み   す
三栖閘門

伏見港の繁栄のよすがを伝える土木遺産

十石船が到着する三栖閘門、左の建物は資料館として復元された操作室
 月桂冠大倉記念館の裏手から十石舟に乗り込む。角倉了以の顕彰碑のあたりで濠川(ほりかわ)に向けて大きく左に梶を切った舟が外環状線の高架をくぐれば、目の前に現れるのが三栖閘門の勇姿。平成15(2003)年の第3回世界水フォーラムの一環として実施された伏見港港湾環境整備事業によりここに船着き場が設けられ、下船して見学できるようになった。

川は、豊臣 秀吉の堤防修築や江戸時代に行われた大和川の分離などによっても氾濫を抑えることができず、明治政府は近代土木技術を導入して淀川の治水にあたった。まず、明治7(1874)年から、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらの指導のもと、低水路を安定させて航路を確保する事業を行った。だが、18年7月には台風に伴う豪雨により左岸の枚方三矢堤など224箇所が決壊(「明治大洪水」と呼ばれる)、29年9月には今度は右岸の島本・鳥飼などで堤防が決壊し、本格的な治水事業の必要性が認識された。そこで、27年、第4区土木監督署長(大阪)であった沖野 忠雄1)により「淀川高水防御工事計画」が策定され、29年に制定した河川法に準拠して43年間までの約14年をかけて大規模な改修が行われた。「淀川改良工事」と呼ぶ。
 その内容は、新淀川の開削や南郷洗堰の建設など多岐に渡るが、
図1 淀川改良工事で行われた宇治川と木津川の付け替え、もとは淀の北方で宇治 川が桂川に流入しそこに木津川が直角に合流していた(左)のを八幡付近で三川が 滑らかに合流するようにした(右)
ここでは京都で行われた事業を紹介しよう。桂川・宇治川・木津川が合流する地点の下流には天王山と男山に挟まれた狭窄部があり、ここの疎通能力に限界があるために、大雨が降ると、合流部付近にある巨椋池を中心とした京都府南部にたびたび洪水を起こしていた。そこで、宇治川と木津川の河道を付け替えて三川を八幡付近でスムーズに
(従前)江戸時代に起源を持つ高瀬川と明治時代に開削された琵琶湖疏水がそれぞれ濠川に合流していた。 (変更後)宇治川右岸堤防と三栖閘門などにより伏見の町を洪水から守るとともに高瀬川と疏水を新高瀬川を介して直接宇治川につないだ。
 図2 伏見における河川・水路の変更
合流させる形にし、ひとつの河川の水位上昇が他の河川に影響しないようにした。併せて、宇治川と巨椋池の間に堤防を築いて両者を分離した。
 しかし、沖野らの努力にもかかわらず、大正6(1917)年10月には台風に伴う豪雨のため大きな洪水が起き、右岸の大塚堤が200mにわたって決壊するなど甚大な被害が出た。京都でも宇治市木幡から伏見にかけての広い範囲が冠水した(「大正大水害」)。これがきっかけとなって翌7年から昭和8(1933)年にかけて「淀川改修増補工事」が施された。三川合流点の木津川・宇治川の背割り堤の強化や桂川右岸の引堤などに加えて、宇治川の観月橋から三栖に至る右岸に堤防を設ける工事が行われた。右岸堤防を築造したことにより、伏見港は堤内2)に引き入れられることとなり、その機能を確保するため、三栖に閘門が建設されたのだった。併せて、濠川の水を宇治川に排水するための三栖洗堰と、濠川に流れ込む琵琶湖疏水と高瀬川の水を伏見の市街地を避けて宇治川に流すための新高瀬川の整備も行われた。
図3 三栖閘門の通航方法、水位の低い宇治川から高い濠川に行く場合、@閘室内の水位を宇治川と同じにした上で後扉を開き船を進入させる A扉を閉じ宇治川の水をポンプアップして閘室内の水位を上げる B前扉を開いて船を濠川に進ませる
