新川運河・兵庫運河
兵庫の発展に私財をなげうった人々の記録
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プロムナードとして再生した新川運河
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兵庫が古く遣隋使の時代から外国との交流拠点となっていたのに対し、神戸は日米修好通商条約に基づいて慶応3(1868)年に開かれた港である。ところがその後、神戸が発展していくにつけ、兵庫の商人たちは、それまでに蓄えた財を投じて兵庫の復権のために活動した。その一例が新川運河と兵庫運河の開削である。 |
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清み 浦うるはしみ 神代より 千船の泊つる 大輪田の浜」と万葉集に歌われるほど古くからにぎわった兵庫の港。和田岬の北にあって西風を遮るのに都合よく、いかりをおろすのに適した底質にも恵まれていた。しかし、東南から入り込む風や波には弱く、嵯峨天皇や平
清盛をはじめ幾多の為政者による修築にもかかわらずこの欠点は解決できなかった。また、和田岬沖を旋回する航路は、風向きの変化が大きく水深が浅いため、難所とされていた。
江戸期、兵庫は北前船のターミナルとして繁栄した。それまで奥羽や北陸から京・大坂に運ぶ物資はいったん敦賀か小浜に上げ、馬で山を越えて琵琶湖を船で運び、大津で再び馬に積み替えるというものだったが、これでは船と馬の輸送ロットの差が大きすぎて船の効率性を生かせなかった。そこで、大阪の淀屋
个庵(かいあん)、兵庫の北風 彦太郎により、奥羽・北陸地方から関門海峡を経由して兵庫に至る航路が開拓されたのである。それから1世紀、高田屋
嘉兵衛は
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図1 開削された当時の新川運河(キャナルプロムナードに掲示された明治14(1881)年当時の地図 |
兵庫を拠点に巨船をしたてて北海道から千島にまで交易を広げるほどになった。このように兵庫の港が盛んになるにつれて風波の難を受ける船も増加し、明治3(1870)年の暴風雨では、難破船280隻、死者・行方不明者40人という被害であった。
れを案じた当時の兵庫区長 神田 兵右衛門(天保11(1841)年〜大正10(1921)年)は、兵庫県及び小西 新右衛門(伊丹にあった「白雪」の醸造元)、北風 荘右衛門から5万円の資金提供を受けて「新川社」を設立し運河の建設にとりかかった。兵右衛門は、当初、駒ヶ林から兵庫までの運河を計画していたが、私財をなげうって努力し12万円をかけても兵庫港を取り囲む半円形の運河しか完成できなかった。これを新川運河と呼ぶ。工事中に多くの石材や木材が掘り出され、清盛が築いた大輪田泊の遺構ではなかったかと考えられている。この運河は初期の計画に比べれば小規模なものではあったが、荒天時に船舶が避難するのにたいへん有用であった。なお、兵右衛門は県議会議員や市会議長も務め、死去に当たっては神戸市で初めての市葬が営まれた。
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図2 地元の人々が懇願して戦時中も金属供出を免れた八尾善四郎像 |
とはいえ、やはり和田岬を迂回する運河の必要性は高かった。この仕事を継いだのは、和田岬に住む八尾
善四郎という人である。彼は船頭から身を起こし鳴門で内国貿易に従事して財をなしたと伝えられる。明治26(1893)年、善四郎は数名の共同事業者とともに「兵庫運河株式会社」の設立を企画。翌年、県は開通後50年間は船が運河を利用する料金を徴してよいことなどを条件に許可した。折しも日清戦争が勃発し、25万円余を見込んでいた工事費は物価高騰により60万円を超えた。地主の反対も強かった。一緒に事業を始めた仲間が離反していく中で、善四郎だけは最後まで事業を遂行し、明治32(1899)年、本線1,800m、支線760mの兵庫運河を完成させた。わが国最大規模の運河である。この完成により海難事故が減少しただけでなく、船舶の航行や貨物の陸揚げが合理化され、年間 船舶5万隻、いかだ1万連がこの運河を利用したという。運河沿いに新たな工場が立地するなど兵庫の発展にも貢献した。この事業により善四郎は財産をすべて失ったが、彼の功績を記念する銅像は、今も高松橋から運河を見守っている。
図3 高松橋から望む兵庫運河、右が新川運河に繋がる本線、左が兵庫駅に達する支線
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図4 100年以上たった今も現役を続ける和田旋回橋、れんが造りの橋脚に明治の面影が感じられる |
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図5 新川運河・兵庫運河周辺の現況 |
庫運河の中ほどにあるJR和田岬線の「和田旋回橋」は、運河の建設と同時にかけられたと考えられ(和田岬線の開業は明治23(1890)年)、今は固定されているものの、わが国に現存する最古の可動橋である。新川運河・兵庫運河には多くの可動橋が架設されていたが、運河の衰退とともに次々に失われていった。
では港湾施設としての役割はほぼ終えた状態にあるとはいえ、運河はまさに兵庫の歴史を象徴する遺産として生き続けている。平成5(1993)年から神戸市の手により新川運河に公園や遊歩道が整備され、キャナルプロムナードの名で、人々の憩いの空間として新たな命を与えられたのである。私が訪れた時も、近くの人が鳥たちにえさを与えながらくつろいでおられた。空の青さをそのままに受け止めて輝く水面は、ゆったりと穏やかにたゆたっていた。
(2008.07.01)
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