山陽電鉄 兵庫〜西代

軌道から鉄道への厳しくも遠い道のり

山陽電車が走っていた永沢線の現況、奥に見えるビルの位置に兵庫駅があった
 昭和43(1968)年4月6日、満員の乗客を乗せた西代(にしだい)行き最終電車が山陽電鉄兵庫駅を出発した。多くの鉄道ファンに見送られて車庫に入ったその電車は2度と兵庫駅に戻ることはなかった。翌日、兵庫〜西代間は廃止され、山陽電鉄は西代から神戸高速鉄道に乗り入れることとなったからである。ターミナルの放棄という代償を払って、都心乗り入れと他私鉄との連絡及び路面線の解消という課題を解決した同社の歩みを概観した。




「山
陽電気鉄道(以下、「山陽電鉄」という)」の前身は明治40(1907)年に設立された「兵庫電気軌道(以下、「兵庫電軌」という)」。これに先立つ38年に「兵庫電気鉄道」と「明神電気鉄道」がそれぞれ兵庫と明石の間の電気鉄道を申請していたが、両者は協議して新たに「兵庫電気鉄道」の申請を行い、39年に認可された。翌年に会社を設立して社名を兵庫電軌とした。会社はただちに測量に着手したが、数カ所で住民の反対にあってルートの変更を余儀なくされるなど建設は遅れ、結局 第1期として兵庫から須磨まで5.5km(うち兵庫〜西代間2.5kmは併用軌道(路面線))を43年3月15日に開業した。長田、西代、板宿、大手、月見山、須磨寺の6駅を途中に設け、所要時間16分で5分間隔の運転だった。姫路まで直通する現在の山陽電鉄と異なり、市内だけの路線を持つ小規模な電鉄としてのスタートだった。
 一方、神戸の市内電車としては、すでに26年に「神戸電気鉄道」と「兵神電気鉄道」の2社が出願していたが、始め神戸市は「市街狭隘にして高低迂曲甚だしくしかも海陸百貨出入り頻繁なる都市において直ちに之を敷設するは危険少なからず」と消極的意見が支配的だった。やがて先発の大阪市電が好評であったことから市内電車の是非が改めて検討されるようになり、「市街地電気鉄道敷設調査委員会」は市営で行うことが適当との報告を上げたが、市は財政上の理由から条件付きで民営とすることを決した。その条件とは道路・橋の使用料と市税を免除する代わりに純益の5%を市に納付すること、市が必要と認めた時は会社は買収に即応すること、だった。この方針を受けて従来から出願していた2社に加えて3社が出願して激しい争いとなったが、出願者と資本金を増やして再出願した「神戸電気鉄道(以下、「神戸電気」という)」が免許を獲得。1号線として春日野道から瀧道(現在の「三宮・花時計前」に相当)、楠公前を経て兵庫駅前まで5.8kmを43年4月5日に開業した。
図1 大正2年頃の敦盛塚駅(現在の須磨浦公園駅近くの国道上にあった)付近(出典:参考文献1)
最初の出願から17年が経過していた。
 ひと月足らずの間をおいて兵庫電軌と神戸電気のターミナルが接することとなった兵庫では、両社は、互いの路線の競合を避け将来は連絡運転(相互乗り入れ)も視野に入れた協定を42年に結んでいたが、所期の路線を完成させられなかった兵庫電軌の経営は思わしくなく、想定していた相互乗り入れは実現しなかった。経営の確立のため、兵庫電軌は第2期線とされた須磨〜明石間の建設を行うこととした。用地買収の難航、須磨にあった御料地の借用問題、舞子公園の景観問題などのために事業は遅れたが、一部経路変更を行ったうえで45年7月に一ノ谷まで、大正3(1913)年5月に塩屋まで、6年4月に明石まで開業させ、乗客数・収入とも大幅な増加を見ることができた。
治39年に山陽鉄道を国有化した国鉄は神戸市を東西に貫通する路線を有することとなったが、私鉄は各社がそれぞれターミナルをもっている状況であり、それらを結ぶ路線が求められていた。兵庫電軌と神戸電気が兵庫で接していたことはすでに記したが、
