公団住宅 金岡団地と香里団地を中心に

短期間のうちにデベロッパ
へと変貌を遂げた住宅公団


重森 三玲が手がけた「以楽園」、巨石が大胆に配されている
 第2次世界大戦で主要都市が灰燼に帰したわが国では、都市基盤の再生が遅れがちな一方、個人の生活を確保し経済を再建することが最優先で進められた。それは住宅供給の分野でも同じ。このひずみを克服するために、日本住宅公団は住宅供給者から都市整備を総合的に行うデベロッパーに育っていく。その過程を、金岡団地と香里団地を比較しつつ辿ってみた。

“長
屋”と呼ばれる連棟住宅を除くと、わが国で最初の集合住宅は長崎 軍艦島の坑員住宅であるとされるが、一般的には関東大震災の復興のための義捐金をもとに設立された財団法人「同潤会」が建設したものをいうだろう。同潤会住宅はわが国に欧米風の生活様式を導入する契機になった点で顕著な功績を有するが、戦時体制への移行とともに会は解散、業務は住宅営団に引継がれた。だが、営団の住宅は同潤会住宅とはほど遠い簡素で画一的なものであった。
 戦後、戦災による焼失と復員や引揚げによる世帯の増加により住宅の不足は420万戸とも言われた。国は、住宅を大量に供給する体制を模索した。住宅建設を資金的に支援する住宅金融公庫の設立(昭和25(1950)年)、地方公共団体の公営住宅の建設を補助する公営住宅法の制定(26年)などの施策を講じたが、「地代家賃統制令」(21年)の影響で家賃を低水準に抑えなければならなかったこと等によりその財政的負担は大きかった。そこで、民間資金を導入して企業的に住宅供給を進めることや、居住者の負担は多少大きくなっても良質の住宅を供給する必要性が検討されるようになっ
図1 わが国で最初の公団住宅だった金岡団地、農地の中に忽然と姿を現した(毎日新聞社提供)
た。こうして生まれたのが日本住宅公団(30年設立)だった。
 そして早くも31年4月には、最初の公団住宅として金岡団地(堺市北区東三国ヶ丘町)の入居が開始された。JR阪和線堺市駅から徒歩15分程度の田園に30棟900戸の高層(といっても4〜5階建て)の住宅団地が出現したのだ。折しも日本経済は朝鮮戦争特需により神武景気と呼ばれる高度成長期に入っており、その年の経済白書に記された「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となった。そして、大都市への急激な人口集中が始まり、そこへの通勤圏において住宅の極端な不足を呈していた。このような状況にあって、公団は住宅建設を急がざるを得なかったのである。
 先に述べた事情で公団住宅は公営住宅よりも高めの家賃が設定されていたので、いくつかのセールスポイントを設けてサラリーマン層へのアピールを図った。そのひとつが「寝食分離」である。当時は、畳の部屋にちゃぶ台を出して食
図2 初期の公団住宅の間取り、「寝食分離」の目的どおりに使ってもらおうと食事室にテーブルを備えつけた(55-3・4N-2DK型、出典:「日本住宅公団十年史」)
事をし、それを片付けて布団を敷いて就寝するのが普通であったが、公団は、台所を併設した食事室(Dining Kitchen)で食事をとり寝室で就寝するというという生活スタイルを持ち込んだのだった。この間取りはすでに西山 卯三1)により発案されていたが、公団はこれを大々的に採用し、今に至るもわが国の住宅の間取りの基本となっている。また、当時はジントギと呼ばれる人造石の流し台が主流だったところ、公団住宅ではステンレス流し台を設置したほか、入浴は銭湯、便所は共同というのが賃貸住宅では一般的であったのに公団は全戸に水洗トイレ(金岡団地の場合は和式だがその後早い段階に洋式が取入れられた)やガス風呂を採用するなど、先駆的な試みを示した。住棟の配置においても、北側に階段室をもつ住棟と南側にもつ住棟を対面させてその間の空間に遊具等を置いて住民のコミュニティ形成を促進する工夫などが順次導入された。このような公団住宅は核家族のサラリーマン層のあこがれの的となり、応募者が募集の10倍から20倍にも達したという。 
際に入居が始まると、いろいろな課題が見えてきた。初期は、気密性の高い鉄筋コンクリート造住宅に住み慣れない住民から冬季の結露が雨漏りと誤解されたり、上階の音響に下階の住人が悩まされる などの問題が指摘されたが、次第に 団地の持つ本質的な問題が露呈されてきた。
