宇治発電所路トンネル

電力供給のために敢行されたトンネル工事の記録
 明治の終わり頃、市電の敷設や私鉄の建設が進んでおり、一般家庭においても電灯が急速に普及していた。このように電力需要が急増する中で、南郷から宇治発電所まで、当時としては極めて長大な水路トンネルが掘削され、供給使命を果たしたのだった。その施工を中心に工事誌を読み起こしてみた。

図1 NATM工法が採用された新十条通の山科側、トンネルの上部半断面が一気に掘削されている(出典:阪神高速道路瓦京都高速道路建設誌」)
図2 シールド工法ではシールド機が通過した直後に全断面がセグメントで覆われトンネルが完成する(阪神高速道路轄芟嚼ン部提供)
 近のトンネルの施工法はかなりスマートで、山岳部ではNATM工法(New Austrian Tunneling Method)、都市部ではシールド工法が主流となっている。
 NATM工法は、1960年代にオーストリアのRabcewicz教授らにより提案されたもので、掘削によって岩盤が露出すると速やかにコンクリートを吹付けて岩盤を被覆するとともに、ロックボルトを地中に打ち込んで掘削面の岩盤と吹付コンクリートを地山(じやま)に定着させる工法である。これにより掘削面が不安定な期間を短縮することができるため、大断面での施工が可能となっている。地山の挙動を計測しながらロックボルトの間隔などを設定するという合理性を有しているのもそれまでにない特徴である。わが国では昭和47(1972)年に着工された中山トンネル(上越新幹線)において異常出水があった箇所で52年に導入されたケースや、50年に着工された駒止トンネル(国道289号)において軟弱な地山が見いだされたため52年に採用されたのが初期の例である。
 シールド工法とは、シールドと呼ばれる鋼製の筒を地中に押し込み、それによって防護された空間で掘削する工法である。1825年にテームズ川の水底トンネルで手掘りのシールド工法が採用されたのを最初とするが、現在のシールド工法は、シールド機の前面でトンネルの全断面を一気に掘削し後部で直ちにセグメントをリング状に組み立てて掘削面を完全に覆工するようになっている。だから掘削面が露出することがなく、適切に施工する限り安全確実な工法であり、能率的でもある。わが国では(昭和11(1936)年に着工した関門鉄道トンネルを別とすると)35年に名古屋市の地下鉄に採用されて以来、地下鉄・上下水道・電力線や電話線の洞道・地下道路などに広範囲に施工されている。
戸時代においては、トンネルといえば「箱根用水」、「青の洞門」、「西野水道」くらいしかなく、いずれものみと槌で岩をくりぬいたものである。明治になって、外国人技術者や留学生がもたらした知見を用いた本格的なトンネルが掘られるようになったが、その最初の作品である逢坂山トンネル(旧東海道本線、L=645m、12年開通)は、煉瓦によって覆工されているものの、掘削方法としては江戸時代からの鉱山での技術が採られたのであった。しかし、欧米の機械の導入も試みられ、14年に完成した栗子トンネル(初代)(旧国道13号、L=866m)では削岩機や換気機などが使われ、17年に完成した柳ケ瀬トンネル(旧北陸本線、L=1,352m)では火薬による掘削が行われるなど、次第に工事の近代化が図られていった。
 では、宇治発電所の水路トンネル工事の状況を、工事誌をひもときながら具体的に見ていくことにしよう。
 宇治発電所は大正2(1913)年に宇治市宇治山田に完成した水力発電所で、発電のための水は大津市南郷で取水して延長約11kmの水路で発電所まで導いた。水路のうち84%近い9.2kmが山岳トンネルで、その中には延長2,460mの第1号隧道や3,005mの第7号隧道が含まれる。トンネルの断面は、幅・高さとも約6.1mの馬蹄形である。