38年に三宮まで達していた「阪神電鉄」も、大正元年に瀧道まで延伸して神戸電気との連絡を図った。瀧道では一部の施設が共用されたようだが乗り入れは行われなかった。そのため、私鉄で東西を貫通するには兵庫と瀧道の2箇所で乗り換えが必要であり、とても国鉄にかなうものではなかった。
図2 昭和5年と30年の神戸市における鉄軌道網
 そのころ、経営を巡る対立から兵庫電軌を退いて明石〜姫路間で電鉄を建設していた「明姫電気鉄道」(後に「神戸姫路電気鉄道」(以下、「神姫電鉄」という)に社名変更)が、兵庫電軌に対抗して明石から板宿を経て湊川までの高速鉄道の路線免許1)を受けた(大正9年)ことで、湊川が東西私鉄の結節点になるものと注目されていた。阪神電鉄に次いで神戸に来た「阪急電鉄」も湊川まで行くことを視野に入れていたが、大正9年に営業を開始したときのターミナルは上筒井(神戸市中央区坂口通2丁目、現存せず)だった。阪急は高架で都心に乗り入れたかったが、神戸市は地下での乗り入れを主張したので国も認可を保留したのであった。だが、国鉄が三ノ宮〜兵庫間で高架化を計画したことで、神戸市も阪急の高架案を拒否することができなくなってしぶしぶ承諾。昭和11(1936)年4月、阪急はようやく念願の三宮進出を果たした。高架構造にこだわったため、三宮に到達するのに15年も要してしまったのである。
 一方の阪神電鉄も湊川への延伸を考えていたが、そのためには春日野道以西の路面線を専用線に改良するのが先決として三宮までの高架化を計画した。ここでも神戸市は地下案を主張したが、阪神は三宮以西への延伸をスムーズに進めるためには市の意向に添うのが得策と判断し、岩屋から地下に潜って三宮に達する計画に変更して昭和8年に開通させた。新線の地表部には国道が建設され、磯上通を走っていた市電(神戸電気は大正6年に神戸市に引継がれている)が移ってきた。続いて阪神電鉄は三宮から湊川までの特許を得て元町までの延伸工事に着手し、11年3月に完成させた。阪急の西伸を阻止するためには少しでも早く実績を作っておこうとの判断であった。
 経営陣の対立から競合していた兵庫電軌と神姫電鉄は、電力会社であった宇治川電気に次々と買収され、同社の電鉄部として運営された(昭和8年に山陽電鉄として分離)。電圧の違いなど困難はあったが、昭和3年からは兵庫〜姫路間の直通運転が開始された2)。旧兵庫電軌が建設した区間にも郊外電車が走るようになり、多かった路面線の専用化
図3 兵庫電軌の建設当初の専用軌道区間と併用軌道(路面線)区間
が求められた。須磨以西の兵庫電軌線は大部分が国道2号の上を走っていたが、当時の国道は線形や路面状態が悪いため、レールや車両の損耗が激しく、会社にとって負担となっていた。また、軌道外の道路幅は約3.6mしかなく、国道の交通量が増えるに従って混雑や事故も増加していた。大正12(1923)年からの神戸市須磨境川〜明石市大明石間の国道改修に際して、道路管理者である兵庫県と会社が費用を分担して専用化を図ることとされ、昭和3(1928)年には山田(現在の西舞子)〜大蔵谷間の併用軌道を国道と国鉄線の間に移設して専用化、7年には東塩屋〜東垂水間を国鉄線の北側の高台に移設して専用化した。この結果、東塩屋〜明石間はすべて専用軌道となったが、須磨〜東塩屋間の専用化は鉢伏山付近の御料地の払い下げ、須磨浦公園付近の地下通過の要求などから難航した3)
