お 土 居

豊臣 秀吉の京都改造の謎を探る

濠と土塁が残っている大宮土居町のお土居
 財政難から造営が中断した平安京は、時代が中世に移るにつれ市街地が縮小し、「京に田舎あり」という状態になっていた。これを改変しようとしたのが豊臣 秀吉である。その後、必ずしも彼の意図したように市街の間隙が充填されていった訳ではなかったが、本稿では、謎の多い「お土居」を中心に、彼の京都改造事業を概観することとする。

正15(1591)年、天下統一をなしとげた秀吉は、京都の周囲に延長22.5kmに及ぶ土塁を築いた。これを「お土居」と呼ぶ。工事はその年の正月から始まり、早くも3月には原形ができ5月に完成したという。その囲む範囲は、おおむね東は鴨川、西は天神川に沿っており、北は紫竹(しちく)や鷹峯(たかがみね)に、南は東寺のある九条付近に及び、
図1秀吉が築いたお土居と聚楽第、図中の丸数字は表1に対応
南北約8.5km、東西約3.5kmである。大正9(1920)年に京都府が行った調査によると、お土居は盛土の高さが約5m、基底部が10〜20m、頂部が5mほどの幅であった。また、土塁の外側に幅5〜20m、深さ最大4mほどの濠が掘られていた。なお、鴨川や天神川に面する部分では濠は略されている。
 豊臣政権は官僚機構が弱体で文書記録に乏しい。そのため秀吉がお土居の建設を発案した動機については推測するしかないのだが、一般には次のように言われている。
 ひとつは外敵の襲来への備えである。信長が光秀の急襲にあってあっけなく滅んだ記憶が彼にそうさせたのだというのだ。しかし、防御のためならお土居はできるだけコンパクトな方が自兵を効率的に配置できるが、実際のお土居は(特に北部では)市街地からはるかに離れたところまで及んでおり、この説に疑問がないわけではない。また、お土居の天端には竹を植えたと言うが、これも敵の動きを監視するには不利だろう。
 次は洪水防御のためというもの。これなら、鴨川や天神川が平野に出る紫竹や鷹峯までお土居を伸ばした説明にはなるが、お土居の西面は部分的に天神川を越えている箇所もあり、必ずしもこの考えだけで説明がつくわけでもない。
 寺社勢力を削ぐためという説もある。住民組織のベースになっていた八坂神社などとの往来を制限するのが目的だという説だ。秀吉が寺院を移転させて2)信者との分断を図ったのは事実と思われるが、大谷本願寺のようにお土居の中に存置された有力寺社もあるから、この説は説得力に乏しいと考える。
 とは言え、お土居が京の内外を分断したのは確かであって、これが構築されて以降、内側を洛中、外側を洛外と呼ぶのが定着した。なお、内外の交通のためにお土居に「京の七口」と通称される出入口が設けられたが、門や櫓などの監視のための施設はなかったとされ、数ももう少し多かったのではないかと言われている。
吉が京都改造のために行った事業として、お土居のほかに「聚楽第」の建設と「天正の地割り」がある。応仁の乱のあと、京都の町は縮小して、塀をめぐらした貴族らの邸宅が並ぶ上京(かみぎょう)と商工業者が軒を連ねる下京(しもぎょう)に分かれ、その間に大きな空閑地があった。秀吉はそこに聚楽第という壮麗な城郭を築いて京都の中心とし、自らがそこにおさまった。そして武将らをその周囲に住まわせた。聚楽第は文禄4(1595)年に完全に破壊されたが、城内にあった施設や武家町は「黒門通」、「日暮通」、「田村備前町」、「弾正(だんじょう)町」などの地名に痕跡を残し、併せて「聚楽廻(じゅらくまわり)」という地名からその外縁を知ることができる。また、「天正の地割り」とは、下京の既存市街地の東西において、平安時代から続く1町(約110m)四方の街区の南北の通りの間に1本ずつ新しい通り(御幸町通・富小路通・堺町通・岩上通・黒門通)を追加して短冊形の街区としたもの。通りに面して営業する商工業者らに適した街区を形成し市街地の拡大を意図したものと言われている。併せてそれまで田地であった五条以南の開発(「京都南川原」という)を行うとともに、大谷本願寺の移転を行って門前町の形成を図っている。
長3(1598)年に秀吉が死去した後は、特に鴨川に面した東側区間においてお土居が邪魔者扱いされるようになり、
表1 お土居の遺構が見られる主な箇所
@ 中京区西ノ京原町 市五郎稲荷神社ほか
A 中京区西ノ京中保町 北野中学校
B 上京区馬喰町 北野天満宮
C 北区平野鳥居前町  
D 北区紫野西土居町  
E 北区鷹峯旧土居町3 御土居史跡公園
F 北区鷹峯旧土居町2  
G 北区大宮土居町  
H 北区大宮西脇台町 大宮交通公園
I 北区紫竹上長目町・堀川町 加茂川中学校ほか
J 上京区寺町広小路上ル北之辺町 廬山寺ほか
6年には早くも四条通を塞いでいた部分が撤去される。このようにお土居が破却される遠因は、皮肉にも秀吉自身がタネを蒔いていたのだ。
 文禄4(1595)年、秀吉は鴨東に方広寺を建立した。東大寺より大きい6丈3尺(約19m)の大仏を造立したが、翌年の地震で倒壊。その後、秀吉を継いだ秀頼は寺の再興を志し、ついに慶長19(1614)年には「国家安康」「君臣豊楽」の句が彫られた梵鐘が完成し開眼供養を待つばかりまでこぎ着けた。この再建に当たって角倉 了以らは鴨川を利用した水運によって資材を調達し、これをもとに同年高瀬川を開削するのである。
@民地に残されているお土居、一部は神社の用地になっている A北野中学の前身の第二商業学校の記録にはお土居と濠が記されている3)  B天神川の浸食崖を利用した北野天満宮境内のお土居、原形の改変が著しい Cきれいに整形された平野お土居、たくさんの地蔵が祀られている D住宅の前庭にわずかに残るに過ぎない紫野お土居
Eお土居に自由に登れるのは御土居史跡公園として整備されているここだけ F鷹峯お土居はかなり大規模に残っているが放置されているのは残念 G玄啄下バス停に近い大宮お土居は濠がよく残っている H大宮交通公園内のお土居は来園する家族連れに親しまれている I堀川通に面するので人目につきやすいが保存状態のよくない紫竹お土居
J廬山寺の墓地と府立医科大学図書館に残っているお土居
高瀬川の舟運が繁栄するに伴い沿川が発展し、お土居と鴨川の間に市街地が成立した。併せて、天正の地割りにより開発されたエリアの市街化も進展し、お土居は洛中・洛外のつながりを阻害するものと見なされるようになった。寛文10(1670)年に鴨川に新たな堤防が築かれ、お土居は洪水防御の必要がなくなったとして払い下げられた4)。現在の河原町や木屋町などの繁華街はこうして出現したのである。
(2012.11.07)  

