日本無軌道電車(花屋敷トロリーバス)
わが国では定着しなかったトロリーバスの黎明期 |
バス停に残る新花屋敷駅の礎石とされる遺構 |
2本のポールを突き立てて右折車などの障害物を器用に避けながら市街地を走っていたトロリーバスの姿を、ご存知の読者はおそらく多くない。トロリーバスは関西で生まれ育ったと言えるが、結局は主要な都市交通機関とはなりえなかった。本稿は、わが国では花開くことのなかったトロリーバスについて、その初期の姿を記録したものである。 |
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図1 上海市内を走るトロリーバス、上海はアジアで最初にトロリーバスを導入した都市であるとともに現存する最古のトロリーバス路線を有する都市でもある(石井 康裕氏撮影) |
ロリーバスとは、架線からとった電気を動力として走るバス。走行中に排ガスが出ないと言う特徴が評価されて、立山黒部アルペンルートの立山トンネル(室堂〜大観峰)と関電トンネル(黒部ダム〜扇沢)で採用された。
トロリーバスは、1882年にドイツのジーメンスが架線にかけた滑車から集電して馬車の車両を走らせる実験をしたのが嚆矢とされているが、わが国では昭和3(1928)年に川西市の花屋敷で開業したのを最初とする。その経営者の田中
數之助は、明治9(1876)年に熊本県天草郡に生まれ長崎の呉服商で奉公したあと大阪の心斎橋に出店し、久留米絣を扱って成功した人。阪急電鉄の創始者 小林
一三に感化を受け、電鉄沿線での宅地開発に乗り出した。大正8(1919)年に「能勢口土地」を設立、翌年に「新花屋敷温泉土地」と改称して川西市満願寺町付近に湧出する温泉を中心とする土地を50万坪も買収し、「新花屋敷」と命名して住宅地の分譲や遊園地の運営を行った。新花屋敷は最寄りの花屋敷駅1)から2km以上も坂道を登らなければならないところにあったので、会社は宅地への訪問者や行楽客の送迎のためにフォードのオープンカーを無賃で走らせていたが、開発を進めるためにはさらに輸送力の大きい交通機関を必要とした。バスや路面電車では新花屋敷までの急勾配を登ることはできないと考え、採用したのがトロリーバスだったのである。高野登山鉄道(現在の南海高野線)に参画していた宇喜多
秀穂を支配人に迎えて建設を行った。
トロリーバスは、法律上は「無軌道電車2)」という位置づけであったが、始めての申請を受けた内務省は「電車軌道条例」を適用するか「自動車取締規則」によるか扱いに困ったらしい。が、
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図2 本社前の転回用ループ線に並んだ日本無軌道電車の車両、前照灯など外観はバスよりも電車に近い(森
五宏氏提供) |
ともかくも昭和2年11月に自動車取締規則に基づく認可がおり、翌年8月から花屋敷〜新花屋敷1.3kmの営業が開始された。社名もこの時に「日本無軌道電車」に改めている。
2両の車両は「日本輸送機製作所」(現在の「日本輸送機(ニチユ)」)が製作した、長さ5.5m、幅1.89m、高さ3.0mの28人乗り。奥村電機製の20馬力
500V電動機2機を搭載し、車輪は直径0.81mのソリッドゴムタイヤ(鉄輪にゴムを貼ったもの)だった。トロリーバスについての知見が乏しく苦労があったようだが、タイヤとベアリングを輸入しただけで、あとは国産の技術で車両を作り上げた。 |
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図3 新花屋敷の開発期の地形図(大正12年測図)におとしたトロリーバスの路線と当該道路の現在の縦断(GPSで測定)、最急部で14%近い勾配であったと見られる |
新花屋敷までの道路は未舗装であったので、拡幅して車両が通る中央付近だけをコンクリート舗装を施した。起点の花屋敷(現在の「花屋敷」バス停付近)では、道路幅が狭いため、ターンテーブルを置いて車両を転回させた。途中のつつじヶ丘駅で離合し、終点の新花屋敷(現在の「長尾台」バス停付近で、田中が開発した新花屋敷まで約800mは歩かなくてはならなかった)では転回のためのループ線を設けた。変電所などの設備は持たず、電気は阪急から供給を受けた。
珍しさから、開通に際して各紙が無軌道電車に紙面を割いた。満願寺でもこれに呼応して盛大な会式が挙げられたと記憶する人もある。このように開業は華々しかったが、実際に運行してみると、片道10銭、往復15銭という高い運賃に加え、ソリッドゴムタイヤであるため振動が激しく、乗客の評判は悪かった。雪の日にスリップして乗客も降りて押すというようなこともあったそうだ。コンクリート舗装が不出来だったようで、路面の陥没が多発し、それがもとでシャフトの折損やギアの破断などの車両故障も相次いだ。
第一次世界大戦(1914〜18)で日本経済はまれに見る成長を遂げたが、大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、輸出が激減してたちまち不景気に陥った。さらに昭和2(1927)年には、関東大震災の手形の焦げつきをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が発端となって昭和金融恐慌となった。このような経済状況では、会社の本来の事業であった宅地分譲は進まず、
行方がわからなくなり 関係者が捜索したが、
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図5 約500mにわたって一定の勾配で登り続ける縦断線形はかなり“軌道的”だ |
遊園地を訪れる観光客もわずかだった。経営はきわめて困難になり、田中は借金に追われた。4年10月28日のニューヨークでの株価大暴落のあとは田中の立場はさらに苦しいものになったようで、11月21日に出社した後
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図4 起点の「花屋敷」バス停、この付近の道路は集合住宅の整備に併せて再拡幅されている |
