市営交通モンロー主義

郊外電車の都心乗り入れを巡る熱い攻防

千日前線の難波駅、夕刻でも乗客は多くない
 平日の夕刻、10両編成の三宮発奈良行き快速急行が勤め帰りのサラリーマンらを乗せて出発する大阪難波駅から壁1枚へだてた地下鉄千日前線なんば駅では、転落防止柵が延々と続くホームの中ほどに4両編成の列車がちょこんと止まっていた。この需給のギャップはどうしたことだろう。わが国における公営交通の先駆けとして華々しく展開したはずの大阪市交通事業はどこで躓いたのだろうか。

治36(1930)年にわが国で初めての市営の路面電車を花園橋(現在の九条新道)〜築港桟橋間5.1kmを開通させた大阪市は、それが好調であったことから市電事業の将来性を確信し、市民生活に必要な交通機関は市営で整備する方針を早々に打ち立てた(36年11月「市街鉄道に対する方針確定の件」議決)。
 当時の大阪市内は、江戸時代から引き継いだ幅員6m程度の街路が多くを占め、近代都市として発展するためには道路拡幅や橋梁整備が緊要の課題になっていた。市電と街路を同時に整備することにより収益性の高い市電に事業費を分担させて街路事業の促進を図ろうとの考えを背景にもちつつ、市は「市民生活に必要な交通機関は利害を基準に運営されるべきではない」と主張して、市内交通の独占的一元化を企図した。当時の民間の鉄道事業は、これを有利な運用先と見る投資家や土地開発などの手段として営業する経営者が多く、安定的な事業運営について市民の信頼から遠かったので、大阪市の主張は市民の支持を得るところとなり、議会も強く賛意を示したのである。 この大阪市の方針は、後に交通評論家から“市営交通モンロー主義”と呼ばれようになる。モンローとは第5代アメリカ大統領のジェームズ・モンロー(James Monroe、1758〜1831)。アメリカ大陸へのヨーロッパの干渉を排除する政策で知られる。
 市は市電を推進力にして街路整備を進め、2期線として市街地を東西南北に貫く2本の路線の整備に着手した。沿道からは父祖伝来の土地を買収されることへの反対や、道路が広がることにより町が寂れると言った声もあり、事業は難航したが、南北線として大阪駅前から四つ橋筋を経由して湊町駅前・難波駅前から恵美須町まで、
図1 四つ橋交差点ではどの方向からも他の3方に行けるよう分岐器が設置され「ダイヤモンドクロッシング」と呼ばれた(出典:大阪市電編集委員会「大阪市電−路面電車66年の記録−」(鉄道史資料保存会))
東西線として九条中通1丁目から白髭橋・心斎橋・長堀橋を経て末吉橋までの、合わせて11.1kmを41年に開通させている。このときに整備されたのが四つ橋筋と末吉橋通(現在の長堀通の北半分)だ。四つ橋で両線が交差し、各方面に行き交う電車で賑わった。
 市街電車事業への民間からの参入が見込まれることから、大阪市では第2期線の開通を待たずにただちに第3期の計画を樹立した。その内容は13路線42.2kmという大規模なもので、
図2 長堀川に沿って走る東西線、写真は昭和13年頃のもの(出典:伊勢戸 佐一郎「埋もれた西区の川と橋」(大阪中部ライオンズクラブ))
しかも日露戦争後の好景気が一気に冷えた時期であったので反対の声は更に大きくなったが、42年と45年に起こった2度の大火が後押しする形で、むしろ事業は急速に進んだ。第3期線では国道1号(野田阪神〜空心町)・土佐堀通・本町通・堺筋・千日前通などが整備され、大江橋・淀屋橋・難波橋・大正橋・本町橋など42本の橋梁が架けられたが、これらに要した市債の償還にはすべて市電の収益金が充てられた。
 大正15(1926)年の御堂筋の建設に合わせ、大阪市はわが国で最初の公営の地下鉄の建設に着手した。将来の輸送需要の増大を見越して当初から12両編成に対応するなど、投資判断は大胆だった。昭和8(1933)年に梅田(仮)〜心斎橋間3.1kmを開通させたのを皮切りに、10年には難波まで、13年には天王寺まで延伸して、都心部の南北方向の交通軸を形成した。
 並行して市は第4期の市電網の整備を進め、昭和7年に25.2kmを完成させているほか、その後も路線を拡張し、
図3 市電の最盛期(昭和32年)の大阪の市営交通と国鉄・私鉄線、昭和13年に梅田から天王寺まで達した地下鉄は市電網の及んでいない地域への延伸が優先されたためターミナルの連絡は市電に頼っていた
新千歳町・緑町・今里・百済などの新たに形成されつつある市街地にも市電が到達するようになった。また、6年には守口まで延伸するとともに、19年には阪堺電鉄1)(芦原橋〜浜寺間)を買収して堺市にも進出している。
営交通モンロー主義が先鋭的に表明された例として、市による民鉄の都心乗入れ阻止がある。
