阪神電鉄武庫川線
西ノ宮〜武庫川


戦争遺産と言うべき鉄道の廃線敷きを歩く

本線から武庫川線に電車を回送する引上線、傍らに使われないレールが存置されていた
 阪神電車武庫川駅は武庫川の両岸に出入り口を持つ風変わりな駅で、その西口から武庫川右岸に沿って走るのが「武庫川線」。阪神電車で唯一のフィーダー型支線だが、もとはJR西宮駅まで達していたという。今回はこの廃線区間を歩いてみた。

光明媚な武庫川河畔に電車が登場したのは、太平洋戦争が激しくなった昭和18(1943)年のことである。現在 武庫川団地が広がる高須町のあたりに、戦闘機「紫電改」を製造していた「川西航空機」の工場があったが、戦況とともに、工場は隣接する「浜甲子園阪神パーク」、「阪神競馬場」、「鳴尾ゴルフ倶楽部」の土地も接収して、フル生産を開始した1)。従業員が大幅に増加した(「国民徴用令」で6万人以上を集めたと言う)ため、この「産業戦士」の輸送という軍の要請を受けて阪神電鉄が武庫川〜洲先(現在の「武庫川団地前」に相当)間1.7kmの建設を開始したのが7月31日。
図1 阪神電鉄武庫川線の現況と廃線部分(黄色)
勤労奉仕の学生を動員して突貫工事を進め、早くも11月21日には運転を開始した。この区間が現在まで残っている武庫川線の原型である。
 当時、阪神電車は国道2号に「阪神国道線」という路面電車を走らせていたが、同社は武庫川線をそれに接続させるための延伸を図り、武庫大橋〜武庫川間1.6kmについて、19年3月3日から工事を始め8月17日には完成させている。 さらに、航空機工場への資機材の輸送のため国鉄との連絡を図るよう要請を受け、西宮〜武庫大橋間3.6kmを10月20日に着工し、11月12日に完成させた。甲子園口2)を通り過ぎて西宮まで引っ張ったのは、甲子園口には貨物扱いがなかったから(西宮では、駅の東にビール工場があったことから相当量の貨物を扱っていた)。工場引き込み線を一部 利用したとは言え驚くべき早さだ。
 武庫川線のうち最後に開通した西宮〜武庫大橋間は、阪神電鉄武庫川線と名乗っていても、阪神電鉄は競合する国鉄駅に電車を運行するつもりはなく、
図2 給水塔の遺構がモニュメントとして保存されている「甲子園口SL公園」
図3 武庫川駅ですれ違う国鉄の蒸気機関車と阪神電鉄の電車(出典:日本経営史研究所「阪神電気鉄道八十年史」)
国鉄の貨物列車が乗入れるだけであった。貨物列車の運転は国に委託していたので、実質的には西宮駅構内の貨物線を延伸したようなものだった。
 また、武庫大橋〜洲先間には阪神電鉄の旅客電車と国鉄の貨物列車がともに走ることとなったが、そのために厄介なことが起きた。国鉄はすでに東海道線の電化を終えていたが、阪神と国鉄とでは電圧が異なった(国鉄が1,500V、阪神が600V(1,500Vに昇圧したのは昭和42年))ので、架線を併用することができなかった。そこで、国鉄は武庫川線は蒸気機関車で運行することとし、西宮駅の東方に給水塔などの蒸気機関車のための設備が設けられた。軌間(2本のレールの内間隔)も両者で異なっていた。すなわち、阪神は標準軌である1,435mm、国鉄は狭軌である1,067mmを採用していたので、当該区間は双方の車両が走れるように三線軌条3)とした。
 考えてみれば、武庫川線の特徴とされている三線軌条も蒸気機関車の運行も、国鉄が武庫川線を建設しておれば生じなかったことであり、軍が始めに阪神電鉄に対して要請を出したことが、武庫川線を複雑で非効率な路線にした原因であった。軍は、輸送に関する確たる見通しをもっておらず、場当たり的な判断をしていたのではなかったかと、筆者は疑う。  
 上記のように、武庫川線は軍事目的が色濃く出ており、軍の指示で建設を急いだことから、かなり強引なことも行われたようだ。武庫川の堤防を彩っていた松の古木の多くが切り倒され、墓地の中をも突っ切って線路が敷設された。が、敵軍の攻撃目標となり、20年6月9日の空襲で被災。戦後は軍需工場の稼働もなくなり運行休止の扱いとなった。一時、鳴尾に進駐軍が駐屯したので、その物資輸送のために貨物列車の運転が再開されたことがあったが、進駐軍の引揚げとともに貨物需要も減退し、昭和33年に廃止となった。また、旅客を扱う電車の方は、武庫川〜洲先間で23年に営業を開始しているが、この時 洲先駅は当初の位置より手前に移されている。その後、59年にもとの洲先駅の位置に武庫川団地前駅が開業し現在に至っている。武庫大橋〜武庫川間の営業は再開されることはなかった4)
は、阪神電鉄武庫川線跡の現況を見てみよう。スタートは、中津浜線が立体交差しているすぐ東にある「甲子園口SL公園」。ここには蒸気機関車の給水塔の遺構が保存されている(図2)。これから東に向いて線路に沿って進むと、JR線の盛土は法尻(のりじり)が3段ほどの石積みになっており(図4)、武庫川線の建設に当たって法をたてて線増を図ったことが伺われる。
図4 「甲子園口SL公園」から甲子園口駅方向を臨む 図5 南坑口から見た「甲子園口マンボウ」、新旧の断面の違いがわかる
図6 築堤がなめらな曲線でもってマンション敷地につながる 図7 武庫川堤に併設された遊歩道、当時の路盤より高く盛られているようだ
図8 国道2号交差部から北を見たところ、幅10mほどの空き地が続く 図9 堤防に沿って1列に並ぶ住宅が廃線敷きの形状を保っている
甲子園口駅の西に「マンボウ」があるが、それを南から見ると図5のように明治期に作られたアーチ型の構造物の手前にコンクリート製の構造物が継ぎ足されたようになっている。継ぎ足された部分は約4.5mで、おそらく1線が付加されたものと思われる。甲子園口駅から東に向かうと、石積みは徐々に高さを減じつつ右に曲がり、その延長上には新しいマンションが建っている(図6)。
 マンションの南では、廃線敷きは武庫川の堤防と接していたようで、天端からやや下がったところに幅8mほどの遊歩道が整備されていた(図7)。往時の路盤は堤防に沿いながら少しずつ縦断を下げていたものと思われるが、きれいに桜が植えられた遊歩道はそのまま伸びている。鳴尾浄水場のあたりで遊歩道は狭くなり、堤防の下に細長い土地が国道2号まで続いており(図8)、これが廃線敷きであろうと想像される。武庫川線は国道の下を横断していたはずだが、それらしい痕跡は見られなかった。国道2号より南の廃線敷きはすべて宅地になっていた。側道に面して一列に並ぶ住宅(図9)は、周辺も戸建ての宅地であることから、
図10 「旧国道」との交差部から武庫川線の活線部を覗く
やや小規模ではあるが違和感なくとけ込み、跡地の有効な活用方策であると感じられた。武庫川線は長く「休止」という扱いであって、その間はレールなどが存置されていたことを記憶する人も多い。が、遊休地の活用はどの事業者にも切実な命題であって、廃止後の武庫川線においても例外ではなかった。
 「旧国道」と通称される市道幹23号線との交差部には橋梁が残っており、ここから南を伺うと武庫川線の架線柱が見えた(図10)。それを反対側から見たのが表題の写真で、左側は本線から武庫川線に車両を回送する際に用いる引上線。1日数回ではあるが電車が走る現役の線路である。右側の歪んだレールが廃線であるが、残念ながら三線軌条の状態では残っていなかった。
(2012.04.06)