 公団の開発力は抜群であったので、受け入れた自治体の学校・道路・上下水道などの公共施設の整備やゴミ収集などの公共サービスが追いつかず、自治体は極めて困難な対応を強いられた。また、団地の住民は、従来の地縁的なつながりを残した地域社会とは異なる生活態度を有しており、自治体が経験したことのないさまざまな都市的サービスの要求を率直に突きつけた。公団は各地で精力的に住宅供給に取り組んだのだが、これがかえって自治体からの「公団の建て放し」という批判を拡大し、「団地お断り」を表明する自治体が続出した。住宅団地が地域の総合計画の中に位置づけられそれを受け入れる見通しが立つ前に、緊急に整備されたことが問題の本質であったと考える。このような自治体との不調和の問題は、実は公団を設立する段階からある程度 懸念されていたのだが(「日本住宅公団十年史」p127)、自治体のエリアで計画される公営住宅では解消できない都市圏レベルでの住宅不足に対処する必要からあえて公団が設立されたのだから、公団がこれらの課題を解決することなしにその使命を果たせないのも明らかだった。
 表1 昭和30年代における公団による住宅供給(大阪支所管内で500戸以
 上の規模のもののみ表示)
団 地 名 所  在  地 種別/戸数 入居開始
金岡 堺市北区東三国ヶ丘町 賃貸 900 昭和31年 4月
中宮第二 枚方市中宮北町 賃貸 606 昭和31年 8月
寺本 伊丹市寺本 賃貸 568
分譲  32
昭和31年11月
千里山 吹田市千里山星ヶ丘 他 賃貸 724
分譲 337
昭和32年 2月
出来島 大阪市西淀川区出来島 賃貸 882 昭和32年 3月
関目第二 大阪市城東区古市 賃貸 960 昭和32年11月
東長居第二 大阪市住吉区長居東/苅田 賃貸 594
分譲  76
昭和33年 2月
旭ヶ丘 豊中市旭丘 賃貸 1493
分譲 110
昭和33年 4月
中百舌鳥 堺市北区中百舌鳥町 賃貸 908 昭和33年 7月
香里 枚方市香里ヶ丘 賃貸 4883
分譲  22
昭和33年11月
池田 池田市八王寺 賃貸 868 昭和33年11月
都島 大阪市都島区大東町 賃貸 778 昭和34年 4月
東淀川 大阪市淀川区東三国 賃貸 1166 昭和34年 7月
仁川 宝塚市仁川団地 賃貸 898 昭和34年 9月
春日丘 藤井寺市春日丘 賃貸 737 昭和35年 2月
東舞子 神戸市垂水区舞子台 賃貸 564 昭和35年 6月
東豊中第一 豊中市東豊中町 賃貸 1524 昭和35年 7月
助松 泉大津市助松団地 他 賃貸 1510 昭和36年 5月
総持寺 茨木市総持寺台 他 賃貸 1792 昭和36年 6月
阪南 大阪市阿倍野区王子町 賃貸 512 昭和37年 4月
緑ヶ丘 池田市緑丘 賃貸 1130 昭和37年 6月
観月橋 京都市伏見区桃山町泰長老 賃貸 540 昭和37年 8月
西武庫 尼崎市武庫豊町 賃貸 1842 昭和37年 8月
浜甲子園 西宮市枝川町 賃貸 4612 昭和37年10月
鶴舞 奈良市鶴舞西町 賃貸 1518 昭和37年10月
白鷺 堺市東区白鷺町 賃貸 1611 昭和38年10月
向ヶ丘第二 堺市西区堀上緑町 賃貸 578 昭和39年 7月
千里津雲台 吹田市津雲台 賃貸 930 昭和39年 8月
て、枚方市南部の丘陵地に、火薬を製造していた東京第二陸軍造兵廠香里製造所の155haにのぼる広大な敷地があった。民間の火薬製造会社が払い下げを申請したところ、住民から猛烈な反対が起こり、国は工場の再開を断念して、この土地を公団に現物出資して住宅団地として開発させることとした。香里団地である。32年3月に地鎮祭を催行、公団が行う最初の区画整理事業として団地の造成が開始された。都市計画に定められた幅員20mの幹線道路が整備され、これに沿って5つの賃貸住宅地区を設定して中層住宅を配し、その背後の高台にはテラスハウスや低層住宅を配するなど、地形を生かした居住性の高い住宅配置が図られた。公団は22棟のモデル住宅を建築して一般分譲宅地の購入者の参考に資するとともに、当時としては珍しかった建築協定により、閑静な環境を作り上げている。近隣住区ごとに集会所などのコミュニティセンターを置き、また、団地の中心部に住民へのサービス機能を集約した「センター地区」を配して百貨店ブランドのショッピングセンター・公設市場・店舗付住宅などの商業施設と診療所・市役所支所2)・管理事務所などを設け、併せて公園・運動場も置いた。開発規模の大きさは当時「東洋一のマンモス団地」と呼ばれ、総合的なまちづくりは 当時「香里ニュータウン」と通称された。この近隣住区により住宅団地を構成する考え方は西山 卯三が提案したものとされており、千里ニュータウンなどその後のニュータウン計画に継承されている。ニュータウン計画の先駆けとなった「香里住宅団地計画」は日本都市計画学会石川賞(計画設計部門)を受賞した(35年)。

