大浜公園

公園に散在する華やかな記憶の断片を拾う

阪神高速道路4号湾岸線に隣接する大浜公園
 今では想像もできないことだが、戦前まで大浜海岸は大都市近郊のマリンリゾート地としてにぎわっていた。大浜公園に、かつての華やかだった頃への想いを投影する市民は今も多い。大浜公園の現状とそれに寄せる想いとのギャップを、公園の歴史を見る中で解き明かしていこう。

1は堺市のHPなどをもとに作成した大浜公園の略年表である。これに沿って公園の歴史を概観しよう。

 表1 大浜公園に係る略年表
明治12(1879) 堺県が旧堺港の南にある陸軍の砲台跡に南公園として開設(翌年に堺市に移管、その後「大濱公園地」と改称)。
明治36(1903) 新世界とともに第5回内国勧業博覧会の会場となり、そのパビリオンとして水族館と商品陳列所が開設、中でも水族館は人気を呼び「東洋一」と謳われる。
明治45(1912) 阪堺電気軌道が市から大浜公園を借受け、大浜公会堂(辰野 金吾設計)を建設。宿院から分かれて大浜公園までの路線を敷設。
大正 2(1913) 大浜潮湯(辰野 金吾設計)開業(劇場・遊技場及びテニスコートを併設、桟橋で海水浴場と結ぶ)。
大正 6(1917) 大浜公会堂で菊人形。
大正 8(1919) 第1回学生相撲大会が開催。
大正13(1924) 大浜公会堂で大浜少女歌劇。
昭和 9(1934) 室戸台風により水族館・潮湯などに壊滅的な被害。歌劇団が解散。
昭和10(1935) 水族館を改装し魚類の充実を図るも火災により焼失。
昭和11(1936) 潮湯で観光博覧会を開催し増客に向けてこ入れ。
昭和12(1937) 水族館の新館が完成、併せて動物園を開設。
昭和13(1938) プロ野球チーム「南海軍」が結成され、大浜球場が本拠地となる(翌年には中百舌鳥球場に移る)。
昭和14(1939) 大浜潮湯の本館が火災(その後 再建)。園内の蘇鉄山に一等三角点を移設(日本で1番低い一等三角点、標高6.84m)。
昭和19(1944) 戦争に伴い堺水族館・大浜潮湯が閉鎖、建物は海軍に献納して錬成道場に。
昭和20(1945) 戦災で大浜公会堂などが焼失、大浜支線が運休(その後も再開されないまま廃止へ)。
昭和22(1947) 南海電気鉄道に貸与し大浜パークとして開設するも約5年で閉鎖。
昭和28(1953) 市が水族館を再開。
昭和36(1961) 第2室戸台風により水族館に被害。
昭和39(1964) 水族館を閉館、動物園舎のゾウなどを他園に移管するもサルだけは残される。
昭和47(1972) 旧堺灯台が国の史跡に指定。
 
