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斎橋は、岡田 新三(剃髪して「心斎」と号す)が長堀川を開削した際に架設した橋。大阪夏の陣(慶長20(1615)年)のあと、まだ焼け野原のままになっていた大阪にやってきた新三らは、道頓堀の北に新たに水路を開削して運輸の利便を図ることを願い出て許され、元和8(1622)年に完成させた。堀の両側に町屋を建築して商人らを集め、
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表1 江戸時代の大阪で開削された堀川 |
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慶長17(1612) |
道頓堀川 |
元和3(1617) |
京町堀川 |
々 |
江戸堀川 |
元和5(1619) |
西横堀川 |
元和8(1622) |
長堀川 |
寛永元(1624) |
海部堀川 |
寛永3(1626) |
立売堀川 |
寛永7(1630) |
薩摩堀川 |
元禄8(1696) |
堀江川 |
享保18(1733) |
難波新川 |
々 |
高津入堀川 |
享保19(1734) |
境川運河 |
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上記より以前に東横堀川(天正13(1585))、天満堀川(慶長3
(1598))、阿波堀川(慶長5(16
00))がある |
自らも心斎橋のたもとに住んで「美濃屋」の屋号で営業したという。
江戸時代、大阪では民間による堀川の開削が盛んでそれに伴い多くの橋が架けられたが、そのほとんどは町人が管理する「町橋」であった。長堀川の場合では、紀州街道に相当する長堀橋だけが幕府が管理する「公儀橋」で他はすべて町橋である。町橋の管理は有力商人や橋に関わる町々が費用を負担していたとされるが、心斎橋については、現在の心斎橋筋2丁目に属する旧菊屋町に残されている多くの文書の中に心斎橋の架替えに関する文書が含まれており1)、町橋の架替えに当たって周辺の町々がどのように協力したかを読みとることができる。その手順はおおむね次のとおりだという。@橋が老朽化してくると橋詰めの4つの町の代表者が相談し工事の提案を行う。A工事の概算額を見積もり、町ごとの分担額を決める。心斎橋の場合は、橋詰めの2つの町(橋本町)が50%、残りを橋筋の町々(橋掛り町)が橋に近い町から順に10%ずつ等比で逓減しながら割り付けられることになっていた。B奉行所から工事の許可を得て、入札により工事請負人を決める。工事一式を入札に付する場合も材料購入と施工(工種別に分割して)をそれぞれ契約する場合もあった。D工事期間は通行止めの看板を掲出し、町内の事務などをしている町代らが現場を巡視する。E工事が完成すると盛大な渡り初めを行う。町内には紅白の餅を配り、作業に従事した人には祝儀をふるまったようだ。F町年寄の寄合いに決算報告を行い費用が各町に割り当てられる。享和2(1802)年の架替えにおいては銀20貫を要しており、これは現在の5,000万円ほどに相当するという。
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図1 広重による「浪花名所図会」のうち「順慶町夜見世之図」(出典:橋爪紳也監修「心斎橋筋の文化史」(心斎橋筋商店街振興会)) |
木橋は概ね20年くらいで架け替えるのが通常であり、町人の負担は大きかったと思われる。
心斎橋から南北に延びる通りを心斎橋筋と呼ぶ。大阪で一番の繁華街であり、買い物や食事を楽しみに来街する人の利便のためにガイド本の類がいくつも出版された。そのひとつ「浪華買物独(ひとり)案内」(弘化3(1846)年)には、心斎橋より北の船場地区で53軒、南の島之内地区で21軒の商工業者が掲載されており、北の方が盛んであった。が、現在のように心斎橋以南に繁栄が移っていったのは、芝居や見せ物の小屋が集まる道頓堀と、大阪で唯一の遊郭である新町を結ぶ道筋にあたったからだと言われる。暁
鐘成(あかつきかねなり)の「摂津名所図会(ずえ)大成」(安政2(1855)年)には「原来当地は繁花にして昼の間の昌んなることハ東雲の頃よりして黄昏に至るまで往来
櫛の歯をひくがごとし、然るに近頃夜市はじまり次第にさかんになりて、古しへより在来し順慶町におさおさ劣らず、入相時より二更(9時〜11時)の頃まで男女の群集あたかも潮のわくがごとし」とあり、新町通と心斎橋筋の交差する順慶町から始まった繁栄が拡大していたことを伺わせる。
斎橋筋の賑わいは多くの図会に描かれたけれども、心斎橋そのものは採録されていない。町々の費用負担を抑えるために質素なものが架けられていたのではないかと思われる。それが、明治に入って、政府が大阪府をおいて市街地の行政を管轄するようになると、
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図2 貞廣による「浪花心斎鉄橋之図 明治六年酉年」(出典は図2と同じ) |
