阪急千里線

数奇な経緯の末に阪急の手に渡った鉄道

複数の形式の下部工が混在する阪急千里線新神崎川橋梁
 千里ニュータウンの足として活躍する阪急千里線。だが、阪急の路線となったのは昭和24(1949)年、梅田まで乗り入れるようになったのは34年と、いずれも比較的新しい。本稿では、それまでの複雑な生い立ちを紹介しよう。

阪の私鉄は、箕面有馬電鉄(現在の阪急電鉄)の成功に触発されて、こぞって沿線に住宅地を開発していたが、第1次世界大戦の後の好況は住宅需要を急増させ、近郊の台地や丘陵地の開発が著しく進んだ。大阪の北に広がる千里丘陵もその例外ではなかった。この地で不動産開発を企図していた「北大阪土地」は、開発を進めるには鉄道が不可欠と判断し、2度にわたって申請したが、資本力のない会社では実現はむつかしいといずれも却下された。そして、3度目の申請でようやく大正6(1916)に免許がおりたのだった。会社はさっそく千里丘陵の広大な土地の買収を始めた。
 このときの路線は千里山から天神橋筋六丁目までであったが、やはり当局が懸念したとおり、淀川を渡河する橋梁の建設は困難だったようだ。3回も施工認可申請を延期したあげく、結局は、東海道本線の吹田〜大阪間での線路付替え1)の跡地の払下げを受けて、阪神急行電鉄(有馬箕面電鉄が神戸に進出するに当たって改名したもの)十三駅に乗入れる計画に変更するなどして、7年11月に「北大阪電鉄」を設立。9年2月に着工して10年4月に十三〜豊津間を、10月に豊津〜千里山間を開業した(豊津〜千里山間が遅れたのは、垂水地区にあった墓地の移転交渉が遅延したためという)。途中駅は、南方、崇禅寺、淡路、下新庄、東吹田、西吹田、豊津、花壇前2)
 電車は開通したが、吹田あたりに若干の乗降客があるほかは、他の駅は水田や竹藪の中にあるようなもので実に閑散としていた。北大阪土地グループの当面の目標は電鉄事業にはなく、電鉄が存することによる住宅開発の促進と地価の上昇にあったから、せっせと千里丘陵を削っては自社線に土運搬車を走らせて
図1 販売パンフレットに見る千里山住宅地の街区計画、ロータリーから放射状に伸びる街路と適宜に残された丘や松林が特徴的(出典:http://www.senriyama.net/image/jutaku-panflet.jpg)
淡路や南方で買付けた低湿地を盛り、宅地の造成を続けた。
 千里山住宅地を整備したのは北大阪土地の別働隊とも言うべき「大阪住宅経営」である。当時の好景気は「大正ロマン」と呼ばれる自由で華やかな気風を生んでおり、それを支えたのが都市に通勤するサラリーマン層だった。同社は、彼らの需要に応えるべく、北大阪電鉄から譲り受けた千里村大字佐井寺地区の土地について、内務省の外郭団体であった「都市研究会」に委託して、ロンドン郊外の田園都市レッチワースをモデルにした、放射状の街路をもつ街区計画を策定した。当時の販売パンフレットによると、電気・ガス・下水道完備という先進的なインフラを備え、
図2 千里山住宅地のロータリーに設けられている噴水
撞球場などがある会館やテニスコートなどが設置されている。
 次いで、北大阪電鉄と大阪住宅経営は、沿線開発の一環として「関西大学」を誘致した。関西大学は、明治19(1886)年に天神橋筋六丁目に開校した「関西法律学校」を前身とするが、大阪商工会議所会頭を務めた山岡 順太郎を招聘して大学令に基づく総合大学への昇格を申請。新たなキャンパス用地を求めていた。両者の思惑が一致し、北大阪電鉄の開通の翌年に千里山に移転した。電鉄では花壇前〜千里山間に関西大学前駅を新設してこれに応じた。通勤とは逆方向の輸送需要が生まれることから、電鉄としては好都合であったろう。
 こうして歩み始めた北大阪電鉄だったが、翌年には早くもその歴史の幕を閉じる。その事情はこうだ。
の頃、淀川の左岸を走る京阪電鉄は、自社線のスピードアップに苦しんでいた。京阪線は、京街道に沿って敷設したためカーブが多かったのだ。阪神間における阪神電鉄と阪神急行電鉄のような競争が京阪間で起こっては決定的に不利だと考えた同社は、先手を打って、天満橋と三条の間に淀川右岸を経由する線形のよい別線(「新京阪線」と呼ぶ)を建設することを計画した。が、「既存のターミナルでは旅客が処理しきれない、別途 ターミナルを設けよ」として認可が下りなかった。結局、京都側のターミナルは大宮とすることで了解されたが、大阪側のターミナルは見いだせないままでいた。
 ちょうど折良く、同社は城東線(現在の大阪環状線の東側の区間)に高架化の計画がありそれによって既存の城東線敷地が不要となることを知った(京阪線が城東線と交差していた関係で事前協議を受けたのと思われる)。
明治31年に有馬箕面電鉄が開通、34年に東海道線が新淀川開削に関連して細線から太線にルート変更 大正2年の東海道線の線路付替え跡地も利用し 10年に北大阪電鉄が開通、淀川を渡らず十三に乗入れる 北大阪電鉄は新京阪に譲渡され、淡路〜千里山間は千里山線に、淡路〜十三間は十三線に編入(点線は新京阪線の当初ルート案)