その日のうちに南海電車大和川踏切で轢死していたことが翌月になって判明した。田中が夢見た壮大な開発構想は潰えた。トロリーバスは7年1月に休業し、4月に路線廃止。営業したのはわずか4年足らずに過ぎなかった。架線柱や舗装は戦後まで放置されていたそうだが、現在は新花屋敷駅の待合室の礎石とされるものが残っているだけである(表題の写真)。 |
本無軌道電車は経営としては明らかに失敗だったが、トロリーバスについて世の関心を高めたことだけは功績だったと言えよう。
トロリーバスが花屋敷から姿を消した昭和7年4月に、こんどは「京都市電無軌条線」が四条大宮〜西大路四条間1.6kmで開業した。こちらは図6に見るように、外観や操縦法はほとんどバスと同じだ。四条通は京都の中心部を東西に貫く道路で、明治45(1912)年に市電が四条小橋から四条大宮まで通じており(大正元(1912)年に祇園まで全通)、昭和6(1931)年には大阪から新京阪線(現在の阪急京都線)が大宮まで地下で乗り入れている。しかし、四条大宮と西大路四条の間には国鉄山陰本線が平面で交差しており、軌道との交差を嫌う国鉄の方針からこの間の市電の許可が下りなかった。
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図6 四条大宮に停車中の京都市のトロリーバス(京都市交通局提供) |
そこで軌道のいらないトロリーバスを導入することとしたのである。なお、昭和33年には西大路四条〜梅津間の市電梅津線を無軌条化し、トロリーバス区間を四条大宮〜梅津間に延長している。
開業時にはトロリーバスの技術がなかったため、最初の4両の車両はイギリスから輸入した。その後、日本車輌、川崎車両、ナニワ工機らが国産車を納入している。当時はディーゼルエンジンのバスは出力性能の点で大型化には問題があったので、電車の技術を活用しつつ路面電車よりも少ない費用で車両の大型化に対応できるとしてトロリーバスが注目されていた。路面電車より騒音や振動を抑えることもできた(トロリーポールが架線からはずれやすいという欠点はあった)。また、戦中・戦後の石油欠乏期にはバスよりも燃料費が安いとして
表1 わが国の都市交通機関としてのトロリーバスの導入実績
都市名 |
トロリーバスの運行期間 |
京都市 |
昭和 7(1932)〜44(1969)年 |
名古屋市 |
昭和18(1943)〜26(1951)年 |
川崎市 |
昭和26(1951)〜42(1967)年 |
東京都 |
昭和27(1952)〜43(1968)年 |
大阪市 |
昭和28(1953)〜45(1970)年 |
横浜市 |
昭和34(1959)〜47(1972)年 |
わが国の諸都市でトロリーバスが採用された。 しかし、自動車の増加につれ、架線の下を優先的に走るトロリーバスは、路面電車と同様に、道路交通の支障になる存在と認識されるようになり、性能のよいディーゼルエンジンを搭載した大型車両が開発されるのに合わせてバスに転換していった。
方、わが国以外(特に中国や中・東欧諸国)では、トロリーバスは排ガスや騒音の点で通常のバスより優れていると評価されており、都市交通機関として主要な役割を果たしているところが多いようだ。 海外ではトロリーバスの技術革新も進んでいる。架線から離れられないという欠点を克服するため、バッテリーや補助エンジンを搭載した車両が開発されている。停留所で止まっている間にパンダグラフを上げて急速充電を行うものもある(90秒の充電で8kmの走行が可能)。これにより、景観のために架線を張れないところに走らせることができるようになり、運行頻度が少なく架線を張るのが合理的でないところに路線を延ばすことも可能になった。もうひとつの技術革新は、モーターを車輪のホイールに装備することなどによる著しい低床化である。これらの結果、トロリーバスを復活したり、LRT3)をゴムタイヤの車両に転換する事例も見られる。 |
(2012.02.07) |
(参考文献) 森 五宏「日本初に賭けた三人の男たち−わが国初の無軌道電車、花屋敷を走る」(橋爪
紳也ほか「熱き男たちの鉄道物語−関西の鉄道草創期にみる栄光と挫折」(ブレーンセンター)所収)
1) 阪急宝塚線の開業(明治43(1910)年)と同時に開設された駅で、東塚 一吉が開発した花屋敷温泉にちなむ命名。請願者が費用を負担した「私駅」の扱いであったらしく、客が合図をすれば電車が止まったそうだ(都市創生交通ネットワーク@関西
代表 森 五宏氏による)。昭和36(1961)年に隣接する雲雀丘駅と統合して「雲雀丘花屋敷」になっている。花屋敷駅は雲雀丘花屋敷駅の約200m東方にあった。
2) 現在は「無軌条電車」と呼ぶ。「無軌道」という語には常識に外れた放埒なさまをさす場合があることが考慮されたと思われる。
3) そもそもの英語のLight Rail Transitの概念は、1972年頃に連邦交通省都市大量輸送局(UNTA)が、利便性が高く低コストな都市鉄軌道システムを探求する中で産み出したもので、地下鉄等の都市高速鉄道よりは輸送力で劣るが、大部分を専用軌道とすることにより路面電車よりは飛躍的に規格を高めたものを指している。ドイツでは、1968年頃から路面電車に対して連接車両の投入・車両の出力向上による輸送力の増大、専用軌道化・信号の改良・都心部での地下化などによる高速化を行ったStadtbahnと呼ばれる鉄軌道システムを導入しているが、これがアメリカで言うLRTに相当するものと考えられる。なお、欧米のいくつかの都市においてトランジットモールの交通機関としてLRTが走る例が紹介されて以来、わが国では、中心市街地の活性化などのために、低床化などのユニバーサルデザイン、騒音・振動の低減、高頻度運転、優先信号による定時性確保等を実現した路面電車を指す用語として定着しているように思われる。
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