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阪湾は古代から畿内と西国あるいは大陸との間で帆船による交流が盛んだった。潮流や風向を調整するための港が各所にあったようだが、阪神間では、「敏馬浦(みぬめのうら)」と並んで「務古水門(むこのみなと)1)」の名が日本書紀に採録されている。万葉集にも、務古水門について「住吉の 得名津(えなつ)に立ちて
見渡せば 武庫の泊ゆ 出づる船人」や「武庫の浦を 漕ぎ廻る小舟 粟島(あわしま)を
そがひに見つつ ともしき小舟」、「朝びらき 漕ぎ出て来れば 牟故の浦 潮干の潟に
鶴(たづ)が声すも」などの歌が、敏馬浦について「玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の
野島の崎へ 舟近づきぬ」や「島伝い 敏馬の崎を 漕ぎみれば 大和恋しく 鶴さはに鳴く」などの歌が収録されている。
奈良時代になって、船舶の航海の安全のため「摂播五泊」が築かれたとされる。これは、延喜14(914)年に三善
清行が著した『意見封事』に記されている事象で、奈良時代に行基が摂津から播磨にかけて5つの港湾をおいたというもの。
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図1 古代における大阪湾及び瀬戸内海西部の主な港津 |
東から河尻泊(大阪市西淀川区)、大輪田泊(神戸市兵庫区)、魚住泊(明石市)、韓泊(からのとまり、姫路市、のちの飾磨津)、室生泊(たつの市、のちの室津)とされている(それより西は、海岸線が複雑に入り組んでおり、天然の良港が備わっていたのであろう)。大阪側の起点が河尻と規定された2)ことで、1日の航海距離から見て次の停泊地は大輪田ということになり、その間に位置する港湾の重要性は低下した。次に阪神間の港湾が注目されるのは、遙かに時代が下って
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図2 樽廻船の模型(西宮市立郷土資料館の展示による)、大きいものは3,000樽を積んだという |
江戸時代のこと。「樽廻船」が登場してからだ。
江戸時代、日本の最大の消費地は、人口に武士の占める割合が高く生産者が少ない江戸だった。物資の集散地は大阪であったから、大阪から江戸に向けて多くの商品が搬送され、物資輸送を担う廻船問屋が活躍した。彼らが使用する船舶は、船主を見分けるために竹を菱形に組んだものを舷側に設けたので「菱垣廻船」と呼ばれる。菱垣廻船は雑多な貨物を混載していたが、酒も主要な積載品であった。ところが、酒を扱う問屋が菱垣廻船から離脱して3)独自の船舶を調達して輸送し始めた(享保15(1730)年)。これが樽廻船である。樽廻船は当初は大阪から出ていたが、阪神間は「灘五郷4)」と呼ばれる酒造地として成長していたから、樽廻船はここから出航するのが有効なのは明らかだった。それに伴って西宮港や今津港の整備の必要性が急速に高まった。
宮港の修築に貢献したのは米穀商の當舎屋(とうしゃや)金兵衛と伝えられ、彼が勧請した住吉神社(西宮市西波止町4-4)に顕彰碑がある。寛政12
(1800) 年に大坂奉行所に西宮港の西側に長さ600間(約1090m)の築提を
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図3 西宮港・今津港とその後背地の現況、寛永5年の今津港開削に係る注記をを付した |
施すことを願い出て認められた。築堤により、西方を流れる夙川(しゅくがわ)からの土砂流入を防ぎ、併せて西南方向からの風波を避けようとしたものと想像される。施工中の崩壊などで資金が枯渇して工事は難航したようだが、計画よりは小規模ながら
一応 築堤はできあがり、西宮は良港との評価を得ることができた。現地を歩いてみると、住吉神社から南にかけて微高地が続いているのが確認され、これが金兵衛の築いた堤の跡かと思われる。参考までに、住吉神社に掲示されている想像図を図4に掲げておく。 |
とにかく江戸っ子は初物が好きというので、この時代、新酒を早く届けることが競争となった。「新酒番船」と呼ばれるもので、決まった期日に各船の代表が送切手を受取るや一斉に走り出して艀(はしけ)に乗って自分の船に急ぎ、戻れば直ちに錨を抜いて帆を揚げた。そして江戸に一番に着くのを競うのである。この新酒番船が出たのが西宮だった。当時の西宮港の繁栄が伺われる話である。