図3 北大阪地域における鉄道網の形成過程
渡りに舟と、同社は、新京阪線を、上新庄から赤川、都島を経て桜ノ宮3)に至り ここから不要地を利用して葉村町(現在の中崎町付近)まで達する路線として計画し(後に約0.8km延伸して角田町に変更)4)、ようやく免許を受けることができた。ところが、郊外電車のターミナルは都心外縁部に分散的に配置しその間を市営交通で連絡することを計画していた大阪市は、
図4 本格的な駅ビルの嚆矢とされる新京阪ビル、2階が天神橋駅のホームになっておりアーチ部を開いて梅田方面に延伸することが予定されていた(出典:橋爪 紳也「絵はがきで読む大大阪」(創元社))
新京阪線の梅田への乗り入れに猛反発。加えて、城東線の高架化工事も着手が遅れた5)
 新京阪線の早期建設を焦った京阪が次に目をつけたのが、淡路〜天神橋筋六丁目間の免許を持っていた北大阪電鉄だったのだ。京阪は北大阪電鉄の株の過半を取得して経営を支配。12年4月、同社は電鉄事業の一切を京阪に譲渡し、「京阪土地」と改称して不動産経営に専念することとした。新京阪線は、14(1925)年10月に天神橋〜淡路間、昭和3(1928)年1月に淡路〜高槻町(現在の高槻市)間、同年11月に高槻町〜京都西院間が次々と開通した。京阪はあくまで梅田進出を夢見ていたので、天神橋のターミナルを暫定的ものと考えており、いつでも駅舎の壁を貫通して路線を延ばせるようにしていた。
 しかし、延伸は実現しないまま時間が経過した。戦時輸送の合理化の指示を受けて18年に京阪電鉄は新京阪線ともども阪神急行電鉄と合併して京阪神急行電鉄となり、戦後、両社が分離されるときには、京阪電鉄にとって不幸なことに、新京阪線は京阪神急行電鉄に残すこととされてしまった。十三〜淡路間と淡路以東の新京阪線が「阪急京都線」となり、天神橋〜淡路〜千里山間は同社の「千里山線」と称した。京都線の一部の電車が十三から宝塚線に乗り入れて梅田まで行っていたが、34年2月に十三〜梅田間の三複線化が完了すると、優等列車は梅田をターミナルとするようになり、天神橋は主に普通列車が発着する駅となった。同時に千里山から梅田への直通運転も始めた。42年に北千里まで延伸した時に名称を「千里線」に変更して現在に至っている。
図5 下新庄駅構内にあった夜久野暗渠(平成24年3月撮影)、煉瓦2層巻きのアーチは国鉄では3尺(約 0.9m)以下の橋梁によく見られる形式
大阪電鉄から京阪電鉄を経て阪急電鉄の手に渡るという数奇な変遷を辿った千里線だが、もとは東海道線の跡地を転用したものであったので、明治9年の官営鉄道に遡るものが最近までのっこていた。
 まず、ご紹介するのが、下新庄駅構内にある「夜久野暗渠」。アーチ部のレンガを楔形に整形したり焼き色を変えたりと、丁寧な作品に仕上がっている。
 そしてよく知られているのが、標題に掲げた下新庄〜吹田間にある神崎川を渡る橋梁だ。 「新神崎川橋梁」と呼ばれる現橋は13連上路版桁橋だが、もとの神崎川橋梁は4径間の100ft(約30.5m)
図6 新神崎川橋梁のうち官営鉄道に遡ると見られる橋脚
級単線ポニーワーレントラスだったそうだ。上部工は北大阪電鉄の建設より一足早く大正6(1917)年に兵庫電軌(現在の山陽電鉄)に払い下げられ舞子跨線橋(L≒23.5m)として転用された(昭和62(1987)年に撤去されて同社の東二見車両基地に部分保存されている)。また、下部工については、いろいろな形式の橋脚のうち、円形レンガ積みのものが官営鉄道に由来するもの。北大阪電鉄が架橋するに当たり、既存の橋脚の間に2本ずつ新しい壁式橋脚を追加して径間を約10mに短縮し、上部工形式を簡単にしたのである。
京阪線の建設の経緯もあって、淡路駅付近では複雑な平面交差が生じており、線路容量の大きなネックとなるとともに潜在的な事故可能性もある。そこで、大阪市では阪急京都線・千里線の連続立体化事業を平成9年度より始めており、今、現地では工事の最盛期を迎えている。本事業により淡路駅は方向別の2層高架(千里山・高槻市方面行が3階、梅田・天神橋筋六丁目方面行が4階)になる予定で、対面する電車が交差することは解消されることになっている。千里線は、淡路駅からJRおおさか東線や東海道新幹線を上越しして下新庄駅に達し、ここから吹田付近の東海道線との交差部に向けて下っていくように計画されているが、神崎川を渡河する箇所では現橋よりやや高い位置になるため、新しい高架橋を建設する必要がある。事業を所管している大阪市建設局によると、順調に進めば平成28年半ばには現在の橋脚は撤去が開始されてそのあとに新たな橋梁を建設することになると言う。現橋のすぐ上流では、工事用仮線の橋梁の架設が着々と進んでいた。
(2012.05.07) (2015.03.15)
 