心斎橋はその繁華にふさわしいものを架けようと考えられたようだ。明治6(1873)年に架けられた橋は、ドイツから輸入した錬鉄製の弓形トラス橋であった。設計は長崎生まれのオランダ語通詞
本木昌造と伝えるが関与のほどは不明。橋長36.7m、幅員5.2mで、橋脚を設けず1スパンで渡河するのに当時の人々は驚いたという(木橋の場合は2間(3.6m)〜4間(7.2m)のスパンであったと想像されている)。当時
流行した錦絵や絵はがきにさかんに取り上げられた。
しかし、この橋の寿命は長くはなかった。41年に長堀川の北岸を市電が通るようになったのを契機に、
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図3 緑地西橋に保存されている心斎橋の主構、歩行者自転車橋の両側に独立して主構だけが架けられている |
石造アーチ橋に架け替えられたのだ。撤去されたトラスは、境川に架かる境川橋に転用され、さらに昭和3(1928)年には大和田川の新千舟橋として利用された。その後、土木遺産の保存の観点から48年に鶴見緑地内に移設して篠懸(すずかけ)橋という公園橋になり、平成2(1990)年に国際花と緑の博覧会で公園が整備されるのを期に大阪市道鶴見区第8324号に再移設して緑地西橋として今日に至っている(トラス桁の主構のみをモニュメントとして使用)。
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図4 大正10(1921)年発行の「大阪・東京名所絵葉書」より「(大阪名所)心斎橋」(大阪市立図書館所蔵) |
わが国に現存する最古の鉄桁橋の遺構だ。
治42年に架け替えられた石造アーチ橋は、当時の大阪では唯一のもので、2連からなるその形態から「眼鏡橋」とも呼ばれた。幅員が8.9mに広がっている。設計は野口
孫市2)。石材は愛媛県越智郡の大島から運ばれた。橋の中央にはバルコニーが設けられ、ギリシャ建築を思わせる2本の柱により支えられている。また、橋上には8本のブロンズ製のガス燈が設けられた。
この橋は50年あまりに渡って市民に親しまれたが、戦災のがれきを処分したことが契機となって長堀川が
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図5 高欄だけが転用された歩道橋、鋼製下部工の簡素さとのアンバランスは免れない(大阪市建設局所蔵) |
昭和39年に埋め立てられるのに伴って撤去。なんとか残してほしいという声に応えて、長堀通りに架かる歩道橋の高欄に旧橋のものがガス燈ともども使われた(図5)。その後、地下鉄長堀鶴見緑地線の建設により再び撤去されたが、平成9(1997)年に「クリスタ長堀」の完成とともに、クリスタ長堀のうねるような屋根を水面に見立て、
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図6 燈具のデザインは市橋 栗山、柱石の「志んさいはし」の文字は当時の大阪府知事
高崎 親章の筆になると伝える |
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それを横断する部分に一部(橋長約7.5m)が復元された。四つ葉の装飾のある高欄は当時のもの。ガス燈具(燈火は電力で点灯)が高欄及び交差点の四隅に設置されている。また、傍らには石工棟梁と石材提供人の名が刻まれている銘板も展覧されている。
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図7 解体中に発見された銘板、石材供給人が建設時に紹介されていた人物と異なったのでこの発見は新鮮だった |
図8 高欄だけでなくアーチ部も擬似的に復元されているが残念ながら一般には心斎橋を側面から見ることはできない
(大阪市都市工学情報センターのHPによる) |
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長堀川はなくなったが、大阪の繁栄の象徴である心斎橋をできる限り現地で再現しようとする努力は評価されてよい。心斎橋の復活を願う市民の存在も与るところが大きかった。 |
(2012.08.13) |
1) 以下、菊屋町文書の解読は、大阪市土木部橋梁課長、阪神高速道路管理技術センター理事、大阪市都市工学情報センター理事長などを歴任された松村
博氏の「八百八橋物語」(松籟社)ほかによった。
2) 野口 孫市(明治2(1869)〜大正4(1915)年)は姫路藩士の子として生まれ、東京帝国大学造家学科に進んで耐震家屋について研究。逓信省を経て32年に住友家に招かれ住友営繕(現在の日建設計)に入った。住友本店社屋のほか、大阪府立図書館、大阪倶楽部(初代)、中央電気倶楽部(初代)などの設計を手がけている。
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