 閘門とは、水位差のある水域を船が行き交うための施設。三栖閘門は、伏見の市街地を流れる濠川と宇治川を結ぶ。大正15年に着工し昭和4年に竣工した。閘室の延長73m、幅員11m、扉室の塔の高さ16.6m、前扉(濠川側)は
図4 完成当時の三栖閘門(出典:「三栖閘門資料館」のパンフレット)
9m×5m、後扉(宇治川側)は9m×9mある。竣工した頃は軍需拡張を目的とした舟運機能の向上が求められていたこともあって、石炭などを輸送する船が年間2万隻以上も通航した。また、昭和16年には、三栖閘門の北側に舟溜まりを設けることなどを内容とする伏見港修築計画が策定され、22年に竣工した。
和28年、台風13号の襲来を受けた淀川は、明治大洪水や大正大水害を上回る降水量のため、またも大規模な洪水に見舞われた。敗戦後の経済状況をさらに悪化させる災害に対して根本的な対策が不可欠とみた政府は、翌年、発電などを含めた水系の総合的な治水・利水に関する「淀川水系改修基本計画」をとりまとめた。ここにおいては、計画高水位の設定に確率の考え方を導入し、
淀川本川では100年に1度の割合で起こる洪水としてピークの流量を8,650m3/秒と想定し、そのうち上流のダムで1,700m3/秒を貯留して計画高水流量を6,950m3/秒と設定した。宇治川においては同様の考え方で計画高水流量が835m3/秒から900m3/秒に改定され、これに対応して観月橋から
図5 淀川の主な災害における浸水区域
宇治橋までの区間において河床の浚渫などが行なわれた。
 これらの改修事業により平時の宇治川の水位は低下した。三栖閘門では宇治川の水位が閘室の底面より下がってしまい、閘門が機能できなくなった。一方、淀川の水運は次第に陸上輸送に取って代わられ昭和37年には廃止されていたので、閘門は再建されることなくそのまま放置された。閘門の北にあった舟溜まりは埋め立てて「伏見港公園」として整備された(昭和43年)。
れから40年近くたった平成12(2000)年、国土交通省は閘門を修復保全し、周囲を「伏見みなと広場」として整備することとした。これに呼応して、地域の歴史・文化の継承・活用を希望する地元の有志らが十石舟や三十石船をここまで運行することが決まった。季節により異なるが1日20便ほどが三栖閘門を
訪れる。土木施設としては30年余りしか使用されなかった三栖閘門ではあるが、土木遺産としての見学者数はおそらく他を圧倒している。
 かつての操作室は「三栖閘門資料館」として復元整備された。説明員が常駐し、パネルや模型で三栖閘門が伏見の水運に果たした役割をわかりやすく展示している。また、後扉室は、扉の巻上機を地上に降ろして、塔屋に登って展望台として使用できるようになっている(要予約)。
図5 宇治川から見た三栖閘門、洪水時に宇治川の水位が高くなることを想定して扉体のスキンプレートは外面に湾曲している 図6 鋼材が惜しみなく使われたトラス構造の扉体、深紅の塗装と相まって力強い造形だ 図7 巻上機のモニュメント、電動機からシャフトでケーシング内の歯車に動力を伝えてチェーンを巻きとっていた
後に、
図8 原景観を保ちつつ稼働する三栖洗堰
三栖閘門のすぐ近くにある三栖洗堰も見学しておこう。こちらは閘門とは異なり現役で稼働している。閘門より1年早く昭和3年に完成した。平時は水門を開けて濠川の水を宇治川に排水し洪水時は閉じて宇治川からの逆流を防ぐ。すぐ横には洪水時に排水するポンプ施設もある。訪れたときは左端の開放されたゲートから水が勢いよく流れ下っていた。3面の湾曲した扉体で構成され、閘門と統一された景観を呈している。平成2(1990)年の改修で扉体を新調した際、あえてリベットを用いて往年のスタイルを保ったという。なかなか粋な配慮ではないか。

(2012.07.23)


1) 沖野 忠雄については、「新淀川」の稿を参照されたい。

2) 堤防から市街地側を堤内、河川側を堤外という。