1) 明治9(1876)年に大阪〜京都(仮)間が建設されたときの大阪〜吹田間のルートは、右図(明治18年測図)のように、神崎川や中津川と直交させるため、官営鉄道としては小さな曲線を交えたルートになっていた。29年から新淀川の開削を含む淀川改修工事が着手され、それに伴い34年にルート変更がなされたが、これにより、もともとカーブが多かった大阪〜吹田間の線形はさらに悪くなった。大正2(1912)年になって、大阪駅を経由せずに貨物列車を走らせる北方貨物線の建設及び線形の改良のため、現在の東淀川駅を通るルートにつけ替わった。

2) 北大阪電鉄は電車の開通に先立ち、観光客の誘引のために線路沿いの景勝地に花壇、展望台、余興場などがある「千里山花壇」を開設しており、その最寄駅として設置した駅である。なお、同駅はしばしば名前が変わったことで有名。すなわち、千里山花壇が遊技機などを増設して大正13年に「千里山遊園」と改名したのに併せて駅名も「千里山遊園」に変更した。さらに、昭和18年には、戦時に"遊園"はふさわしくないとの軍の指摘を受けて「千里山厚生園」に変更し、21年には再び「千里山遊園」に戻した。25年に同園が閉鎖されると、跡地に宗教法人が学校を設けることを予定していたため駅名を「女学院前」としたが、女学院ではなく関西大学が拡張することとなったため26年に「花壇町」に変更した。39年に千里線の輸送力強化のために、隣の「大学前」と統合して中間に「関大前」を開設して現在に至っている。

3) 城東線の高架化にあたり、京阪は、桜ノ宮駅のやや東で自社線が交差するとして、城東線に費用負担して当該部分を橋梁にした。「京阪電鉄乗越橋」という。交差角がきわめて浅いため、径間長が20m近い2径間の上路版桁橋になっている。京阪が梅田進出を断念したため、結果的には使われず、現在は店舗等が占用している。



4) 梅田駅の用地にする予定で京阪が角田町に取得していた土地は、阪急に売られて「HEP FIVE」になっている。

5) 城東線の高架化事業は、大正12年9月に起こった関東大震災の復旧・復興事業に予算を重点配分するという政府の方針により着手が見送られていたが、公共事業による景気浮揚を目的に昭和3年7月に着工となり、8年2月完成にしている。