図3 香里団地の計画図、幹線道路に沿って公団の賃貸住宅がその背後には社宅等と2359戸分の分譲宅地が用意された(出典:大阪府高等学校社会科研究会「大阪の地理資料」)

図4 完成間近の香里団地、住棟が余裕をもって配され都市計画道路や都市計画公園が整備されている(出典:「日本住宅公団十年史」)
 早くも33年には第1次の入居が始まっている。香里団地には多田 道太郎3)らの文化人も移り住み、彼らが中心となって「香里ヶ丘文化会議」が発足するなど、きわめてハイソサイエティな雰囲気であった。これを羨む「団地族」という呼び名も生まれた。ロバート・ケネディ司法長官夫妻が視察したり、サルトルとボーヴォワールが来訪したことも香里団地の評判を押し上げた。
 香里団地には16の公園があるが、そのうち最も美しく手入れされているのは「以楽園」(標題の写真)。昭和の天才作庭家と言われた重森 三玲4)(しげもり みれい)が手掛けた池泉回遊式の日本庭園で、池を中心に整備された散策路が年に2回 一般に公開される。三玲はほぼ独学で造園を究め、東福寺方丈庭園(京都市)、光明院波心庭(京都市)、岸和田城八陣の庭(岸和田市)、志度寺無染庭・曲水庭(さぬき市)、龍吟庵庭園(京都市)、福智院庭園(高野町)、松尾大社庭園(京都市)などの作品を残している。豪放な石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴だ。彼が都市公園にタッチするのは極めて異例。このことだけでも、当時の公団住宅のステータスを充分に現して余りない。
 開発地をゾーニングして住宅と店舗などのサービス施設を配し、併せて行政と連携して道路・公園・上下水道5)などの都市施設を都市計画事業でもって整備することにより、既存の都市機能に依存せずに住宅を供給した香里団地の成功で(これが成功したのは、折からのマイホームブームで、事業費が宅地分譲により回収できたことが大きい)、この手法に自信を持った公団は、ひばりが丘(西東京市・東久留米市、34年竣工)や常磐平(松戸市、35年竣工)などの郊外型大規模団地を次々と手がけ、これが38年の新住宅市街地開発法の制定へとつながっていくのである。
を経るにつれ、初期の公団住宅には住民の生活実態にそぐわない点が目立つようになってきた。その最大の問題点は、「うさぎ小屋」と酷評される公団住宅の狭さである。住宅に困窮していた時期には大量の住宅を早期に供給することが優先された公団住宅であったが、それなりに居住が安定してくると、2DKでは親子の間や子どもでも性別により寝室を分ける「適正就寝」の困難が認識されるようになった6)。次に言われたのは、5階までの中層棟にエレベータが設置されていないことである。そのため、妊産婦や幼児の外出に支障をきたした。最近では居住者の高齢化による外出困難も顕在化している。第3点は駐車場の不足である。当時は住民の足は公共交通機関と考えられていたため、戸数に比べて駐車場が少なかった。自家用車の普及に伴って駐車場が極度に不足し、児童公園などを駐車場に転用する例が続出した。団地内の店舗にも駐車場は整備されていなかったため、周辺道路に車が並んだ7)
 このような生活様式の変化と建物の老朽化に対応するため、賃貸住宅の建替えが 順次 進められている。金岡団地ではすでに住棟の建替えが完了し、「サンヴァリエ金岡」と改称して1DKから4LDKまで694戸が賃貸に供されている。公
図5 高層棟に建ち替わった「サンヴァリエ金岡」、オープンスペースも確保されている 図6 「サンヴァリエ金岡」の一角にあるモニュメント、2LDKは現在の感覚ではいかにも狭い
図7 街路樹が大きく育って豊かな景観を呈する香里団地のメインストリート「けやき通」 図8 香里団地のセンター地区はコミュニティの中心としての役割を果たしている
団住宅第1号であることのメモリアルとして、当時の生活を再現したモニュメントを構内に設けた。
 香里団地では平成4(1992)年から建替え事業を始め、現在 A〜C地区がそれぞれ「香里ケ丘みずき街」(1DK〜4LDK、437戸)、「香里ヶ丘けやき東街」(1DK〜4LDK、773戸)、「香里ヶ丘さくらぎ街」(1DK〜4DK、205戸)として、建替えた住棟を賃貸に供している。D地区は近々建替えの予定であるようで、期限付きの賃貸に供している。なお、建替えに当たり敷地の一部を民間に売却してその資金とした。
図9 香里団地に残るスターハウス
 残っているD地区の一角に図9のような「スターハウス」が4棟ある(D37〜40)。1フロアに3戸を3方にY字型に突き出したように配置した集合住宅で、プライバシーや採光性に優れている。図1、図4にも見ることができるように、昭和30年代には各団地の中央部に建設され、「団地の花」とも称されたが、建築費が高くつくというのでその後は採用されなかった。最近、これを公団住宅の価値として見直して保存しようとする動きが各所で起こっているようだ。
  