 図3 宇治発電所水路トンネルと工事のための仮設備
 
 宇治発電所の水路工事は明治41(1908)年12月に着手した。トンネルの掘削方法は、いわゆる「日本式」と呼ばれる在来のもので、始めに予定断面の頂部に高さ2m、幅2.5mほどの小さなトンネル(これを「先進導坑」という)を掘って、地山の様子を見ながら丸形・中背(ちゅうぜ)・大背(おおぜ)・土平(どびら) 1)と順次 切り広げていくというものである。
@頂部に導坑を先進させる A左右に切り広げ丸形を掘削する B下に切り下げ、中背を掘削する C上半を掘削したら支保工を梁で受ける D下に切り下げ、大背を掘削する E土平を掘削し 畳築にとりかかる
図4 在来工法における掘削順序と標準的な支保工
掘削面の上部と側部は板で覆い、これを梁や柱で支えた(これらを「支保工」という)。この措置は、崩壊や落石の防止を期したものであることはもちろんだが、変形やきしみ音などから地山の変状を察知するにも有効で、異常が予感されたときには支保工の補強が臨機に行われた。導坑の掘進に当たっては、切羽2)に直径2cm、深さ30〜60cmほどの穴をいくつか穿ってこれにダイナマイトを装填して岩石を破砕した。ダイナマイトの装填孔は第1隧道と第7隧道には削岩機を導入したが、
図6 2線のトロリーが敷かれた第2号隧道の西坑口(出典:同上)
図5 掘削が始まって間もない第3号隧道(出典:参考文献3)
当初に用いた機械は中古品であったこともあって故障が続出し、急遽 技術者をヨーロッパに派遣して最新式の削岩機を選定・購入させいたとうエピソードも残っている。なお、工事は昼夜兼行で進められ、 導坑は1昼夜3交代、その他は2交代で作業員を投入した。
 明治も終わりに近い当時では、施工機械が少し用いられているが、電力事業が未開拓で、大津や宇治にすら電気が通じていない時代では、施工機械は蒸気機関または石油発動機で駆動させるしかなかった。坑内の照明も主に種油のカンテラを用いた。なお、工事に並行して仮設の水力発電所を建設し(一部は京都電燈から供給)、
図8 第6号隧道での畳築の様子、この区間 は地質良好で側壁にもレンガが使われた(出典:同上)
図7 第7号隧道の先進導坑における削岩機を用いた施工風景(出典:同上)
43年11月からは坑内の照明は電灯に替わり、工事用電話も敷設された。
 掘削が終われば畳築(じょうちく) 3)である。側壁部の一番下に当たる部分に拱座石を置き、その上に側壁を積み上げていった(このように下から巻き立てていくことを「順巻き」という)。本トンネルの場合は、拱座石と側壁部はコンクリートブロックを、アーチ部はレンガを用いるのを標準とし、目地にはセメントモルタルを用いた。アーチ部のレンガは、岩質・湧水・土かぶり厚4)などを勘案して3枚巻きから8枚巻きとした。覆工と地山の間の隙間には、上半部には割石を、下半部にはコンクリートを充填して裏詰めとしたが、
図9 宇治川右岸に敷かれた工事用道路とトロリーの軌道、当時の笠取村二尾地区(出典:宇治市歴史資料館「走れ!おとぎ電車」)
コンクリートが多くなるところでは掘削した岩片から堅硬なものを採拾して混用した。