 以上のように専用化に努めたところであったが、兵庫〜西代間は路外に軌道敷を得るのが困難で、最後まで路面線として残ってしまった。この解消のためにも板宿から湊川への路線は現実味が高まるように思われたが、世の中は戦時色が強まるばかりで、資材の不足が顕著になってきた。山陽電鉄は昭和15年になって免許の更新を断念した。
 東から湊川を目指していた阪神電鉄は免許は維持していたものの将来が見えない中での建設続行を断念。阪急電鉄は三宮以西の特許が取れないままであった。このように、私鉄各社はそれぞれのターミナルを結ぶことができないまま終戦を迎えるのである。
戦直後の20年11月に設置された神戸市復興本部は、「神戸市復興基本計画要項」に「国有、市営及び私設鉄道、軌道網を再吟味し、山陽、神有(現在の神戸電鉄)、阪神、阪急各電鉄の連絡及びこれらと国鉄各駅の連絡を図ると共に、新に市内を東西に貫通する地下式高速度電鉄を敷設し、東部及び西部の郊外住宅地域と都心部を直結せしむるよう計画するものとす」と記した。そして23年には、建設省、運輸省、兵庫県、神戸市と4私鉄から成る「神戸高速度鉄道協議会」において路線を検討し、阪急・阪神・山陽の各社を直結する東西連絡線を市内中心部を貫通する中央幹線道路や多聞通・大開通を利用する地下式で建設する(ただし、西代〜板宿間は高架)こととした(神有連絡線は湊川の北で分岐し高架で国鉄神戸駅に至ることとされ、24(1949)年に同社は湊川〜国鉄神戸間の免許を取得している)。
 この構想に基づいて、27年には神戸市が板宿〜三宮間の免許を取得した。これにすでに阪神電車が有している元町〜湊川間の免許のうち元町〜神戸間を利用して、29年4月に1号線(元町線)阪神元町〜高速神戸間、2号線(三宮線)阪急三宮〜高速神戸間、3号線(板宿線)山陽板宿〜高速神戸間、4号線(湊川線)神戸電鉄湊川〜国鉄神戸間 が都市計画決定された。会社設立の準備は直ちに始められた。この時の目論見書では、路線の西端が板宿ではなく西代となっている。資本金8億円のうち2億円は神戸市が出資することとなっていたので市議会に諮られたが、官民の共同経営の困難さ、国鉄との競合、さらには4号線の高架形式の是非まで議論が及び、公聴会を経て「神戸高速鉄道株式会社」が設立されたのは33年だった。さらに、相互乗り入れ協議が成立して工事に着手したのは37年。当初、41年の開通を目指していたが、神戸駅に高架で乗り入れるとしていた4号線を新開地で3号線とT字型に接続する地下式に変更する提案が出されるなどして、完成は43年にずれ込んだ。戦後の早期に復興計画の一環として構想された割には、20年もの時間がかかってしまった。
図4 長田で市電(左)と交差する山陽電車、交差部は無電区間になっており右折する自動車などのためにここで停車すると自力では動けなかった(出典:参考文献2) 図5 廃止直前の兵庫駅、昭和27年に市の都市計画事業で北側に移転したもの、手前に市電の軌道が見える(出典:楠本利夫ほか「神戸市今昔写真集」(樹林社))
 神戸高速鉄道が開業して、山陽電車は西代から地下に入り神戸高速鉄道線を経て阪急線・阪神線に乗り入れるようになった。これにより山陽電鉄は兵庫〜西代間2.2kmの路線と兵庫駅・長田駅を廃止。こうして、山陽電鉄は営業開始から58年余りでターミナルとしていた兵庫から撤退することになり、懸案であった路面線の解消という課題は神戸高速鉄道への移転という形で実現したのである。兵庫駅の跡は「神戸市立兵庫勤労市民センター」となり、スーパーなどが入っている(表題の写真)。また、山陽電鉄の新しいターミナルは西代ということになるが、これは管理の区界という意味しかなく、同駅で折り返す列車はなく優等列車は通過するという状態で、ターミナルらしさは全く感じられない。