 明治43年に開通した京阪電鉄は、当初、大阪の金融・商業の中心である高麗橋付近を起点とすることとして許可を受けていたが、大阪市は京阪の起点を天満橋まで後退させ大阪駅前から天満橋までは市電を敷設することを提案した。このときの提案では、代償として京阪電車が市電に乗入れて大阪駅前まで行ける内容であったため、京阪は市の提案を受入れたのだが、開通間際になって車両の大きさに係る厳しい条件が追加されたため、京阪は乗入れを断念せざるを得なくなった。京阪電鉄の社史はこの事態を「当社の将来にとって非常に未練が残る後退であった(「京阪70年のあゆみ」)」と記している。
 次に京阪電鉄が新京阪線を梅田に乗入れさせる免許を受けた際にも、これに反対している。大阪市は、事前の説明を受けていなかったとして、その前提となった城東線高架化後の不要地の使用を国鉄と京阪の密約だと非難し、都市計画に係る自治権の侵害だと猛反発したのだった。市の反対もあって、結局は新京阪線の梅田乗入れは頓挫する。併せて、額田(ぬかた)で分かれて桜ノ宮で新京阪線に合流して梅田へ乗入れる新線の免許を受けていた大阪電気軌道(現在の近鉄奈良線に相当)も
図4 大阪市周辺において都市交通審議会答申3号(昭和33年)に盛り込まれた計画線、丸数字は地下鉄の路線番号(出典:「大阪市及びその周辺における都市交通に関する答申附図(2)」(関係部分を抄録)
事業の断念を余儀なくされた2)
 戦後では、昭和21年に阪神電鉄と近畿日本鉄道(近鉄)が野田から難波を経て鶴橋を結ぶ路線を建設して両線の直結を図るため「大阪高速鉄道」を設立して免許申請をした際に、これに対抗した大阪市が両社の計画と全く競合する5号線(現在の千日前線)の特許を23年に申請している。5号線は、将来は伊丹空港まで行こうかという野心的な計画であったので、阪神と近鉄はこれと争うのを諦め、千鳥橋から難波を経て上本町に至る路線(現在の阪神なんば線及び近鉄難波線)に変更して再申請したが、大阪市はこれにも反対した。しかし、戦後復興に伴う交通需要の高まりに市の地下鉄整備が対応できていなかったことから、この局面では民鉄側を支援する声も強く、結局、33年の都市交通審議会3)答申では両者がともに認められることとなった。九条付近での反対運動で阪神の難波進出が滞る中、大阪市は45年に野田阪神〜新深江間5.9kmを開通させ、近鉄も上本町〜難波間2.0kmを開通させている。
 33年の答申は、このほかにも3社4路線の都心への乗り入れを審議している。興味深いので、その後の動きも含めて個々に見ていこう。  
 ひとつは京阪電鉄の淀屋橋延伸だ。明治43年に苦渋の選択を強いられた京阪は、併用軌道の解消、曲線の改良、車両の長大編成化に併せて天満橋駅の拡張を行ってきたが、輸送需要の増大に対応するためには地下鉄との接続が不可欠として、昭和31年に天満橋から淀屋橋まで1.6kmを地下で延伸する特許を申請していた。天満橋での市電への乗り換えが殺人的とも言われる混みようであったことから、都市交通審議会の決定も推進力となって34年に特許を得たのちは、大阪市から付帯工事の条件を付けられた他はスムーズに協議が進み、38年に念願の都心乗入れを果たした。ただし、市も黙って京阪の進出を許している訳ではなくて、答申には地下鉄2号線(現在の谷町線、守口〜梅田〜天満橋〜天王寺間)を認めさせている。さらに京阪は、大和田から分岐して森ノ宮に至る路線を答申に盛り込むのに成功したが、対する大阪市は大阪港から森ノ宮を経て放出に達する4号線(現在の中央線に相当)を提案し、京阪の進出を牽制した。
 次は南海電鉄だ。南海電鉄は難波にターミナルを形成していたが、梅田への進出も希望していた。32年に今宮戎〜梅田間の免許を申請する。そのルートは、大阪球場(現在のなんばパークス)付近で本線から分岐して新川下水跡で地下にもぐり、西横堀川の下を通って北上するというものだった。これに対抗した大阪市は大国町〜玉出間を運行していた3号線(現在の四つ橋線)を延伸して、南海とほぼ同じルートで梅田に達する案を持ち出した。33年の答申では、両案を一本化する方向で更に検討ということで継続審議の扱いとなる。審議は37年まで続いたが、御堂筋線の混雑緩和の必要性を主張する大阪市の意見が容れられ、3号線を延伸する案に決着した。市は四つ橋筋にルートを変更して直ちに工事を始め40年に開通させている。なお、市は37年に新川下水跡地と西横堀川に阪神高速道路を都市計画決定し、梅田進出をもくろむ南海の息の根は完全に止められた。さらに、地下鉄3号線を玉出から大浜まで延伸することが答申され、南海は逆襲にあっただけという結果になった。
 阪急電鉄は千里線の天神橋筋六丁目以南への延伸を提案する。これは、同線が大正14(1925)年に「新京阪線」として建設されたときからの念願であったが、審議会では環状線の天満までの延伸については阪急を事業主体としたものの、そこから動物園前までは事業主体を決められなかった。地下鉄として建設する案の他に、阪急がそのまま延伸する案や南海が天下茶屋から延伸する案、恵美須町を起点とする阪堺電車を高速鉄道化して北伸させる案も検討されたという。都市交通審議会が調整する形でその後も各社の協議が続けられた。軌間や電圧・集電方式が異なるので難航したが、40年になって、折からの万博関連輸送の要請から、大阪市が阪急と同じ規格で天神橋筋六丁目〜動物園前間を建設し阪急と相互乗り入れすることで決着した(市議会には阪急との直通運転に反対の声が強かった)。ここでも南海は取り残された。