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図4 住吉神社に掲示されている築堤の想像図 |
図5 境内に立つ當舎屋金兵衛の顕彰碑 |
図6 現在の西宮港、ヨットハーバーが賑わう |
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うひとつの今津港は、西宮港より古く寛永5(1793)年に米屋 伊兵衛が再興したとされる。伊兵衛の工事については、従来
詳しいことは知られていなかったが、築港200年を機に西宮市立郷土資料館に保存されていた絵図を調べたところによると(http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001375&post_idx_sel=10029059)、伊兵衛の修築以前は新川と九十川(現在の久寿川)は
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図8 基壇に「文化7年建之、安政5年再建」と刻まれている |
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図7 「湊口再興」を果たした伊兵衛の顕彰碑 |
図3のA点付近で東川に合流していたのを、B〜C間の水路を開削して港湾としたことがわかったという。
水路の先端に建つ今津灯台は、石の基壇と合わせて高さは約6.7m。航行の安全を図るため、大関酒造の5代目長部
長兵衛が文化7(1810)年に私費を投じて創建、安政5(1858)年に6代目文治郎が再建したものだ。大関酒造の丁稚が
毎夜 2合の油を運んで点灯していたと伝えるが、今は電化されている。昭和43(1968)年に海上保安庁から航路標識としての承認を受けた正真正銘の灯台で、
夜になると緑の光を海に投げかけている。現役の灯台としては最古のものとされ、49年には「木造袴腰付燈篭形行灯式灯台」の遺例として西宮市指定重要有形文化財に指定された。
上、樽廻船による物流に対応した西宮港・今津港の整備について見てきたが、そもそも灘五郷が日本酒の主産地となった歴史を概観しておこう。わが国の酒造は僧が中国から学び、儀式に用いるために寺院の中で製法が伝承されてきたとされているが、中世に入って次第に庶民に飲酒が広まるにつれ奈良や京都に多くの造り酒屋が生まれた。その技術が各地に伝搬し、大津・堺・池田・伊丹などでも酒造が行われた。そのうち、日本酒の醸造に革命を起こしたのが伊丹の鴻池
新右衛門。これにはおもしろい逸話がある。鴻池家の下男が叱られた腹いせに灰を酒桶に投げ込んで帰ってしまったが、これを知らずに新右衛門が酒を汲み上げると、昨日まで濁っていた酒がきれいに澄み香味も良くなっていた。下男を問い糺して灰のことを知った新右衛門がこの清澄な酒を生産して江戸に売り出したところ、関ヶ原の合戦を終えて集結していた武士の間で大いにヒットした(慶長5(1600)年)というもの。以来、
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図9 「宮水発祥之地」碑、周辺には各社の井戸が集まっている |
伊丹の酒は「将軍の御膳酒」に取り上げられるなど、最高ランクの酒として高い評価を受けた。 最初は馬で運んでいた伊丹の酒は、やがて小舟で猪名川を下り大阪から菱垣廻船で大量に江戸に運ばれるようになった。しかし、伊丹から大阪まで2〜3日を要し、これを短縮すべく寛永年間(1624〜43年)に雑喉屋(ざこや)文右衛門が伊丹から西宮に移って酒造を始めた。これが灘五郷に酒造家が立地した最初とされる。灘五郷では、背後の山地から流れ落ちる急流を利用して水車を使った精白度の高い精米を行い、長期の保存に耐える「寒仕込み」をいち早く採用するなどしたほか、天保11(1840)年に山邑(やまむら)太左衛門が発見した「宮水5)」により"延びのきく"酒が作れるようになったことなどで、伊丹を圧倒する主産地に成長した(「剣菱」や「白雪」などの伊丹の主要ブランドが灘五郷に移ってきた)。特に、水車の使用による精米の効率化及び杜氏を頂点とする職人の分業と作業手順の標準化は、千石蔵に代表される量産化を可能とした。このような技術の錬磨に加えて、1隻に3,000樽も積める樽廻船による大量輸送とそれを支える港湾整備が、産地としての成長を促したことは既述のとおりである。 |