水 路 閣

百年の歴史を経て評価される土木景観

南禅寺の境内を通る水路閣、ローマの水道橋を思わせるデザインだ
 昭和40年頃、京都タワーの建設を巡り、京都の景観に似合わないとして反対する運動が起きた。その後も、都心でのマンション建設や高層ホテル、大規模駅ビルの計画が浮上するたびに同様の論争が起きる。本稿では、最初の景観論争と言うべき水路閣を題材に、景観について若干の考察をしてみたい。

禅寺は、今からおよそ720年前の正応4(1291)年に亀山法皇が無関普門禅師を開山に迎えて開創された古刹だ。その三門は、石川 五右衛門の「絶景かな」のせりふで有名な歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の舞台になったところでもある。ここから国宝となっている方丈に向かう途中、参道の右手に煉瓦造りのアーチ橋が見える。水路閣だ。水路閣は、琵琶湖の水を京都に導く総延長23kmに及ぶ「琵琶湖疏水」の一部で、蹴上から松ヶ崎に向かう「疏水分線」にある、延長93.17m、幅4.06mの14連アーチ橋。地上14mの橋の上を、「哲学の道」にむけて勢いよく水が流れる。
 これが完成したのは明治23(1890)年。今でこそ水路閣を「南禅寺の古めかしさになじんで、今では一種の美を湛えている」と評している南禅寺であるが、計画を示されたときは激怒したらしい(南禅寺は京都府との争いを裁判に持ち込んでいる)。疏水建設を指導した田辺 朔郎は、南禅寺周辺の疏水計画について「寺社名勝の地であるから自由の線路をとりがたく、ために隧道や水路閣などを建造するの困難を免れなかった」(田辺 朔郎「琵琶湖疏水史」(大正9年))
図1 亀山法皇の遺骨を祀る南禅院に行くには水路閣をくぐらなければならない
と簡単に記しているだけだが、もともと南禅院の背後をトンネルで抜くつもりでいたところ、亀山法皇の分骨を埋葬しているとして宮内庁が反対したため、南禅寺の反発を押し切って現ルートに水路閣を建設したようだ。
 この決定については、福沢 諭吉も明治25年5月13日の「時事新報」にて、「日本国は世界の遊園にして京都は其遊園中の遊園なり(中略)京都にして名所旧跡を失えば、誰れか京都をみるものあらんや。帝都は既に東京に移りて商売は神戸大阪に去り、唯残るものは山水の美と寺社仏閣の古さのみ」と述べて、京都は近代都市になるのではなく古都として観光化していくのが望ましいとの考えを示した上で、琵琶湖疏水については、古都の美観や社寺の典雅を破壊するとして「事物の緩急前後を誤り、
図2 「琵琶湖疏水地図」に挿入された水路閣のスケッチ(京都市上下水道局所蔵)
いわゆる文明流に走りたる軽挙」だと論難している1)
 このような景観論争に対する朔郎の答えは「煉瓦と花崗岩とで外見を美ならしめ」(前掲書)ることだった。入念な完成予想図でもってデザインを検討し、予算不足の中で、疏水の工事費総額の1%以上に当たる14,627円(現在価格で約1.6億円)を当該区間にかけている。
今、
南禅寺を訪れる観光客の多くは境内にある水路閣に違和感を持っておらず、むしろ「落ち着いている」「風景に溶け込んでいる」「南禅寺の格式にマッチしている」「味わい深い」などの感想を抱くようだが、これは構造物の「エージング効果」によるところが大きい。エージングとは、
図3 蹴上付近の琵琶湖疏水とそれに関連する施設の現況
環境設 計における手法のひとつで、時間の経過による周辺環境の変化と構造物の変化(汚れも含む)を予想してこれを取り入れようとする考え方である。水路閣においては、エージング効果の期待できる煉瓦を用いたことと吟味されたデザインを採用したことが今日の成功を導いたと言える。平成8(1996)年に国の史跡に指定された3)
 ただし、「良い景観」というときの「良い」という価値は、構造物自身の属性として実在するものではなく、あくまで観察者の主観によるものである。水路閣の場合、琵琶湖疏水がわが国で最初の電車を走らせて京都の近代化に貢献し、市民に衛生的な水道を提供したことなど、その意義が肯定的に受け止められていることも、
図4 インクラインを見下ろす田辺 朔郎の像、昭和57年に建てられた
観光客らの積極的な評価を引き出している要因であろう。
 工事中愛用するノートの表紙に「It is not how much we do, but how well.4)」と記して座右の銘としていたという朔郎の像が、水路閣から疏水に沿って400mほど上流に行った所に建つ。彼が手にする図面には百年後の疏水の姿も描かれていたのであろうか。
って現代の景観問題について一考しておこう。パリとの姉妹都市40周年を記念して、鴨川の三条大橋と四条大橋の間にフランス風の橋を架けることが、京都にふさわしくないと反対運動が起こったことがあった。フランス風の橋を提案した人とて京都の景観を破壊することを意図したのではなく、京都の景観にフランス風の意匠が混じることを「良い」と考えただけである。これが料理であるならば、京料理にフランス料理の素材を用いるのをおもしろいと思うか変だと思うかは各人の主観によることが明らかであって、料理人の技術が一定の水準であればそれぞれを好む人の割合に応じて店が 選好されるであろうが、景観に関しては、それが代替のきかないものであるだけに、攻撃的な議論になりやすい。
図5 三条大橋(左)と四条大橋
 参考までに、計画された橋に隣接する三条大橋は、橋脚が石から鉄筋コンクリートに替わっているものの木造欄干に豊臣 秀吉が改修したときの擬宝珠を残す伝統的な様式。四条大橋は、蛙股の断面をした高欄や手すりの反りに古典的意匠を採用しながらもすっきりとまとめられた橋面工が新鮮だ。両橋のデザインコンセプトは異なるが、今ではいずれも京都を代表する名橋と認識されている。
 市民がこれほど幅の広い嗜好を受容している現実を見れば、今後 建設されるものについても、景観面での多様性は考慮されて良いのかも知れない。諭吉の誤りを繰り返さないためにも、市民らが冷静に意見交換できる仕組みが望まれる。
 もういちど料理のたとえを繰り返せば、京料理は、禅僧が中国から学んで帰ったものがもとになり、それに野心的な料理人による素材や料理法の工夫が加えられて現在のような完成度の高いものになったのだ。土木構造物のデザインについてもこのような進化を促すには、上記の仕組みのもとであえて景観論争を挑んでいくことも必要だろう。