 万博を契機とする都市交通網整備に当たって、私鉄の地下鉄御堂筋線までの延伸が図られたという点で、市営交通モンロー主義の一端が崩れたという意見もある。私鉄の都心乗入れが認められた要因には、大阪市が街路と地下鉄を併せて整備する手法を採ったために、谷町線 東梅田〜天王寺間の開通が43年、中央線 大阪港〜深江橋間の全通が44年までかかるなど、都心部において遅々として地下鉄整備が進まないことへのいらだちがあった。が、京阪や近鉄が御堂筋線に連絡するようになったことで、御堂筋線を始めとする地下鉄の重要性はむしろ格段に増大したと言えよう。
 45年の万博を追い風にようやく都心部の整備を終えた地下鉄は、こんどは郊外化に向かう。すでに38年の段階で、大阪市は「地下鉄基本計画」を議決し、御堂筋線の千里及び中百舌鳥への延伸、中央線の石切までの延伸、千日前線の川辺への延伸(この計画は谷町線の延伸の形で実現する)などを決意していた。まず、万博関連事業として御堂筋線を北伸させようとしたが、この時は豊中市を事業エリアとする阪急が「北大阪急行電鉄」を設立することにより、地下鉄の進出を江坂で抑えた。同様の例は中央線の東伸においても見られ、長田以東は近鉄が建設している。
ころが、地下鉄の郊外化とは裏腹に、都心部では他の事業者の参入が顕著になってきた。その最たるものは、片町線と福知山線を都心を経由して直結する「片福連絡線」(現在のJR東西線)だ。昭和46年の都市交通審議会で答申されたが、国鉄民営化後の63年に至って第3セクターの「関西高速鉄道」が建設することとする調整が成立してようやく具体化された4)。ここでは大阪市は当路線を市営地下鉄とすることを主張せず、市のサービスが及んでいない西淀川区にルートを導くよう主張しただけで、関西高速鉄道に出資してその事業を支援している。平成9(1997)年の開通と同時に、JRでは片町線(学研都市線)と福知山線(JR宝塚線)との直通運転のみならず、片町線と東海道線の神戸方面、東海道線の高槻方面と福知山線との直通運転も始めている。
 また、33年の都市交通審議会で議論となり当時は反対した阪神電車の難波乗入れについても、平成13年に大阪市は当該路線の建設を担う「西大阪高速鉄道」に出資した。21年に開通した際に尼崎〜大阪難波間を「阪神なんば線」と改称し、ここを経由して阪神三宮〜近鉄奈良駅(約65.2km)を最長とする相互直通運転を行うことで阪神・阪奈間の広域的な移動の利便性が向上したと、好評である。
 さらに、都心を南北に縦貫するなにわ筋線も、徐々に具体化に向かいつつある。なにわ筋線とは、新大阪から淀川を渡って「うめきた」で地下に入ってなにわ筋を南下してJR難波及び南海電車の難波付近に至るもので、既存のJR阪和線や南海本線に乗り入れることで関西国際空港と都心との直結が図れる路線として期待されている。近畿運輸局は「高速交通ネットワークへの鉄道アクセス改善方策に関する検討会」(座長:斎藤 峻彦 近畿大学名誉教授)を設置して関係機関の調整を進めたが、ここでも大阪市はJRと南海が運行することを支持しているように思われる。
 このように、市営交通以外の郊外電車が都心を貫通して走る状況を大阪市が自ら推進せざるを得なくなったのは、新規路線による需要喚起が市内よりも周辺都市の方が大きく、投資を回収するのに郊外電車側の既存路線に発生する増収に頼らなければならなくなったということだ。これは、大阪市の発展に伴い市街地が郊外化したためにほかならず、大阪市の社会経済活動の拡大のために市営交通の拡充を図ってきた市にとってはまことに皮肉な結末と言わざるを得ない。また、都市交通審議会の設置に見られるように、地下鉄網の計画が運輸省の手に移ったことも、市のイニシアティブを低めることになったに違いない。街路事業と一体で整備されてきた路面電車と異なり、地下鉄は路面電車がすでに整備した街路の地下に導入すれば足りることから、市が都市計画事業として行わなければならないとする必然性が弱いからであろう。
 近年、地下鉄の経営改善が良好な成果を収めているとは言え、地下鉄のきわめて高額な建設費の債務負担が経営に大きくのしかかっていたのは事実である。今、ふりかえってみるに、市としては最小費用で最大効果を得るように、自らが整備する区間を精選するとともに、相互乗入れ等により他社線をフィーダー線として活用して、効率的な輸送を企図すべきであったと思われる。
 一方、路面交通であるバスについては、大阪市のほぼ全域に市バスが通じており、幹線と支線の乗継ぎシステムなどにより利便性の高いサービスを提供している。平成23年に市長に当選した橋下 徹氏が、市バスの営業エリアを分割してそれぞれを民間に移すことを提案したことがあり、これを契機にバスサービスがどのように変化していくのか、今後の動向が注目される。
(2012.06.16)


