東横堀川

川と町のかかわりの歴史を通覧する

高架橋の影が水面に落ちる東横堀川
 東横堀川は、大阪城築城と同時に開削された大阪でもっとも古い堀川であるが、川を覆って高速道路が走っており、一般には近寄りづらい雰囲気があった。平成18(2006)年、都心ながらもゆったりと落ち着きのある水辺をつくろうと、沿川住民や企業、ショップオーナーなどが中心となって「東横堀川水辺再生協議会」(e-よこ会)が設立され、水辺再生の取り組みがなされている。本稿では、筆者が本会に参加して学習したことを中心に、東横堀川と沿川のまちの変遷についてお伝えする。

山本願寺の寺内町として栄えていた大坂は、本願寺が織田信長との戦いに敗れ、その信長が本能寺の変で倒れた後、覇権を握った羽柴 秀吉によって再建された。秀吉は大坂城の築城(天正13(1585)年)とともに惣構(そうがまえ)の建設(城の外郭を堀で囲むこと)を始め、大坂城西側に東横堀川を、南側に空堀(からほり)を掘り、北は大川、東は猫間川によって堅く守られた難攻不落の城を完成させた。惣構の内には武家屋敷を集中させた。
 一方では、秀吉は新しい商工業中心の街づくりを目指して上町台地の上に南北に延びる市街地に加えて、低湿地である東横堀川より西の開発を進め、ここに伏見・堺・平野などから町人を移して城下町を形成した。水運に恵まれたこの町は「船場」と呼ばれた。ここにおいて、東横堀川は新たな市街地整備と水運路の確保という目的を兼ねたことになる。秀吉は京都から御所や寺院を移転する遷都構想を持っていたらしく、そのためか、船場は京都のように直線道路が南北に整然と計画的に配された町並みをしている。船場では東西の道路を「通」、南北の道路を「筋」と呼んでいて、
図1 船場では、商家は東西の「通」に面して間口を設けており、向かい合う家々でひとつの町を形成していた
大坂城に向かう「通」がメインストリートになっていた。標準的な道幅は、「通」が4間(約7.6m)であるのに対して「筋」は3間(約5.7m)と狭かった。船場のまちづくりが大坂城を基点にしていたことは、各町は大坂城側つまり東から西にかけて1丁目が始まっていることからも伺うことができる。また、南北方向に通じる東横堀川が「横」堀と名付けられているのも、この理由からであろう。
 商家は「通」に面して表を構えていた(ただし、東横堀川に沿う道路に面する家は東に間口を設けていた)。家屋の間口は家により異なるが4〜8間(約7〜15m)で、奥行きはほぼ20間(約38m)であった。それぞれの商家は、道路に面して商品を展示する店を設け、奥が居宅になっており、その裏に土
図2 今に残る「太閤下水」、現在は暗渠化されている(大阪市建設局提供)
蔵を建てるのが一般的であった。道路に面した間口を持つ建物の裏側、つまり建物同士の背中合わせの部分には下水溝が敷設された(背割り下水)。一般には「太閣下水1)」と呼んでいる。神農さんとして親しまれている少彦名(すくなひこな)神社の宮司であった別所 俊顕氏は、大坂が江戸ほどの大火に見舞われなかったのは、土蔵や下水が焼け止まりの機能を果たしたからではないかと指摘しておられる。
 その後、大坂夏の陣(慶長5(1600)年)によって天下をとった徳川幕府は、荒廃した大坂の復興に取組み、「地子銀(じしぎん=地租)の免除」、「関所の撤廃」、「楽市楽座」(営業の自由)等の経済施策を発して大坂の発展を図りつつ、西横
(埋め立てられたおもな堀川)
 @天満堀川 A長堀川 B高津入堀川 C難波新川
 D西横堀川 E江戸堀川 F京町堀川 G海部堀川
 H阿波(座)堀川 I立売堀川 J薩摩堀川 K堀江川
 Lいたち川 M十三間川 N曽根崎川 O空堀 P猫間川
図3 大阪の主な河川・水路、埋め立てられたものをグレーで、残っているものをネイビーで示す
堀川、天満堀川、阿波座堀川、長堀川、京町堀などの開削を次々に進めた。低地の排水と地面のかさ上げ用の土砂の必要から堀川が掘られたものと考えられるが、その結果、八百八橋と呼ばれるほどの水都が建設されたのである。それらの堀川は舟運に用いられ、沿川に各藩の蔵屋敷や商家の倉庫が並びその後の大阪の発展に大きく寄与した。
 しかし、戦後になって大阪の堀川は次々に埋め立てられ、そこに架かっていた橋は地名に名残りを留めるのみとなっている。東横堀川はかろうじて埋め立てをのがれ、標題の写真ような姿を呈している。