 (2011.12.19)

1) 西山卯三(にしやま うぞう、明治44(1911)〜平成6(1994)年)は、大阪市此花区に生まれ京都帝国大学建築学科に学ぶ。在学中マルクシズムに共感する。卒業後、建築設計事務所勤務を経て同潤会研究部に所属したこともある。19年に母校の講師に就任し、22年に出版した「これからのすまい」において、庶民が食事の場所と就寝の場所を区分している生活実態を明らかにし、「寝食分離」の原則を打ち立てた。香里団地の基本計画にも関与している(野外劇場を設けるなど斬新な提案だったが実現した部分は少なかった)。教授に昇格するのが36年と遅れたのは組合活動のためだったともいう。市電の存続運動にも熱心だった。

2) 香里団地の公共施設には火薬製造所の建物を転用しているものがある。診療所(「病児保育室」として営業中)は収函室であった。また、公設市場(「こもれび生活館」と改称)は仕上室、市役所支所は化成・混和・充填室であったが、いずれも建て替えにより除却されている。また、第三汽缶場の煙突が妙見山配水場に残されている。

3) 大正13(1924)年に京都市で生まれ、京都大学文学部を卒業後、人文科学研究所助手などを勤め、昭和51年に教授に就任。フランス文学、特にボードレールが専門だが、関西文化や日本人論などにも多くの著作を残した。平成19(2007)年、83才で死去。

4) 重森三玲(明治29(1896)〜昭和50(1975))は、岡山県に生まれ大正6(1917)年に画家を志して上京するも大成せず、昭和4(1929)年に京都に移って華道・茶道を学びながら造園を独学した。14年に「日本庭園史図鑑」26巻を上梓して庭園研究家として名をなし、併せて東福寺方丈庭園などを手掛けた。旧宅(京都市左京区吉田上大路町)は「重森三玲庭園美術館」として公開されている。

5) 枚方市で最初の下水道が導入されたのが香里団地だったので団地の東北端に下水処理場が設けられた。現在は市域一円に下水道網が整備され、団地内の処理場は廃止されている。

6) 1戸あたりの面積を変えずにこの問題に処するため、公団では3Kという間取りも案出したが、あまり上手くいったとは言えない。

7) 公団の開発地の周囲に寄生的に民間の住宅開発が進んだことも、団地内の店舗がパンクした要因である。