 図6 山陽電鉄の起点部の変遷(点線は地下区間を示す)
図7 西代駅の西方から北西に延びる山下線、写真にある板宿方面行きの車線が山陽電鉄の跡、上方の高架橋は県道神戸明石線(大道通)

 なお、神戸高速鉄道に取り残された形の西代〜板宿間の連続立体交差事業は、昭和52(1977)年に地下式で事業認可を受けて着手した。板宿地区の区画整理事業や阪神高速道路神戸山手線建設事業との関連で工期がかかり、平成7(1995)年に完成した。完成の直前に阪神淡路大震災が起こったが、大開駅が陥没するなどして列車が運休している間に工事を急ぎ、同年6月18日に運転を再開したときには地下線に切り替わっていた。地表部は震災後ただちに仮設住宅が建てられた。現在は仮設住宅はきれいに除却されて、都市計画道路山下線としての整備が完了している。 そんなこともあって、山陽電鉄の兵庫〜西代間の路面線はもとより西代〜板宿間の地表線も、
図8 大道地区における県道神戸明石線(大道通)の断面
痕跡を見ることはない。県道神戸明石線の地下には、神戸山手線(図8 A)のほかに、神戸高速鉄道の列車が現に走っている板宿まで続く地下線の函体(B)と、震災まで列車が走っていた函体(C)がある。CはBが使われるようになってからもしばらくは単線の作業線として存置されて西代駅付近で地表に出ていた。その開口部くらいは今でも手がかりが見つかるかと思って現地を訪れてみたが、震災から17年を経た今日では、それすらも周辺の復旧・復興事業の中で全くわからなくなっていた。西代にあった車庫も家電量販店やスーパーが入った複合ビルに替っていた。
(2011.11.21) 
(参考文献)
1. 山陽電気鉄道瓦山陽電気鉄道65年史」
2. 山陽電気鉄道瓦山陽電気鉄道百年史」

1) 兵庫電軌は、姫路までの延伸事業が同社の経営に与える影響を回避するため、別途「明姫電気鉄道」という会社を立ち上げて免許を申請した。同じように明石〜姫路間の免許を申請していた播州鉄道(現在の加古川線に相当)は、兵庫電軌に対して敵対的買収を仕掛けて同社の経営を掌握し、神戸〜姫路間を一括して営業することをねらったが、免許は兵庫電軌の旧経営陣が健在だった明姫電気鉄道に下りた。明石〜姫路間の免許を得た同社は「神明電気鉄道」を設立して湊川〜明石間の免許を受けるのにも成功した。これは兵庫電軌とは異なり、1,500Vを採用するなど高速での運行が可能な規格であった。同社は神明電気鉄道の免許を買収して社名を神戸姫路電気鉄道と改め、兵庫電軌と競合しない明石〜姫路間を優先的に建設して大正12年に開業している。なお、神明電気鉄道が取得した免許は、その後の兵庫電軌線の専用軌道化に伴い大部分は返上を命じられたが、板宿〜湊川間だけは残された。そのルートは、板宿付近から観音山の山麓を経て、地下で長田町に向かい湊川公園まで至る路線であった(参考文献1、2による)。
明石市内における旧兵庫電軌線と旧神姫電気鉄道線の統合の経緯 旧兵庫電軌明石駅前駅の2段乗降場(「山陽電気鉄百年史」より転載)

2) 兵庫電軌と神姫電気鉄道は電圧や車両の大きさが違っていたので、本格的な直通運転までの暫定措置として、とりあえず両者の駅を統合して乗り換えの利便を高めることから始められた。すなわち、旧神姫電鉄線から分岐して旧兵庫電軌線の明石駅前駅に至る連絡線と、同駅に高低差のある乗り換えホームを設け、乗り換えによる接続運転を昭和2年12月より開始した。その後、直通運転のために旧兵庫電軌線の線路曲線・勾配の整正、橋梁の補強、抵触支障物の移転、乗降場の改良が進められた。電圧の変更は困難であったことから、複電圧装置を搭載した車両を新造した。それには路面駅での乗降のための昇降タラップもついていた。このようにして3年8月から直通運転が開始された。その後、路面線の専用軌道化(後述)の一環として旧兵庫電軌線の付け替えが行われ、6年12月からは旧神姫電気鉄道の跡地に新しい明石駅前駅が設けられ、旧兵庫電軌線の明石駅と明石駅前駅は廃止された。

3) 戦時中の資材・労働力の不足もあって、上り線が20年、下り線が21年までずれ込んだ。