て、往時の東横堀川の姿はどのようなものだったのだろう。図4は、1855〜60年頃に著された「摂津名所図会」(暁 鐘成)の1枚で、高麗橋から西を望んだ様子を描いたものである。まず、橋詰めの交差点に対面する2棟の楼閣が目につくが、これが図のタイトルにもある矢倉屋敷である。高麗橋から東に直進すると大坂城に通じることから、監視の目的で建てられたものと考えられる。
図4 大阪の町人たちをいきいきと描いた「摂津名所図会」のうち「高麗橋矢倉屋敷」(大阪市立図書館蔵)
折しも高麗橋をわたっているのは、下城する武士の一行であろうか。橋のたもとには、お触れなどを掲げる高札が設け
図5 東横堀川における浜地の使用形態の変遷
られている様子も描かれている。陸上の輸送手段は人が担ぐか馬の背に積むかであり、荷車は使われていない。また、川に接する道路は、通行のほか荷物の仮置き場や整理場としての利用が容認されていたように見える。東横堀川の水面は道路より5mほど低い位置にあり、川と道路の連絡のために石段(岸岐(がんき)と呼ばれる)が設けられている。岸岐の下には桟橋などの設備はなく、板を渡して小舟に乗込んでいる。道路と水面の間の土地(「浜」または「浜地」と呼ばれる)は、岸岐や物揚げ場のほか納屋にも利用されている。この「浜」または「浜地」の利用形態について、大阪市立大学の嘉名 光市准教授らにご教示いただいたところによると、江戸時代から現在までおおむね左の3期に大別できるようである。
 宝暦7(1757)年に「浜地冥加銀」を幕府に支払うことで町人が浜地を使用できる制度ができ、川筋に店を構える問屋などが浜地を納屋などに使用するようになった。しかし、幕府は浜地のオープンな利用にこだわり、浜地の建物は足を建てることは許してもそれを囲ったり小屋がけすることは禁止したので、清水の舞台のような建物が建つこととなった。この形式を足駄作りという。明治に入ると浜地は幕府の所有から国や市の所有に変わったものの、借地の制度はそのまま引き継がれた。
 明治30(1897)年の築港工事の際、その工事費を調達する手段の一つとして、浜地が民間に売却された。このころから、道路面と水面の間の空間も建物として利用されるようになり、道路から見て地下に当たる部分(下屋と呼んだ)には川に面して出入り口が設けられ、
図6 阪神高速道路着工直前の道修町付近の東横堀川(森井 道雄氏提供の写真に夾 雑物除去加工を施した)
そこから人や貨物が出入りした。また、建物に面して舟が着岸できるように、東横堀川の護岸が垂直の石積みに変化している。岸岐を使って水陸の連絡を図っていた頃と比べると、輸送の面では格段に合理化されていると言えよう。このような利用形態が成立したのには、43年に完成した新淀川や毛馬洗堰などにより、東横堀川の水位の変化が小さくなったことも大いに影響しているように筆者には思われる。図6は、e-よこ会幹事の森井 道雄氏が所蔵されているもの。たまたま左の建物が除却されたところであり、道路、河川、建物の関係がよくわかる写真である。
 大阪では大正10(1921)年から始まった第1次都市計画事業により、市内の街路や橋梁の整備が急速に進んだ。東横堀川でも、今橋(大正13年)、上大和橋(14年)、大手橋(15年)、農人橋(15年)、九之助橋(15年)、高麗橋(昭和4年)、平野橋(10年)、東堀橋(11年)など次々と架け替えられている(堺筋、四ツ橋筋、御堂筋が拡幅され、大阪のまちが南北を主軸とするように変わるのもこの頃である)。このように陸上交通が進展する反面、水運は次第に衰えていった。同時に浜地に立地することの優位性も失われ、沿川の建物は次第に川と関係をもたない(川に背を向けた)構造に建ち替わっていった。さらに、昭和43(1968)年から東横堀川で都市小河川改修事業が実施され、現在見るような護岸と公園が整備された。治水面の向上や緑地としての活用が図られたが、これによる浜地の変化は大きく、東横堀川はフェンスにより沿川の建物と完全に分断され、水面にもアクセスできなくなる結果となった。
こでもう一度図3をご覧いただきたい。大阪の堀川は大部分が埋め立てられたとはいえ、都心を囲んで北は堂島川・土佐堀川、東は東横堀川、南は道頓堀川、西は木津川からなるロの字型の水路が今に残っている。河川は大阪市域の面積の10%を占める貴重な空間であるばかりでなく、上述のような都心を囲む「水の回廊」は水域の整備を契機とした新たなまちづくりの資源でもある。「水の都大阪の再生」が政府の都市再生プロジェクトに指定(平成13(2001)年12月)されたのを受け、翌年10月に設立された「水の都大阪再生協議会」は、学識経験者のアドバイスを得ながら「水の都大阪再生構想」をとりまとめ、行政、企業・経済団体、住民・NPOが連携して、水辺の整備や水を活用した


