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@府道堺港線に沿って続く石垣は、台場の遺構である。 |
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Aテニスコートとの間にも、異なる様式の石垣が残る。 |
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B菖蒲園は台場の外堀。遺構が公園的に活用されている好例。 |
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C蘇鉄山頂上付近には大砲の礎石と思われる巨石がある。 |
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D残された猿島。左奥の木立にかつては水族館があった。 |
E水族館に関わると思われる遺構が木立の中に残っていた。 |
Fかつての水族館の裏に上る散策道には門の跡が見られる。 |
G蘇鉄山の南の通路は阪堺電軌の軌道敷である。 |
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H潮湯に関連すると思われる階段が防潮堤に転用されていた。 |
I草むらの中に忘れ去られているラジオ塔4)。 |
J府道大阪臨海線の両側の公園を連絡していた乙女橋。 |
K大阪臨海線の跡がほぼそのままの線形で残っている。 |
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図8 大浜公園に見られる遺構のいろいろ |
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(2008.09.09) |
(参考文献)
1 角山 栄「堺−海の都市文明」(PHP研究所)
2 中井 正弘「南蛮船は入港しなかった−堺 意外史」(澪標)
1) この乙姫像は水族館の廃止とともに解体されたが、堺市制110周年を記念して平成12(2000)年に堺旧港の北波止突堤に平和と繁栄のシンボルとして復元建設された。龍女神(りゅうじょしん)像と名付けられている。高さ16mの石張りの台座上に10mのブロンズ製の乙姫像が立ち上がっている。
2) 嘉永7(1854)年、唐津に生まれ、工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業し、ロンドン大学など約3年の留学を経て工部大学校教授に就任。日本銀行本店・大阪支店・京都支店(京都文化博物館)、第一銀行京都支店(みずほ銀行京都中央支店)・神戸支店(地下鉄海岸線みなと神戸駅)、南海本線浜寺公園駅、奈良ホテル、中央停車場(東京駅丸の内口)、大阪市中央公会堂など多数の作品を残している。大正8(1919)年、没。
3) 市長就任(昭和8年4月)の挨拶の一節。河盛安之介伝記編纂委員会「河盛安之介九十年の歩み」で紹介されている。
4) 戦時中はラジオが十分に普及していなかったので、公園や有名寺社など人の集まるところにラジオを置いて、大本営発表を聞いたりラジオ体操をしたりした。そのラジオの台をラジオ塔と呼んだ。大浜公園のほか、大阪城や中之島公園で現存が確認されている(戦争遺構研究会のご教示による)。
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