 安政元(1854)年、ロシア船の天保山沖進入に対応して、幕府は堺港に台場(砲台)を築いた。その後しばらく放置されていたが、明治12(1879)年になって堺県はここを整備して公園とした。これが大浜公園の始まり(現在も大浜公園の敷地
図1 吉田 初三郎「堺市鳥瞰図」に描かれた大浜公園、左の大きい建物が水族館、手前が潮湯、その右上が商品陳列所、さらに右上が公会堂、電車は公会堂の裏を回って潮湯に達している(出典:「大阪春秋」第80号)
図2 たいへんな評判を呼んだ水族館(「風俗画報(明治36年)に掲載されたもの、出典:参考文献1)
図3 乙姫象と向かい建つ大浜公会堂(出典:朝尾 直弘ほか「堺の歴史」(角川書店))
図4 大浜潮湯、右は辰野金吾が手がけた数少ない和風建築である別館・家族湯で、室戸台風のあと天見温泉に移築され現存している(出典:天見温泉「南天苑」のHP(http //www.
e-oyu.com/nantenen/sioyu.html))
図5 「堺大浜公園地之図(明治25年中井 芳瀧)」に見る阪堺鉄道(現南海本線)開通後の大浜のにぎわい、屋号を染め抜いた旗 を掲げた料理旅館が建ち並んでいる(出典:参考文献2)
の1/4くらいは台場の跡地)である。
 この公園が全国的に注目されるようになった契機は、明治36(1903)年に開かれた第5回内国勧業博覧会であった。後に「新世界」と呼ばれるようになった天王寺と、ここ大浜が会場となったのである。大浜公園には商品陳列所と水族館が建てられた。中でも水族館は220m2、2階建てで、大きな魚槽をガラス張りの天井を通して下から見上げるという画期的な展示方法が人気を博し、「東洋一」と謳われた。魚は150種類3,000匹、動物は20種類50匹、鳥が50羽、はく製が50、貝の標本が1,000もあったという。動物や鳥は水族館の広い庭に飼われていた。庭園には八つの竜の頭から水が出るという意匠の高さ1丈5尺(5.7m)の噴水塔があり、その上に立てられた8尺5寸(2.6m)の白亜の乙姫像が人気を呼んだ1)。夜になると乙姫が手にした玉に電灯がつき、それが竜の頭に取付けた鏡に反射して、あたかも色噴水のように見えたそうだ。3月1日の開館から6月31日まで122日の博覧会期間中の入場者は801,400余人。当時の堺の人口53,000人の約15倍になる。天皇、皇太后、皇太子を始め、皇族方の行幸・御啓も多数を数えた。7月31日に市に払い下げられ、「堺水族館」と改称して営業を続けた。
 水族館の盛況に商機を見た阪堺電軌は、明治45(1912)年、市から公園を借受け大浜公会堂を開設するとともに、宿院から大浜公園まで1.4kmの支線を敷設した。翌年には大浜潮湯ができた。潮湯とは、今ではあまり聞かないが、海水をわかした浴場のこと。堺はもちろん近在の府県からも胃病・婦人病・皮膚病などに効果があると来客が訪れ、容易に湯冷めしないと冬も含め年中無休で営業した。建物は公会堂とともに辰野 金吾2)の事務所の設計になるもの。コテージ風の洋館で、浴場のほか2階には遊技場、劇場や食堂が設けられていた。ヘルスセンターのようなものだったのだろう。別館では家族湯も営業した。大浜公園一帯の海岸は、海水浴・潮干狩り・魚釣りなど多くの人々に利用されていたが、潮湯と大浜海水浴場とは桟橋で連絡しており、夕涼みを兼ねてビールを楽しむレストランも見られた。運動場やテニスコートも併設されていた。また、公会堂では菊人形や少女歌劇が行われ、特に少女歌劇は宝塚に劣らぬ評判で昭和3(1928)年に専用の劇場が潮湯に新設された。
 大浜では、早くも幕末に台場が建設されていた頃から工事関係者らをあてこんだ掛茶屋が立地していたが、観光客の増加に伴って海岸に料亭や料理旅館が並ぶようになった。「一力楼」はこの地で1番古い創業といわれ、内国博覧会の時に5階建ての洋館を建てている。また、「丸三楼」は大漁旗を立てて漁船が帰ってくるのを見て採れたてのえびを天ぷらにして評判を呼んだ。客室から竿を垂らすとおもしろいほど魚が釣れたとも言う。とりわけ7月31日から8月1日にかけて催される大魚夜市の日は大浜の旅館街は大いににぎわい、従業員以外に日ごろ出入りしている畳屋や植木屋まで動員して客を迎えた。明治42(1909)年には「川芳楼」から出た火で周辺の5楼を失うという惨事があったが、まもなく見事に再建され、大浜公会堂や潮湯との相乗効果でたいへんな繁盛であった。