1) 西成区・住之江区付近で宅地開発を行っていた港南電気軌道が改称した電鉄会社。昭和2年に芦原橋〜三宝車庫間を開業し、10年に浜寺までの延伸を完成させた。開業時にすでに阪堺線(恵美須町〜浜寺公園)がすぐ近くを走っていたため、混同を避けるため「新阪堺」と通称された。当初は極めて厳しい経営状況だったが、日中戦争の勃発により臨海部の軍需工場が活気づき、混雑が著しくなった。しかし、府警本部から「輸送業務改善命令」が発せられるに至っても同社の努力では芳しい改善が見られないため、大阪市が買収するほかないと判ぜられ、昭和19年に軌道事業を譲渡して解散した。

2) 大阪電気軌道(以下「大軌」という)は自社エリアの権益確保のため石切付近〜天神橋筋四丁目間の免許を保有していたが、伊勢への進出に精力を注いでいたため、本路線の建設には熱心でなかった。ところが昭和4年に東大阪電鉄に対して森ノ宮から奈良までの免許が与えられたことから、大軌は急遽 具体化させ、起点を額田、終点を新京阪線の桜ノ宮に変更して工事に着手した。しかし、新京阪線の計画が頓挫したことにより本路線の工事は凍結。さらに、国鉄が片町線の電化を始めたこともあって、本事業の再開に至らず、事業途上の用地及び路盤等は大阪府と今福土地区画整理組合に売却された。鶴見西口付近から寺川付近の府道大阪生駒線(通称 阪奈道路)はその跡である。また、大阪市建設局東公営所付近の城北川に架かる橋梁は、大軌が下部工まで仕上げていたのを転用したもので、「大喜橋」と名付けられている(右図)。

3) 戦後の急速な都市部の人口増加に対応した鉄道整備を計画的に行うため、運輸大臣の諮問機関として昭和30年に設けられた委員会。従来の地下鉄事業では需要の急増に見合った建設ができないため、私鉄も含めた調整が必要となったものである。大阪部会は31年9月から審議が始められ、33年3月に答申を出した。

4) 国鉄は市内交通の改善にはほとんど手をつけなかったが、民営化されたJR西日本が熱心になったのは、私鉄との競争を制することを重視したためと考える。東西線ほど大規模ではなくとも、若干の投資をして、複数路線の渡り運転をすることにより都心への直達性を向上させる事例が見られる。