(参考文献) 苅谷 勇雅「明治期の京都の風致景観行政に関する歴史的研究」(土木学会「土木史研究」第11号所収)

1) 明治25年5月13日付け「時事新報」に掲載された「京都の神社仏閣」による(岩波書店「福沢諭吉全集第13巻」所収)。

2) 田辺 朔郎が自費で建立したもので、表面には「一身殉事 万戸霑恩」の文字が、裏面には明治18年から23年の工事中に事故死した14名と病死した3名の名が残されている。

3) 平成8年6月に、水路閣のほか第一疏水に関連するインクライン、第1・第2・第3隧道の坑口、第1及び第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、37年架設の山ノ谷橋の計12箇所が、日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。

4) 工学寮・工部大学校の都検(実質的な校長)に招聘されたヘンリー・ダイアー(Henry Dyer、1848〜1918)から授かったことばの一節。琵琶湖疏水記念館の展示には「多くのことをするのではなく、良い仕事をする、成果を上げることが大切である。」という訳が添えられている。なお、ダイアーは、グラスゴー大学の1期生として卒業の後、ランキン教授の推薦を受けて25歳で来日。理学に比べて格下に見られていた工学の地位向上に務め、理論と実践を伴った全人的教育を重んじた。




(2013.02.05) (2013.04.05)