1) 「川西航空機」は当初は飛行艇を主力製品としていたが、戦闘機を製造するようになって試験飛行のための飛行場が必要になった。軍は所要の長さの滑走路を設けるため、室戸台風の復旧事業で建設された防潮堤を撤去して埋立地を広げたが、そのために昭和19年には防潮堤の欠けたところから高潮が侵入し鳴尾地域が大きな被害を受けている。飛行場も 当然 被災したはずだ。昭和23(1948)年に撮影した右の写真(国土地理院のHPによる)で滑走路の端部を遮って建設されている防潮堤は米軍が整備したもの。現在もこれが海岸線となっている。以上は主にhttp://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/
archives/55485222.htmlから教えられたことだが、戦争末期におけるわが軍の短慮を示す例と言えよう。

2) 甲子園口駅は、昭和9(1934)年に東海道線の吹田〜須磨間が電化されたのに併せて新設されたもの。付近の線路勾配は、武庫川を渡るために7.5〜10‰で設定されており、蒸気機関車で運行していた時期にはここに駅を設けることはできなかった。

3) 1対2線の軌条(レール)を敷設するのが通常であるところ、軌間の異なる車両を運転するために片側の軌条を共用し他の軌条をそれぞれの軌間に応じて敷設したものをいう。それぞれの線路中心が異なりプラットフォームの位置に注意が必要な点、分岐器が複雑になる点、レールの摩耗が左右で異なる点などが欠点。

4) 武庫大橋〜武庫川間は阪神国道線が50年に廃止された後も休止状態を続け、正式に廃止になったのは60年。実働期間が約1年間であったにもかかわらず40年間も休止していたということになる。