1) 図1で言う「当時の市街地」とは元亀3(1572)年頃の町組などから推定したもの(矢守一彦「都市図の歴史−日本編」(講談社)より転写)。

2) 寺町地区の様子を見ると宗派ごとに寺院を集める方針がとられたことが推察される。なお、寺町通は三条通で「あてまわり」と呼ばれるかぎ型の屈折をしており、また、寺町通を境にして東西方向の街路が食い違っており、遠見遮断の機能を持たせていたようである。

3) 北野中学校の地域コミュニティ版ホームページに、前身の京都市立第二商業学校が立地する頃は校地の西と北にお土居が残っていたこと、プールは濠の湧き水を使っており水面が周囲より3mほど低かったことなどが紹介されている。なお、同校のお土居は非公開であり、写真も同校のHPより転載した(http://web.kyoto-inet.or.jp/org/kitatyu/)。

4) その他の部分は、江戸時代を通じて京都所司代の命により、角倉家の支配のもとに近隣の村々が実態管理を行っていた。明治に入ると、所司代が管理していた土地が民間の所有となり(多くは盛土の形態を残したままで)畑地に転用された。大正期以降、住宅開発が進展しお土居の破壊が進んだので、昭和5(1930)年に8箇所が国の史跡に指定されている(40年に1箇所を追加指定)。