水の悪さは深刻だった。その例として「中島大水道」をご紹介しよう。延宝6(1678)年、雨水が引かないため耕作に支障をきたした農民らが、幕府の許可を得ないまま排水路の建設を断行し、東淀川区西淡路〜西淀川区福町間
約9.2kmの水路を28日で掘りあげた。竣工と同時に、指導した3名の庄屋が責任をとって自刃した。この中島大水道は新淀川開削まで220年にわたり恩恵を与えたが、今は道路などに形を変えている。
3) 毛馬第二閘門は、「淀川改修増補工事」の一環として行われた大川の浚渫により大川の水位が著しく下がったため、第一閘門に替わって水位調整の機能を果たすべく建設された。規模は第一閘門と同等である。現在は、閘室と大川に面する扉を利用して淀川河川事務所毛馬出張所の艇庫に転用されており、見学には事前の申込みが必要だ。
4) 毛馬排水機場は、高潮や洪水の際に毛馬洗堰を閉じても大川の水位を保つために、寝屋川等から大川に流入する水を新淀川に排出する施設。最大330t/秒の排水能力を持つ。
5) 都市計画について調査・審議するため都道府県単位でおかれた審議会。学識経験者、議会の議員、関係行政機関の代表などで構成される。平成12(2000)年に、地方分権の観点から、都道府県の行う都市計画に関することは都道府県の都市計画審議会、市町村の行う都市計画に関することは市町村の都市計画審議会が審議するように変更されている。
6) 大阪の臨海部を走る阪神高速湾岸線と内陸部を走る近畿自動車道を、阪神高速大和川線・淀川左岸線などで結んで環状道路とする構想。平成13年には国が策定する「都市再生プロジェクト」に取り上げられている。
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