 道路が未整備であったので、掘削した岩屑や煉瓦・セメントなどの工事材料の運搬は工事用の人力トロッコ(当時は「トロリー」と呼んだ)によった。勾配の大きい箇所では巻揚機を使った。宇治側からの工事材料や機械類の搬入のため、第7号隧道西口まで2.8kmの工事用道路を新設してトロリーの軌道を敷いた(18ポンド5)、軌間0.5m)。発電所には重量物を運ぶ必要があるため、43年4月、官鉄奈良線に専用支線を設けて貨物積卸場を新築し、上記とは別に50ポンド、軌間1.1mの軌道を敷いた。トロリーは第12号開渠、調整池などに支線を伸ばしており、これらの軌道の総延長は14.6kmに及んだ。大津側から第7号隧道東口までの9.2kmについても新設または既存の里道を拡幅してトロリーの軌道を敷いた。掘削土はトンネルの周辺に適地を見つけて処分することとしていたが、不足する処分地を左岸の曽束地区に求め、そこまでの運搬のために宇治川にL=594mの橋梁を架設してトロリーの軌道を敷いた。工事の進捗に応じて適所に材料置場を設けこれに向かう支線を追加するなどしたのを含めて、大津側の軌道の総延長は30.7kmにもなった。きわめて大規模な仮設備というべきだ。
表1 宇治発電所水路工事における死傷者数
発災箇所 態    様 死亡 負傷
隧 道 ダイナマイトの取り扱いに関するもの 3 16
坑内の土石脱落や崩落によるもの 6 4
工事機械の取り扱いに関するもの 5 2
トロリーの転覆・衝突によるもの 3 17
   計 17 39
開渠等 掘削中の土石崩壊によるもの 3 ?
墜落によるもの 1 ?
   計 4 ?
 4年にわたる水路工事においては不慮の事故もあった。第1号隧道は導坑が東口より300m余り進んだところで地質不良箇所に当たったのでこれを避けて左に迂回した。第9号隧道では、ほとんど掘削を終えたところで地表より崩壊し、当該箇所は陸巻き6)に変更した。また、第1号隧道、第3号隧道、第7号隧道においても坑内の天井が崩落し、第6号隧道では地表に陥没を生ずるに至った。開渠の区間でも法面の崩壊がしばしば起き、一部を隧道や陸巻きに変更した。工事中の死傷者は表1のとおりであるが、工事誌は死傷者を出したことは遺憾としながらも「工事ノ規模並ビニ工事ノ期間ノ割合ニハ其ノ事故 極メテ僅少」(参考文献1)としている。
うしてできあがった水路トンネルは61m3/秒の水を流し2.2万kWの発電を可能にした。いま、その工事竣工記念碑が観流橋のたもとに建つ。表面には工事概要が、裏面には工事関係者の名が刻まれている。最盛期で199人にのぼった宇治川電気の工事関係者は、技師長 石黒 五十二、主席技師 千種 基はじめ多くが工事の完了とともに社を離れたが、発電所の電力は宇治市内に電灯をともし、京阪電車を動かし、ユニチカなど多くの工場を誘致して、宇治市の近代化と発展に寄与し続けた。付帯工事として植樹された仏徳山のしたたるような緑も市民の目を楽しませる。
(参考文献)
1) 宇治川電気株式会社「第一期水力電気事業沿革志」
2) 宇治川電気株式会社「第一期水力電気事業沿革志付属図譜」
3) 宇治川電気株式会社「第一期工事竣功記念写真帖」
4) 林 安繁「宇治電之回顧」(宇治電ビルディング)
図10 宇治発電所工事の「工事竣工記念碑」、表面には工事概要 裏面には工事関係者の氏名が彫り込まれている
(2012.09.14)

1) 在来工法においては、トンネルの掘削断面を「加背(かせ)」とよび、これを分割するこをを加背割りと呼んだ。一般的な加背割りを右に示す。

2) トンネルを前進方向に掘削するときの掘削面のこと。

3) 煉瓦などでトンネルを覆工すること。

4) トンネル頂部から地表までの、土や岩石に覆われている部分の距離のこと。

5) 1ヤード(約0.91m)あたりの重量で軌条の大きさを表す。1ポンドは453.6gであるので18ポンドは約8.2kg。なお、通常の鉄道の軌条は長さ1mあたりの重量が60kg(新幹線)〜40kg(在来線の支線)を標準としている。

6) 覆工を構築してから土をかぶせてトンネルとする方法。明り巻きとも言う。