<公共船着場>
A 大阪ドーム前岩崎港
B 大阪ドーム前千代崎港
C 大阪国際会議場前港
D 湊町船着場
E 太左衛門橋船着場
F 八軒家浜船着場
G 福島港(ほたるまち港)
H 日本橋船着場
I 大阪市中央卸売市場前港
J ローズポート
K 若松浜船着場
L 本町橋船着場
<民設船着場>
M 大阪城港
N 淀屋橋港
P ぽんぽん船船着場
Q OAP港
R 桜ノ宮港
図7 ロの字水路とその周辺に整備された船着場
イベント等を継続的に推進するよう提唱した。
 いま、舟運の復活を武器に、観光を視野に入れたまちづくりの取組みが官民で進んでいる。先のロの字水路では、大阪府と大阪市が公共船着場を設置しているが、「水都大阪2009」2)を契機に、大阪府・市の船着場の使用手続きの一元化や、府市共通の航行ルールの運用も始まった。落語家が「なにわ探検クルーズ」の案内をするという、大阪ならではの趣向をこらした旅行商品を開発するなど、民間側の取り組みも見られる。筆者としては、ベイエリアとロの字水路のある都心を結ぶクルーズも期待したいところだ。

れまで環境整備に遅れをとってきた東横堀川ではあるが、「平成の太閤下水3)」工事を契機に本町橋の北側に船着場がオープンし、ようやく舟運のネットワークに組み入れられようとしている。幸いにも、東横堀川周辺に
図8 高速道路の桁裏及び遮音壁の美装化の状況
は、歴史的建築物、由緒ある橋、多様な企業ミュージアム、船場で商い続ける老舗店舗などが多数散在しており、これらの観光スポットとともに住民の日常生活を観光客に紹介して一緒にまちを楽しんでいただくコミュニティツーリズムの実践が進んでいる。東横堀川が水陸の観光の結節点となれる可能性も高い。
 とはいえ、東横堀川の現状では課題が大きいのも事実。そのひとつは高速道路の構造物をいかに観光資源にするか、である。その試みとして、かねてから行っている桁下の美装化に加え、平成18年からは関係機関が協力してライ
ティング実行委員会を立上げ、
図9 道路構造物に映像を投影する実験、高欄や遮音壁に投影した例(左)と橋脚や桁に投影した映像を船上から楽しむ東横堀川のクルーズ(右)(東横堀川・堂島川ライティング実行委員会提供)
構造物のライトアップやイルミネーションに取組んでいるところではあるが、まだまだ満足すべき水準には達していない。もうひとつは、沿川と川の関係性の復活である。抜本的には護岸の改良が期待されるが、それに先立ち、地元においても沿川の建物に川を意識した意匠(例えば、川に向いた窓辺に花を飾るとか)を施すなどのホスピタリティ向上策が求めら
図10 川の眺望を取り入れたおしゃれなカフェも見られるようになった(e-よこ会提供)
れよう。

                       (2008.08.08)