「物
のはじまりゃなんでも堺(山本梅史作詞「新堺音頭」)」といわれる中で、大浜に関係するものとして、旧堺灯台・学生相撲・大浜飛行場にも触れておかねばなるまい。
 堺旧港の突端に位置する旧堺燈台は、明治10(1877)年に建築された。現地に現存する木造洋式燈台としてはわが国で最も古いものの1つとして、昭和47(1972)年に国の史跡に指定されている。わが国の洋式灯台は、明治2年に点灯した観音崎灯台を始め、政府がアメリカなど5カ国と結んだ修好通商条約に基づいて築造してきたが、旧堺灯台は建築資金の大半を市民からの寄付でまかない、残余を堺県からの補助によった。条約の締結に当たり、当初は堺が開港場の
図6 修理して保存されている現在の灯台
1つとして検討されていたが、仁徳天皇陵が近いという理由で神戸に変更された。これに危機感を抱いた市民らが、貿易の利便のために自ら港を修築し灯台を築いたのである。土台の石積みは旧堺港の整備と併せて備前国出身の石工 継国 真吉が携わり、建築工事は堺在住の大工 大眉 佐太郎が行った。灯部の点灯機械は横浜の燈台寮よりバービエール社(フランス)の機器を購入し、英国人技師ビグルストーンが設置を指導した。光源は当初は石油ランプ、昭和2(1927)年に電球に切替えられた。約1世紀の間、大阪湾を照らしつづけた灯台であったが、周辺の埋立て等により昭和43年にその機能を浜寺北防波堤灯台に譲って灯火を消すことになる。老朽化が著しかったため、平成13(2001)年度から18年度まで保存修理工事が行われ、往時の姿を取り戻した。この灯台のモチーフは市内のマンホールの図柄や電話ボックスの意匠にも取入れられ、堺のシンボルとなっている。
 明治42年に大阪毎日新聞社が浜寺公園で学生相撲大会を行ったのがきっかけで、大正8(1919)年、大浜相撲場で第1 回全国学生相撲大会が開催された。3万人の観覧者が押しかけたという。当時、相撲は野球と並ぶ人気スポーツで、職業野球で読売新聞に、学生野球で朝日新聞に先を越された毎日新聞にとって起死回生のイベントでもあった。大会は戦争で中断されたがすぐに再開され、一時期大阪府立体育館などに移ったものの、昭和49年の第52回大会から大浜体育館に戻り、同56年に完成した3,000人収容の相撲場と併せて学生相撲のメッカ堺が定着した。
 大正11年、堺のパイロット井上 長一氏は、堺市から大浜の水面を借りて日本航空輸送研究所を作り、飛行機の実用的利用を目ざして堺〜和歌浦・小松島・徳島、堺〜高松間の定期航空を始めた。遊覧飛行もリゾート客に人気があった。昭和9年の室戸台風のため、大浜飛行場の格納庫は全壊し16機の飛行機はすべて原形をとどめないまで大破したが、3年をかけて復旧に努めた。しかし、戦争が激しくなると民間飛行は許されなくなり、昭和14年に日本航空輸送研究所は国策会社に統合されて姿を消す。その後、氏は滑空機(グライダー)の練習に力を入れ、750円のグライダー4台と堺水上飛行学校で作った1台を堺中、堺商業、堺農学(現在の府立大学)、堺職工(現在の堺工業高校)、堺青年学校に寄贈して、17年まで浅香の大和川河川敷に設けた滑空場で訓練を行った。なお、この経験は、戦後、全日空の創業に生かされることになる。
述してきたとおり、海水浴・潮干狩りなどが楽しめる遠浅の海岸に水族館・潮湯・公会堂・少女歌劇場・運動場や料理旅館・別荘などが設けられ、近代的なリゾート都市として全国にその名が知られていた大浜の繁栄も、日中戦争勃発(昭和12(1937)年)までの約30年間がピークで、その後は戦争により次第に統制を受けるようになる。夜通しにぎわった大魚夜市は昭和15年を最後に中止される。18年、大浜の料理旅館など市内の一流料亭に対し、軍需工場の労働者の住宅として提供するよう要求があり、ほとんどが工場の寄宿舎になってしまった。潮湯も19年には営業を停止し、海軍の錬成道場になった。水族館も閉鎖を余儀なくされてしまう。20年7月10日未明の堺大空襲では、市街地の大半とともに大浜公会堂を始めとする海岸のリゾート施設も灰燼に帰した。
図7 堺旧港周辺の埋立ての経緯、大浜海岸では戦前からすでに埋立てが始まっており、戦後はまっ先に大規模な工場誘致が行われた(「堺市史続編」の付図を参考に作成)
 戦後、堺市の戦災復興計画にリゾート地の復活は全く考慮されず、それどころか重工業誘致の臨海工業地帯の造成が始められたのである。これは昭和8年から戦後の一時期を除いて約30年にわたって市長を務めた河盛 安之介氏の「本市の使命は、大阪市の生産地として工業立市、産業立市の理想をもって進む必要がある3)」との考えに基づくところが大きいであろう。従って、大浜は、電鉄会社とタイアップして近代リゾート都市として先駆的な発展を見ながらも、現在ではその痕跡はほとんど残っていない。
 いま大浜公園を歩くと、本稿でご紹介した遺構のほか、戦争遺構や昭和61(1986)年まで公園を貫いていた府道大阪臨海線の遺構が見られる。ただ、そのほとんどは必ずしも公園とマッチして保全されているとは言い難い。大浜公園の雰囲気には、大きくなった子どもがほこりをかぶったおもちゃ箱を見る時に感ずる心情と通ずるものがある。

@府道堺港線に沿って続く石垣は、台場の遺構である。
Aテニスコートとの間にも、異なる様式の石垣が残る。
B菖蒲園は台場の外堀。遺構が公園的に活用されている好例。
C蘇鉄山頂上付近には大砲の礎石と思われる巨石がある。
D残された猿島。左奥の木立にかつては水族館があった。 E水族館に関わると思われる遺構が木立の中に残っていた。 Fかつての水族館の裏に上る散策道には門の跡が見られる。 G蘇鉄山の南の通路は阪堺電軌の軌道敷である。
H潮湯に関連すると思われる階段が防潮堤に転用されていた。 I草むらの中に忘れ去られているラジオ塔4) J府道大阪臨海線の両側の公園を連絡していた乙女橋。 K大阪臨海線の跡がほぼそのままの線形で残っている。
図8 大浜公園に見られる遺構のいろいろ
(2008.09.09)
(参考文献)
1 角山 栄「堺−海の都市文明」(PHP研究所)
2 中井 正弘「南蛮船は入港しなかった−堺 意外史」(澪標)

1) この乙姫像は水族館の廃止とともに解体されたが、堺市制110周年を記念して平成12(2000)年に堺旧港の北波止突堤に平和と繁栄のシンボルとして復元建設された。龍女神(りゅうじょしん)像と名付けられている。高さ16mの石張りの台座上に10mのブロンズ製の乙姫像が立ち上がっている。

2) 嘉永7(1854)年、唐津に生まれ、工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業し、ロンドン大学など約3年の留学を経て工部大学校教授に就任。日本銀行本店・大阪支店・京都支店(京都文化博物館)、第一銀行京都支店(みずほ銀行京都中央支店)・神戸支店(地下鉄海岸線みなと神戸駅)、南海本線浜寺公園駅、奈良ホテル、中央停車場(東京駅丸の内口)、大阪市中央公会堂など多数の作品を残している。大正8(1919)年、没。

3) 市長就任(昭和8年4月)の挨拶の一節。河盛安之介伝記編纂委員会「河盛安之介九十年の歩み」で紹介されている。

4) 戦時中はラジオが十分に普及していなかったので、公園や有名寺社など人の集まるところにラジオを置いて、大本営発表を聞いたりラジオ体操をしたりした。そのラジオの台をラジオ塔と呼んだ。大浜公園のほか、大阪城や中之島公園で現存が確認されている(戦争遺構研究会のご教示による)。